旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

心の掃除

 

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みなさん、こんにちは。慧洲です。

早いもので2月も1週間過ぎました。

先週は関東でも春一番が吹いたように、少しずつ春が近づいてきています。

今日は日常的に行っている「掃除」について、思うことを話したいと思います。

 

掃除が好きな理由

私は昔から掃除が好きでした。

それは特別何かを考えながら行う必要がなく、ただひたすら手と足を動かせばよかったからです。

じっとしているとつい考え事をしてしまう私でも、掃除に没頭している間は集中でき、そして穏やかな心を取り戻していました。

掃除が好きな理由はもう一つあります。

それは、やればやるほど目に見えて綺麗になることです。

私達が日々行っている仕事や勉強の多くは地道なもので、すぐに結果につながるとは限りません。

時には無駄足だったり、解決しようがないことだったりすることもあります。

そしてその都度、「あーなんで駄目なんだろう」と一喜一憂してしまいがちです。

そういった意味では、掃除はすぐに結果が現れます。

目の前のホコリを払えば、間違いなく綺麗になるからです。

私にとって掃除している一時だけは

「よし、少しずつ綺麗になっているぞ。大丈夫だ」

とどこか安心できる時間でもあるのです。

 

「完璧」という欲求

しかし、何事も行き過ぎると良くないもの。

完璧主義になりがちな掃除を続けていると、いろんなことが気になってしまいます。

たとえば風が強い日。

お寺の境内で掃き集めた葉っぱが突風で吹き荒れると、またやり直しです。

するとつい「掃いたばっかりなのに!」と心の中で悪態をついてしまいます。

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せっかく掃除をして気持ちを落ち着かせられたにも関わらず、

「また綺麗にしなければならない」という思いがかえって私の心をかき乱していました。

それは掃除に対する「欲」であり、思い通りにならないことに怒る「我(エゴ)」でもありました。

そんな様子を見かねたのか、私の師匠である父から時々こんな言葉をかけられることがあります。

「掃除は大体でいいんだよ」

初めてこの言葉を聞いた時、私は理解できませんでした。

「そんなの手を抜いているだけじゃないか」と思っていたからです。

ですが、そうではないのです。

あまりにも完璧にやろうとしすぎている私の「我欲」を見抜いていたのです。

 

千利休が示した掃除

茶聖として知られる千利休は、掃除に関してこんな逸話を残されています。

それは師である武野紹鴎が庭の掃除を利休に命じた時のこと。

庭は既に綺麗に掃除した後にも関わらず、なお庭の掃除をするよう指示しました。

紹鴎は利休を試したのです。

すると利休はおもむろに樹木を振るい、敢えて落ち葉を散らしました。

そして、そのまま「掃除しました」と師に伝えました。

その様子を見た紹鴎は利休の才能を確信し、茶道の秘訣を伝授することになるのです。

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私達は塵一つない状態こそ良いものだと思って、一生懸命掃除をします。

ですが、よくよく考えてみればそのような状態は人為的に作ったものに過ぎません。

むしろやりすぎるとかえって不自然で、落ち着かない空間になってしまいます。

利休は、自然の美しさとは葉っぱがちょっと落ちてこそ生まれるものだと理解していたのです。

 

理想という欲を手放す

この利休の逸話を知ってから、掃除をしている時に葉っぱが落ちても許せる気持ちが芽生えました。

それは完璧にしなければならないと思い込む自分、理想とする自分を手放した瞬間でもありました。

「うまくいかないときだってある」

「慌てなくてもいい」

「ゆったり生きよう」

自然体な自分を受け入れることが、何よりの心の掃除となっています。