こんにちは。俊哲です。
投稿している今日、5月26日は今年のウェサークという日になっています。ウェサークとは日本以外の仏教国で6月の満月の日にお釈迦様の誕生・成道・涅槃を祝う日のことで、そのような仏縁深き日に投稿できますことを心より嬉しく思います。
さて、今日は『世界観の共有』ということについて感じたことを記したく思います。
東南アジアのタイ王国を訪れると、電車やバスなどの公共交通機関には日本と同じように優先席があるのですが、その優先される人達の中に僧侶という項目があります。
仏教を信仰する人も多く、僧侶たちが敬われているから優先されるわけですが、この優先席に座るということは他にも理由があります。
タイの仏教は、多くは上座部仏教と呼ばれるもので、その修行の中で男性出家者は女性に触れてはならないというルールがあります。ですから、男性出家者は女性に触れないように気をつけ、また女性たちも僧侶達の修行を妨げることがないよう触れないように気をつけているのです。
すると、先程の優先席の見え方が変わってきます。
お坊さんは偉いから優先席に…というだけではなく、お坊さんの修行のため、また一方でお坊さんの修行の邪魔をする人にならないために優先席があることがわかります。
私は旅に関する事柄をS N Sで調べることも多く、その時は以前タイを旅した日本人が、電車に乗っている時に見た光景について記した投稿を目にしました。
内容は、駅で止まるとお坊さんが電車に乗り込み、先に座っていた乗客がワッと立ち上がり皆が席を譲ろうとしたというものでした。
その光景が異様で、その後その方は、なぜ皆立ち上がったのか調べたのだそうで、「お坊さんに席を譲ると来世で良い姿に生まれ変わる功徳をたくさん得られるからだ」とわかったそうです。そして、「タイ人、功徳マイル貯めるの必死すぎ」と嘲笑して文章は終わっておりました。日本では見慣れぬ光景なので、驚きもあってジョークとしてこのような表現をしたのだろうと思いますが、実際にこのように思われる方もあるのだろうなと感じました。
果たしてワッと立ち上がった人たちは、”来世のために”という目的を持っていたのでしょうか。
そんな話を目にしたことをタイ人の友人に話をし、その“功徳マイル”の為かと聞くと、「え?みんな良いことしたとしか思わないよ」って返されました。
功徳がどうだとか考えてないし、老人や妊婦さんに席を譲る感覚と何も変わらないから、来世がどうなるから、なんて考えた行動じゃないと教えてくれました。そしてまた、「日本人は、何かの為じゃなきゃ良いことしませんか?」と聞き返されてしまいました。
現状、日本では人権が守られた方が幸せだと感じる人が多いからこそ、実際に手にとって感じたこともなければ、目でその姿を見たことのない「人権」を脅かされることに強く反発するように、私たちが幸せだと感じることは10人居れば10通りありながらも、その幸せの方向性が共有されていると、その幸せの実現が近づくことが言えます。
タイで僧侶が優先されることという話題ですと、筆者である私も僧侶なので、読者の皆様には「僧侶を優先しろ」という話に見えてしまうかもしれませんが、ここではそのことを伝えたいのではありません。
あくまで『僧侶に席を譲る』ということは比喩として、良いことをするのに理由がなくてはしないのかということです。また、そうした目的があって行為に及ぶのが当然という癖が私たちにはついていないかと内省してほしいと思っております。
目的が先にあって行為に及ぶ。すごく当然の人間の生き方なんですが、ある種、無自覚にそうした感覚が価値観を形成し、自分をコントロールしているのかもしれません。合理的かどうかで判断し、無駄だと感じるものは排除する。資本主義経済において企業が優先して行うことの一つですが、しかしその合理化を私たちの生き方に用いた時、一個人の幸せに直結するかは誰もわかりませんし、もしかしたらそうしたことへ疑問を抱いている方も多いのではないでしょうか。
報道などを目にすれば、法律を破らなけらば良い、警察に捕まらなければ良いという人達も多く居て、しかしそうなると肝心の法律は時代ごとの変化を求められ、抜け道を探すイタチごっことなっています。
ある種、同時代同地域に生きる上で、良いこと悪いことの世界観の共有はすごく大事なことではないでしょうか。多様化が進む日本にあって、社会組織だけに留まらず各個人による温故知新のアップデートに迫られている気がします。
共有されるのは法律を破らなければ何をしても良いという世界では残念だと思うし、周りの人を利する生き方が美しいと感じる世界だと良いなと思うのです。