旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

ある牧師さんとの出会い

皆さん、こんにちは。向月です。

今日、7月7日は七夕ですね。

子供の頃は、7月になると七夕飾りを作り笹かどうかに関わらず、

家中いたるところに貼り付けておりました。

本堂にお供えしてある花にまで短冊を吊り下げて、

住職からこっぴどく怒られた思い出があります。

七夕の起源は中国にあるようですが、現代の日本では織姫と彦星が

年に1度出会う日とされていますね。

皆さんにも素敵な出会いがあることをお祈りしています。

 

私は最近、ある牧師さんと出会いました。

その牧師さんは私のキリスト教徒の友達がよく通っている教会の方で、

「臨床宗教師」という活動をされている方でした。

臨床宗教師とは、病院などの医療機関福祉施設など

またグループカウンセリングといった場で宗教者の立場で

患者さんのお話しを聴き、心のケアをする活動をされている方でした。

この牧師さんと会ったとき、私の最近の悩み事や身の回りで

起こったことなどを30分程度話しました。

牧師さんは私の話に何か意見をいうでもなく、アドバイス

するわけどもなくただ聴いて相づちを打っていました。

私はおしゃべりな性格なので、相手の話をただ聴くといった

シンプルなことがとても大変で難しいことのように思えます。

それだけに牧師さんの「ただ聴く」という姿にとても魅力を感じました。

それから数回、牧師さんとお話をするためにこの教会に通いました。

 

 

ある時、臨床宗教師をしていて「死」への不安をどのように

和らげているのかと聞くと、牧師さんは「色々な方と話をすると、

「死」が不安というよりも、生きている時間が有限だから不安。

心残りを作ってしまう事への不安がある」という方が実は多く

いらっしゃるということに気が付くと言われました。

心残りの多くは「もう一度、あの人に会いたかった」というものが

多いそうです。

そこで、この牧師さんは「Goodbye Journey」というものを

推奨されています。

「Goodbye Journey」は「さよならを言う旅」。

動けるうちに、元気なうちに、会いたい人に会って、自分の口で

 

「もう会えないかもしれないけど、今までありがとう。さよならね」

 

といえる旅。

こういう旅の中で自分の人生に関わってくれた方に感謝を伝え、

またそうすることで少しづつ「死」への準備ができていくのだと思います。

 

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(以前行った、山中湖の富士山)

私も皆さんもいつか死にます。

それを意識した旅をすることは、けっしてネガティブなことではなく

むしろポジティブのではないかと感じます。

人生を「感謝」で締めくくれることは、とても幸せなことだなと思います。

 

まだまだ気楽に世界中旅に出れる状態ではありませんが、

いつか私も「さよなら」を言う旅に出たいと思います。

地下足袋の人生

みなさん、こんにちは。慧州です。

私ごとですが、先日祖母が亡くなりました。

大正5年生まれの祖母は102歳と大往生でした。

祖母と暮らしていた伯父からは、だいぶ前よりもう危ないという知らせもあり、覚悟はしていました。

訃報を聞いて、私は師匠である父とともに、実家のお寺へ車を走らせました。

コロナ禍で久しぶりの遠出、そして2年ぶりの実家への訪問。

運転する機会が減ったこともあり、ハンドルを握る手もどこか緊張感がありました。

 

そんな私を見てか、助手席に座っていた父が祖母との思い出話を語り始めました。

天寿を全うした今では信じられませんが、若い時の祖母は病弱だったそうです。

戦後間もないころのお寺はとても貧乏で、毎日畑を耕し、鶏を飼って卵を集める、自給自足の日々でした。

薬代すらまともに払えず、こっそりお小遣いをせしめようとした父は財布の中身のなさにとても驚いたそうです。

そのような生活でも祖母は何一つ不平不満を漏らすことなく、とても気丈に振る舞っていました。

 

祖母は元々お寺生まれで、縁あって近所にある別のお寺に嫁ぎました。

それが私の父の実家であるお寺です。

そして70年以上お寺を守り続けた祖母は、檀信徒を始め、多くの方々に信頼されていました。

祖母は、いつも孫である私が顔を見せるだけで、手を合わせて「よく来たね。ありがとう」と言うのです。

とても優しく、お寺の庭にあるお地蔵さんのような姿でした。

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それは幼い頃からずっとで、私にだけでなく誰に対しても本当に有り難そうに言うのです。

