旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

実感のある生き方

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 みなさんこんにちは!慧州です。お彼岸を直前に控え、春を告げる陽気に包まれていますが、花粉症の私にとってはなんとも悩ましい季節でもあります。今回は先日行った鎌倉で感じたお話をしたいと思います。

 

 鎌倉といえば、長谷の大仏や臨済宗円覚寺建長寺など、お寺が多い観光地として知られています。私が行った日は快晴に恵まれ、北鎌倉駅から歩きながらついついカメラのシャッターを切ってしまうほど、どこを撮っても絶景になるような一日でした。

 

 今回訪れたのは臨済宗円覚寺でした。1282年に中国からやってきた無学祖元(12261286)によって創建されたこのお寺は、道や伽藍は整備されてはいるものの、どこか時代を感じさせる雰囲気をまとっていました。案内をしてくださった円覚寺の師家(指導役の僧侶)の方がこうおっしゃいました。

 

 「ここでは未だに薪割りをして、ご飯の釜を焚いたり、五右衛門風呂を沸かしたりするんです。確かに不便ではありますし、私も修行していた時は大変でした。でも、今振り返ってみると、あの修行はとてもありがたかったと思えるんです」

 

 有難い(ありがたい)とは「有ることが難い」と書きます。文字通り、その存在そのものが貴重であることを指しています。この感覚というものは現代社会においては中々得づらいものだと思います。

 

 例えば、現代の私たちはエアコンのスイッチ一つで簡単に暖を取ることができ、円覚寺で行われている薪割りは非効率的で前時代的な存在と思われるかも知れません。しかし、同じ暖かさでも、エアコンで得られる感覚と薪で得られる感覚は全く異なるでしょう。そこには「実感」があるかどうかという大きな違いがあるからです。想像を膨らませば、冬の寒い日にかじかむ手で懸命に薪割りをして得られた暖かさは何にも代えがたいものだと感じるのではないでしょうか。

 

 矛盾するようではありますが、この「実感」というものは言葉で説明したり数値で表われるものはありません。円覚寺で修行していない私が薪割りについていくら説明しても、その言葉には実感は伴っていないように。でも、この「実感」を得られるのはお寺での修行に限った話ではありません。

 

 この世界に生きている私たちが、今直面しているこの現実の中に「実感」は見え隠れしています。でも、それをつい見過ごしてしまっているのではないでしょうか。そして、その「実感」は人それぞれであり、自分自身にしか分かりません。

ふと、映画『燃えよドラゴン』でブルース・リーが放った言葉が心に思い浮かびます。

 

「考えるな。感じろ」

 

 頭ではなく、感じること。おろそかにしてはいけない教えだと思います。