旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

家庭厳峻

f:id:tabisuruzensou:20210512120413j:plain

yagi


こんにちは、禅信です。

 

先週末は、親戚のお寺で晋山式(住職を迎え入れる式)が修行されましたが。

新命住職の晴れ舞台を準備するために、寺族さん、地域の信徒さん、近隣の住職さん、一丸となって荘厳(しょうごん)に努めました。

 

この、荘厳という言葉は「荘厳に飾る」や「美しく荘厳な風景」といった使い方をします。

辞書を引いてみると「仏像や仏堂を、天蓋、幢幡、瓔珞などでおごそかに飾ることまたその物」とありますが。

 

きらびやかに飾るだけでなく、

(畳にも障子の桟にも塵一つ残さないように拭き清める

掃除が一番の荘厳だよ)と教えてくれた老師の言葉を想いながら荘厳に努めました。

 

 

信徒さんや近隣の和尚さんに支えられ、お寺に入られた新命住職さんが

須弥壇上に登りお言葉を宣べられた時に、亡くなられた先代の住職さんへの感謝の想いやこれまで育てて貰った地域の方への想いに胸を詰まらせ言葉を詰まらせる姿に、参列した全員がお寺への想いを共感しました。

 

 

前回、永平寺の山門に立つ所までを書きましたが

 

外に立つとその大きさに圧倒されます

太い柱に大きな四天王像、樹齢700年の杉の木に負けない存在感のある山門。

 

左右の柱には、

「家庭厳峻不要陸老従真門入」

(かていげんしゅん、りくろうのしんもんよりいるをゆるさず)

「鎖鑰放閑遮莫善財進一歩来」

(さやくほうかん、さもあらばあれぜんざいのいっぽをすすめきたれ)

 

と書かれた聯がかけられています。

右の聯

永平寺の生活は清規にそった厳格なものである

その生活に入るためには、(陸老)地位や名誉、財産は(不)必要ない

(従真)仏道を志す想い、道元禅師のお言葉に『ただ我が身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに遵いゆく時、力をも入れず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる』とありますが。

様々な教えや経典、経験に頭でっかちにならず、修行生活に乳水の如く和合しなさいよ。

 

と、この志だけをもって上山しなさいと背中を押されるよう文言に改めて、「力を入れまくって」「心を費やしつくして」修行にはいった私がいたことを思い出しました。

 

 

「」の力をいれて、心を費やしまくってという言葉は、先日ある法話を聞いていた時に出てきた話で。

確かに、私も修行に入るぞと意気込んで、ここでの生活のすべてが特別なものであると勘違いしていた時期があったことを恥ずかしくも思いだしたので引用させていただきました。

 

 

左の聯

しかし、この山門には鎖もなければ、入るものを拒むものは何もない

道心有る者は一歩踏み出しなさい。

 

修行入る私たちは、まだその聯に書かれていることの意味を知ることはありませんでしたが、生活の中で思い通りに行かないことにあたった時、自分を優先する心(自我)に気づいたり周囲に影響を受ける心に気づいたときに、この聯の言葉を想い返し修行生活を過ごす中での一番の指針となりました。

 

 

鎖なく、誰もが自由に過ごすことができる自由な世の中ですが、

 

上山の事を想い返したときに、昨今の社会生活にも周りと和合することが必要だと強く感じた為、記事にさせていただきました。