旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

手放す勇気

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みなさん、こんにちは。慧州です。全国的に梅雨に入り、傘が手放せない季節になりました。梅雨と聞くと少しじめじめした気持ちになるかもしれませんが、「青梅雨(あおつゆ)」という言葉があるように、降り注ぐ雨粒によって草木の緑がとても綺麗に映えます。また、坐禅をしている時(あるいは何か没頭している時)に外から雨の音が聞こえると、とても落ち着きます。感じ方ひとつで大きく変わる梅雨なのだと最近気がつきました。

 

話は変わりますが、みなさんは大切にしているものはありますか?例えば、家族や友人といった身近にいる人、幼い頃から大事にしているぬいぐるみや故郷の味、帰り道にいつも聴く曲や尊敬している人物の言葉など、人それぞれあるでしょう。何かを大切にする気持ちがあるからこそ、私たちはそれに支えられ、前を向いて生きることができます。

 

しかし、仏教では「人や物に執着することは苦しみを生む」と説かれています。つまり、大切にしているものを思うことですら一種の「執着」として否定されるのです。なぜなら物事は無常で移ろいゆくものであり、私たち自身もいつかはこの世を去り、大切なものを手放し別れなければならないからです。とても厳しい言葉だと思います。

 

私も「執着してはいけない」と頭では理解しているものの、中々実践することができていません。

「大切な人を失ったらどうしよう」

「お金がなかったらこの先どうなってしまうんだ」

「あれが欲しいこれが欲しいもっと欲しい」

心のどこかで執着し、その思いに振り回されています。それでもお釈迦様は手放せとおっしゃるのです。では具体的にどうすればよいのでしょうか。

 

先日、私はある出来事の中でそのヒントをもらいました。それは二歳になる息子との出来事です。息子はちょうどイヤイヤ期の真っ最中であまり言うことを聞いてくれません。私も頭を悩ませる毎日です。そんな息子が今とても大切にしているものがあります。

 

それはピンク色のタオルケットです。いつも寝る時にかけているタオルケットですが、何か不安があるといつもその端を手に取って親指をしゃぶっています。心理学では「セーフティーブランケット(安心毛布)」と呼ぶそうで、自我が芽生える過程における成長の証とされています。

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ある日、息子は手に持っていた麦茶を誤ってタオルケットにこぼしてしまいました。私は慌ててタオルケットをとりあげ、洗濯機に持っていきました。すると息子は途端に口をへの字に曲げ、大声で泣き出したのです。「大事なものをとられてしまった」という思いから、息子は私の足にすがりつきました。しかし、既にタオルケットは洗濯機の中。しばらくすると息子は泣き寝入りしてしまいました。

 

息子が寝ている間は貴重な自由時間なので、私は洗濯が終わるまで息子の隣で読書することにしました。ただ、疲れていたのか、気がつくと私もうとうと寝入ってしまいました。

 

どのくらい時間が経ったのでしょうか。何やらクシャクシャと鳴る物音に私は起こされました。寝ぼけ眼をこすりながら見ると、息子が何かをいじっているようでした。手元を見てみると、なんと先ほどまで私が読んでいた本をグチャグチャにしていたのです。

 

私は慌てて「返しなさい!」と叱りました。しかし、息子は笑って誤魔化し、ついには本を投げ捨ててしまいました。思わず私は「なんてことをするんだ!」と怒鳴りました。大声に驚いた息子は泣きながら母親の元に行きました。

 

私は少し後悔していました。息子を強く叱り過ぎたことはもちろんですが、それ以上に「私の本」をぞんざいに扱ったことに対して怒りを覚えていたと気づいたからです。そこにはまぎれもなく本に対する執着がありました。息子がタオルケットに執着していたのと何ら変わりないのです。

 

その後タオルケットは無事に洗濯が終わり、乾燥しました。乾燥したてのタオルケットを抱える息子はとても幸せそうでした。私は少し気まずい思いを抱きながら、そんな息子を見ていました。

 

すると、息子は驚く行動をとりました。私の方を見るや否やタオルケットを持ってこちらにやってきて、おもむろにタオルケットの端を私に差し出してきました。まるで「これを持つと安心するよ」と教えてくれているようでした。彼にとってタオルケットは万能薬なのでしょう。言葉をまだ話せない息子なので、真意はわかりませんが、もしかしたら落ち込んでいた私を息子なりに慰めようとしてくれたのかもしれません。私は恥ずかしさと嬉しさが入り混じった気持ちになりました。

 

人はどうしても何かに執着をします。それは自我があるからこそであり、貪りの心があるからです。自分が一番可愛いと思うからです。ですが、そのこだわりや思いが実は自分自身を苦しめる原因にもなります。その執着を手放すことは難しいかもしれません。

 

しかし手放す勇気を持つ第一歩として、他人と喜びを共有することはできます。コンビニで会計をした際に、余った小銭を募金箱に投じることでもいいです。「このパン美味しいよ」と友達に一口あげることでもいいです。「この映画とっても面白いよ」と教えてあげることでもいいです。あるいは笑顔をみせるだけでも相手も笑顔になるかもしれません。人それぞれやり方はきっとあります。

 

喜びという名の灯火を独り占めしていてはいつか消えてしまいますが、誰かに火を分ければそれは2倍の喜びになります。見返りを求めることなく、ちょっとでも手放すことができた時、人は自由になれるのではないでしょうか。