旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

形と心

こんにちは。拓光です。立春とは一年で一番寒い時期とは言いますが、今年は一度も車の窓ガラスが氷ることなく日々暖冬を感じています。

 

先日、法事に行った時のことです。一人で法事の準備をしていると小学校低学年生くらいの女の子が突然私の後ろに現れポツンと立っていました。

私が挨拶をすると、ニコニコとした顔でこんなことを聞かれました。

 

「ねぇねぇお坊さん、お焼香っていうのは何回したらいいの?何回するのが正解なの?」

 

私は小さい子どもの突然の質問に思わず固まってしまいました。

もし皆さんが小学生の子どもにこのようなことを聞かれたらなんとお答えしますか。

 

 

皆さんも法事や葬儀などに参列したとき一度は行った経験があるかと思いますが、お焼香とは仏前において炭の入った香炉に抹香を供えることをいいます。

またお焼香を供えることを供香(ぐこう)ともいいます。

 

焼香は何回するかによって行為そのものの意味が変わると私は師匠より教わりました。諸説あるとは思いますが、私は師匠に教わったことを簡単にその女の子にも教えました。

 

1回行う作法:故人が迷うことなく一途に成仏してほしいという気持ちを込めます。

 

2回行う作法:1回目(主香)に故人を思う気持ちを込めます。2回目はその気持ち(主香)が消えないようにという意味で香を供えます。

 

3回行う作法:仏法僧を大切にするという意味があり、仏とはお釈迦様、故人様である仏を指します。法とは仏法、つまり仏の教えのことをいいます。僧とは僧侶という意味ではなく仏法を求める全ての人のことをいいます。ご先祖様や、恩恵を受けた生命・人々に対する感謝の気持ちを込めて供香します。

 

 

中には気持ちさえこもっていれば何回お焼香をしても同じなのではと思われる方もいらっしゃるかと思います。

私も以前、檀家さんより「大切なのは形より心でしょう、お坊さん。たとえ作法(形)が立派であってもそこにしっかりと故人を思う気持ち(心)がなければ意味がないでしょう」と言われた経験があります。

 

確かにその通りかもしれません。お釈迦様も生前は形である作法等よりも、心に重きを置き私達の心の在り方について多くを説いています。しかしそれは心がしっかり整っていれば形はどうでもよいと言っているわけではありません。

 

極端な例えになってしまいますが、僧侶が法事をするときのことで考えてみたいと思います。もし法事をする際に僧侶が供養をする気持ち(心)があるからといってジャージ姿(形)で勤められたら皆さんはどのように感じるでしょうか。 例え僧侶が真剣にお経を読んでいたとしても、それはおかしいと疑問に思うのではないでしょうか。

 

私達は人の心をどのようにして見る・知ることが出来るでしょうか。それは形である姿を通して知ることが多いのではないかと思います。形というものは私達が目に見えない心を表すものです。そして形を通して見えない心が伝えられていくのです。

仏教には身心一如という言葉があります。

身心一如とは、曹洞宗の教えを伝えられた道元禅師様が説いた言葉で、心と身体は一つであるということを意味する禅語です。

供養、お焼香をすることで言えば心と身体、つまり心と形の両方が整って初めて真の供養が出来るのではないでしょうか。

 

私達は形がないものに対してもしっかりと心を込める必要があります。またそれと同時に自分の気持ちを他者に理解してもらうために、言葉や態度などの形として表し伝えていかなければなりません。 

この心と形の両方を調えることの大切さを再認識して日々の生活に取り入れていただければ幸いです。

 

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