旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

而今に学ぶ。17

 こんにちは。俊哲です。お彼岸もお中日を過ぎました。皆様はお墓参りには行かれましたか?テレビなどでGo Toトラベルでの高速道路の渋滞や、観光地の混雑の様子が放映されておりました。コロナ禍による閉塞的な生活が続き、リフレッシュのための旅行でしょうか、故郷への墓参の車もあったのでしょうか。

 

〝自分の来たところであり〟、〝自分の行くところ〟にお参りする生活を大事にして欲しいものだと思っております。

 

とは言え、私も頃合いを見て、少しは旅に出たいなと思うようになりました。海外からの観光客が少ないという現在、常に混雑していた京都をまた訪ねたいなぁと思うのです。

 

 以前、京都へ旅した際私は、ある臨済宗のお寺に立ち寄りました。周囲には修行道場となるお寺や塔頭寺院があり、その日は数ヶ寺ほどお庭の拝観が可能でした。

 「禅の庭」は枯山水と呼ばれ、砂利に付けられた熊手の跡や並べられた岩によって水の流れを表します。門を抜けた先、寺院の前に広がる庭に、細やかな人の手と、自然との調和を感じ、ずっとその場で見ていられるほどの心地よさを感じます。

 

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苔むした禅の庭園

 そのお寺のお庭でカメラを出し、その美しさを写真に収めようと努めましたが、思うように上手く行きません。諦めて、しばらく庭を前に腰を下ろし、静かに座っておりました。しばらくして、そのお寺の御住職さんが現れ、私が僧侶だと気付き声をかけてくださいました。同じ禅宗の僧侶と分かると、こんな若僧にも貴重なお話を聞かせてくれました。

 

 「禅の庭は見て楽しむものではなく、味わうもの」

「携帯電話片手に写真を撮りに来る人は増えたけど、そのレンズに何がおさまるのかな」と。

 

 私はハッとするところがあり、私もカメラでの撮影を諦めたことを伝えました。お話に聞いたように、ある部分だけを切り取って伝えることはできても、このお庭が持つ全体性を私には写真で表現できないことを伝えました。

「それで良いのですよ」と一言告げ、御住職さんは奥のお部屋に入っていかれました。

それは、仏法に通じる非常に大事なことであり、その後の私の人生に大きく影響を受けた気がします。

 

 見て楽しむのではなく、味わうもの

 

カメラや携帯電話を庭に向け、その時『私』と『庭』を隔てていたことに気がつきました。レンズを向けた時に、庭全体がもつ美しさ、複雑に、そして単純に織り成される全体性に『私』の存在が欠けていたのでした。目の前に広がる美しい景色を『私』と別物と考えるのではなく、そこにいる『私』の存在も含めた環境で、私はどのようにその環境に関わることができるのかというのを問われているのです。つまり、〝私も含めた庭である〟ということです。

 

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禅の庭に居心地の良さを感じるのは、「環境」があなたを拒まないから

 

 私は写真を撮ることが好きで、少ない荷物の中にカメラを携えて旅をします。

特にスナップショットと呼ばれる、日常のふとした瞬間を好んで収めます。もちろんカメラは趣味に過ぎませんが、レンズを向ける時、目の前に広がる景色といかに私が調和しているのか、この出来事以降よく考えるようになりました。

 

 目の前に広がる世界に、皆さんはどのように関わっておられますか?

目の前の世界を、現実の全てと思うならば、その世界や現実にあなた自身が深く関与していることをまずは知らなくてはいけませんね。

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世界との関わり合い、筆者の旅は続く。写真はスリランカコロンボの街並み。