旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

病気を通して感じたこと

梅雨に入り、蒸し暑い日が続いています。

気温や湿気など、環境の変化から体調を崩してしまいがちですが、私もここ2ヶ月ほど体調が優れない時期が続いておりました。

 

始まりは4月下旬、咳が止まらなくなりました。最初はコロナかと思いきや、検査結果は陰性。しばらく対症療法で様子を見ることになりました。

しかし1週間、2週間、3週間と時間が経過しても一向に良くなりません。

空咳から痰がからむ咳に変化し、鼻水も出てしまい、遂には熱を出して寝込んでしまうこともありました。

定期的に病院に通いつめても原因は分からず、耐え凌ぐ日々が続きました。

私にとって34年間の人生の中で、ここまでこじらせたのは初めての経験でした。

やらないといけないことは山積みなのに、何も進まないことに焦りを覚えていた私は、気持ちが落ち込んでしまいました。

 

体調を崩す中で一番辛かったことは、味覚・嗅覚が無くなったことでした。

何を食べても味がしないため食欲が全く出ず、人一倍食べることが好きな私にとっては本当に辛いことでした。

原因がわからなかったこともあり、「この病気は一生続くのではないだろうか」と弱気になってしまうこともありました。

「食は命なり」という言葉があるように、食事は生命を左右する大切な営み。食欲がなくなるだけで気力・体力両方が奪われていくことを肌身で実感したのです。

 

転機があったのは1ヶ月後。

私は別の病院にかかることにしました。

そして「慢性的副鼻腔炎」という診断を受けました。

炎症を起こし続けた結果、鼻水が常に副鼻腔に溜まってしまい、それが喉に落ちて咳こんでしまうものでした。

私は命に関わる病気でないことに安堵しました。

先生は私にこう言いました。

「最近無理をしていませんか?」

私ははっとしました。

思い返してみれば4月から身の周りの環境の変化があり、またコロナも少しずつ落ち着く中で人と接する機会が増えたことから、何かと追われてばかりだったのです。

先生は私の疲れた表情をみて気づかれたのかも知れません。

坐禅指導をする中で、「何もしない時間」を大切にしましょうとお伝えすることが多くありますが、それを理解していなかったのは私の方だったのかもしれません。

 

「帰家穏坐」という禅の言葉があります。

家に帰って穏やかに坐る。

それは単に自分の内にかえってリラックスするという意味ではありません。

「本来の自分」という家に立ち返ることで迷いに振り回されていることを自覚し、深呼吸をして落ち着きを取り戻すように、穏やかな気持ちで生活を営むこと(これこそ仏道修行)が大切なのです。

決して難しいことをする必要はありません。

ただ息をし、ただ歩き、ただご飯をいただき、ただ坐り、ただ眠る。

「何一つ不足しているわけでもないこの命は、大きな宝物なのだ」と改めて気づかされるのです。

慧州 合掌