旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

ギックリ腰になって

みなさんこんにちは尚真です。六月となり蒸し暑い日が増えてきました。今年は春の訪れも早かったので、例年よりも早い梅雨入りの地域が多いようです。

 

私は気が滅入るので雨が好きではありません。私の住む関東地方も傘の出番が増えてきて、そろそろ梅雨入りを迎えそうです。梅雨は嫌だなあと思う今日この頃です。

 

 

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梅雨は嫌いですがアジサイは好きです

 

 

最近、天気以上に気が滅入ることがありました。ふとした瞬間にギックリ腰になってしまったのです。私はあまりの痛さにそこから動くことが出来ず、カエルの様に五分ほど地面に這いつくばっておりました。

 

ちょうど一年ほど前にもギックリ腰になったのですが、その時は重い荷物を持った時でした。いわゆるアラフォーとですので、それ以降は重い物を持つ時は気を付けるようにしていたのですが。

 

しかし今回は手に何も持っていない状態だったので、年齢を感じて結構ショックでした。そのショックと腰の痛みと、そしてどんよりとした天気が相まってここ数週間は気が滅入る日々を過ごしておりました。

 

その間、腰の治療のために、週一回ほどのペースで整骨院に通っていました。前回のギックリ腰の際にもお世話になった、我が家御用達の近所の整骨院です。

 

その整骨院の先生は明るく爽やかで、話しやすく感じの良い方です。治療の技術もしっかりしておりとても信頼しています。

 

治療を受ける前に少し症状を伝えてからベッドに横になります。するといつも私の腰の痛いところをピンポイントでグリグリ押してきます。それが痛い事痛い事、我慢できずに悶え叫んでも全く力を弱めてくれません。

 

その後、鍼治療を行って一回の治療は終了です。治療が終わると腰の痛みは驚くほど軽くなり、先生の軽妙なトークで心も少しほぐされます。

 

いつも治療を受けていて思うのですが、私が押されて痛い場所を必ずピンポイントで押してきます。病院と違ってレントゲン写真を見ている訳でも無いですし、どうして分かるのでしょう。さすがプロは違うなぁといつも感心します。

 

そんな先生の治療を受けていると、子どもの頃、父に教わった話を思い出します。それは、長年掃き掃除を続けることで悟りを開いたお釈迦様のお弟子さんの話です。

 

そのお弟子さんシュリハンドクといって、物覚えが悪く、他のみんなと同じように修行をすることが出来ませんでした。そこでお釈迦様は「塵を払い、垢を除かん」と唱えながら掃き掃除をするようおっしゃりました。

 

長年掃き掃除を続けることで、いくら掃除をしてもまた汚れていくのは人の心も同じだということに気付きます。そしてお釈迦様の教えを理解することが出来たそうです。

 

世の中には様々な職業や技術がありますが、このシュリハンドク尊者のように、長年一つの道にひた向きに取り組んでいる人は、何かしら信念や真理の様なものを体得しているのだなと感じます。

 

ある日、治療中に先生がこんな事を言っていました。「痛みを和らげるためにストレッチを教えても、面倒くさがって実践してくれない患者さんが多い。私たちがいくら治療しても、最後に完治させるのは患者さん自身なのです」と。

 

私はその話を聞きながら、お釈迦様が亡くなる(涅槃)前に説かれた最後の教えの中に「我は良医の病を知て薬を説くが如し、服すと服せざるとは医の咎に非らず」という一節があるのを思い出しました。

 

これは文字通り、良いお医者さんが良い薬を出しても、飲むか飲まないかは患者さん次第、仏様の教えも実践するかしないかは本人次第といった意味です。

 

先生は体について話をしているつもりだったのでしょうが、私はお釈迦様の教えを改めて説かれているような不思議な感覚になりました。

 

その日から、先生に教えてもらったストレッチを毎日お風呂上りに実践しています。先生の治療と日々のストレッチのおかげで、腰の痛みはすっかり無くなり、今まで通りに体を動かすことが出来るようになりました。

 

体の調子が良いと心も晴れて、明るい気持ちで日々の生活が送れます。やはり身心一如、心と体は密接に関係していることが分かります。

 

先生のおかげで、心身ともに健康を取り戻すことが出来ました。そして人の話をしっかり聞くと、色んなところに良く生きるヒントが隠されているという事を実感する事も出来ました。

 

そのためには、自分の中で人の話を聞く準備が出来ていないといけませんね。薬を飲むか飲まないかは私たち次第なのですから。