旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

我逢人

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9月に入っても、まだ夏を思わせるような暑い日々が続いています。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

今月より投稿させていただきます。
拓光と申します。よろしくお願いします。
皆さんとこのような出会いの機会を設けていただき大変嬉しく思います。
本日は初回ということもあり「出会い」について話をさせていただきます。

 

皆さんは出会いを意味する「我逢人」という言葉をご存知でしょうか。
この言葉は私のお寺の先代の住職も大変好まれている言葉で、私は先代の住職よりこの言葉に出会わせていただきました。我、人に逢うなりと書いて「我逢人」といいます。

 

これは曹洞宗をお開きになられた道元禅師様が、正法眼蔵という書物の中で、師匠である如淨禅師様と出会ったことを書いたときに使った言葉で、人と出会うこと、つまり御縁の有り難さを説いています。

 

御縁というのは何とも不思議なものではないでしょうか。道元禅師様はあの広い中国大陸をご自身の足で歩いて渡り、如淨禅師様と出会いました。
その後、道元禅師様は日本へと戻り、曹洞宗をお開きになられました。その教えは何代にも渡って師匠から弟子、師匠から弟子へと引き継がれて、今現在こうして私もお寺の住職をさせていただいています。
もしかしたらこれまでの一人でも出会いがなければ曹洞宗は絶えていたかもしれません。そして私が今こうして皆さんの前でブログを更新していることもなかったかもしれません。


これは当たり前のことのように感じますが、よく考えてみると奇跡ともいえる大変なことではないでしょうか。
そんな人との出会いの素晴らしさを端的に表した言葉が「我逢人」。
私は僧侶になる前よりこの言葉を知っていましたが、その意味を本当に深く噛み締めたのは僧侶となり修行を始めてからのことでした。

 

お寺の住職になるためには修行道場で、ある期間修行をしなければいけません。そして、そこに入ると家族といえども、めったに会うことが出来ません。
そのようなこともあり、私は修行に入る前に5年ぶりに祖母の元へと挨拶に参りました。祖母は私が僧侶になるということを誰よりも喜んでいてくれました。祖母とは久しぶりの再会ということもあり、照れてあまり話しをすることが出来ませんでした。その時、私は「立派に修行を終え、立派な僧侶になった時にまた沢山話をしよう」と軽く考え帰路につきました。
しかし、修行を始めてわずか1ヶ月後、祖母は急性の病によってこの世を去りました。祖母の死の知らせを聞いたとき、私はすぐにあの時「また今度でいいか」と考えたことを思い出しました。そして「もっと話せばよかった」と後悔しました。もうそれは後悔という言葉では言い表せないほどの悲しみでした。

 

この祖母の死によって、出会いがあれば別れがあり、どんなに親しい相手でもいつか必ず別れなければならないこと、だからこそ人と出会うこと、その人と一緒にいられることはとても有り難いことなのだと、私は気付きました。そしてその時間は永遠ではないということを身をもって体験しました。祖母は私に、人と人との出会いや繋がりがどんなに有り難く、素晴らしいことだったのかということを、その死を通して教えてくれたのです。

 

私は今現在、沢山の方々が支えてくださっているおかげで住職として日々精進することが出来ています。これからもこの御縁に感謝をし、今後も自らの体験をもって御檀家様や一般の方々やこのブログを見てくださっている皆さんに「我逢人」の尊さを伝えていきたいと思います。