旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

何かを始めるというのに遅いということはない

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こんにちは。拓光です。今年も残すところわずかとなりましたがいかがお過ごしでしょうか。

皆さんは今から何かを始めてみたいけど、今更だなと思い、始めるのを断念してしまった、そんな経験はないでしょうか?

今から1900年程前、インドに波栗湿縛(はりしば)尊者という僧侶の方がおられました。この波栗湿縛尊者が出家をして仏道修行を始めたのが80歳からでした。

80歳という高齢であったため、周りの人達はからかって波栗湿縛尊者に対してこう言いました。

「なんて愚かな年寄りなのだろう。修行には二つの大切なことがある。一つ目は坐禅をすること、二つ目は御経を読むことだ。果たして80歳の年寄りにそんな大変なことが出来るのか」と。


波栗湿縛尊者は多くの非難の言葉を聞いて、何か反論をするでもなく、その人達に対して感謝をしてから、こう言いました。「私は、煩悩を捨て去り、仏の悟りを得るまでは、席に脇をつけないつもりだ。」

ここで言う席に脇をつけないとは横になって休まないという意味です。波栗湿縛尊者はこう誓って以来、立ったままに思いを巡らし、御経や坐禅についても誰よりも勉強をし、実践しました。

そして3年で仏の悟りに達し、自らの誓いの通り席に脇を付けることなく修行をしたということから、波栗湿縛尊者は人々から脇(わき)と書いて脇(きょう)と読む脇尊者と呼ばれました。

この波栗湿縛尊者、脇尊者は私達に「仏道修行において、人は志さえ起せば、たとえ何歳であろうと実行することが出来る。」「だから仏道修行を始めるというのに年齢は関係ない」とお示し下さっているのです。

仏道修行とは仏が歩んできた道を修行すると書くように、仏のような心を持って日々精進することを言います。ですから仏道修行というのは、僧侶だけが行える特別なことではなく、誰でも今日から実践出来ることです。仏のような心を持つための教えは沢山あるのですが、本日は私達の生活の身近にあるものをひとつ紹介します。

例えば御縁を頂いて、こうしてブログを投稿させていただいているのも私にとってはとても有難い体験です。旅する禅僧に誘って下さった髙倉さん、玉島さん、温かく迎えて下さったメンバー、ブログの読者様には感謝しかないです。

こういった「御縁に感謝をする」ということも仏道修行のひとつです。

御縁に感謝をするとは、出会うもの全てに対して感謝の心を持って触れ合い、一つ一つの出会いを大切に生きることです。私達人間は自分一人で生きているのではありません。多くの出逢いや支えによって、はじめて今の自分が存在します。

また出逢うのは人間同士だけではありません。例えば食事一つにしてみても、まず天候に恵まれて、生産者がいて、流通を支える人がいて、調理する人がいて、はじめて目の前に食事が並びます。食事一つ取っても沢山の御縁で繋がっています。

今、挙げた「御縁に感謝をする」ということは、仏道修行の中のほんの一つですが、もしこの御縁に気付かなければただの出会いや食事ですが、「御縁に感謝をする」このことに気付くことで私達は沢山の繋がりの中で生きている存在であると知り、感謝の気持ちを日常生活を過ごす中で持つことが出来ます。

このように仏道修行を実践することで、一つ一つの出会いや出来事に今までとは違う新しい一面が見えてくるのではないでしょうか。

 

本日は「仏道修行を実践することに遅い」ということはないという脇尊者の話をさせていただきました。

私達が生きている今この時は、大切な一瞬であるので、毎日の生活をただ漫然と過ごすのではなく、脇尊者のように、今更だなと思わず、あと何年生きるかなんて誰にもわからないのだから、私も心身を惜しまずに仏道修行に精進してみよう。そんな風に思っていただければ幸いです。