私は不思議でした。

お礼されるようなことはしていないですし、ましてや孫である私にそこまで恭しくしなくてもいいのにと思いました。

しかし、今ではあれこそ祖母が私に示してくれた生き方だったのだと思えてなりません。

 

法華経』には常不軽(じょうふきょう)菩薩という方が登場します。

常不軽菩薩はどんな相手であろうと、いつも手を合わせて礼拝しました。

人々は気味悪がり、罵倒し、枝や石を投げつけて迫害しました。

それでも常不軽菩薩は礼拝をやめず、言いました。

 

「私はあなた方を尊敬します。決して軽んじることはありません。

なぜなら、あなた方は皆菩薩としての道を歩み、仏になるのだから」

 

常不軽菩薩がどんな人にも手を合わせるように、祖母は孫である私を決して軽んじることはありませんでした。

今となっては祖母が常不軽菩薩のことを知っていたかはわかりませんが、手を合わせている祖母の姿と常不軽菩薩が重なって思い出されるのです。

 

 

葬儀を終えた後、喪主として伯父が挨拶をしました。

そして、祖母の生涯をこう評しました。

「母は地下足袋の人生でした」

90歳を過ぎても地下足袋を履いては草むしりばかりしていた祖母。

何かあると、「地下足袋地下足袋」と探し回っていたそうです。

 

どんなに地道でも、どんなに険しい道でも、地下足袋を履いて歩み続けた祖母の人生。

祖母の姿を思い出すたびに、私は畏敬の念を抱かずにいられない気持ちになると同時に、私自身の人生はどうであろうかとはっとさせられます。

 

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ギックリ腰になって

みなさんこんにちは尚真です。六月となり蒸し暑い日が増えてきました。今年は春の訪れも早かったので、例年よりも早い梅雨入りの地域が多いようです。

 

私は気が滅入るので雨が好きではありません。私の住む関東地方も傘の出番が増えてきて、そろそろ梅雨入りを迎えそうです。梅雨は嫌だなあと思う今日この頃です。

 

 

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梅雨は嫌いですがアジサイは好きです

 

 

最近、天気以上に気が滅入ることがありました。ふとした瞬間にギックリ腰になってしまったのです。私はあまりの痛さにそこから動くことが出来ず、カエルの様に五分ほど地面に這いつくばっておりました。

 

ちょうど一年ほど前にもギックリ腰になったのですが、その時は重い荷物を持った時でした。いわゆるアラフォーとですので、それ以降は重い物を持つ時は気を付けるようにしていたのですが。

 

しかし今回は手に何も持っていない状態だったので、年齢を感じて結構ショックでした。そのショックと腰の痛みと、そしてどんよりとした天気が相まってここ数週間は気が滅入る日々を過ごしておりました。

 

その間、腰の治療のために、週一回ほどのペースで整骨院に通っていました。前回のギックリ腰の際にもお世話になった、我が家御用達の近所の整骨院です。

 

その整骨院の先生は明るく爽やかで、話しやすく感じの良い方です。治療の技術もしっかりしておりとても信頼しています。

 

治療を受ける前に少し症状を伝えてからベッドに横になります。するといつも私の腰の痛いところをピンポイントでグリグリ押してきます。それが痛い事痛い事、我慢できずに悶え叫んでも全く力を弱めてくれません。

 

その後、鍼治療を行って一回の治療は終了です。治療が終わると腰の痛みは驚くほど軽くなり、先生の軽妙なトークで心も少しほぐされます。

 

いつも治療を受けていて思うのですが、私が押されて痛い場所を必ずピンポイントで押してきます。病院と違ってレントゲン写真を見ている訳でも無いですし、どうして分かるのでしょう。さすがプロは違うなぁといつも感心します。

 

そんな先生の治療を受けていると、子どもの頃、父に教わった話を思い出します。それは、長年掃き掃除を続けることで悟りを開いたお釈迦様のお弟子さんの話です。

 

そのお弟子さんシュリハンドクといって、物覚えが悪く、他のみんなと同じように修行をすることが出来ませんでした。そこでお釈迦様は「塵を払い、垢を除かん」と唱えながら掃き掃除をするようおっしゃりました。

 

長年掃き掃除を続けることで、いくら掃除をしてもまた汚れていくのは人の心も同じだということに気付きます。そしてお釈迦様の教えを理解することが出来たそうです。

 

世の中には様々な職業や技術がありますが、このシュリハンドク尊者のように、長年一つの道にひた向きに取り組んでいる人は、何かしら信念や真理の様なものを体得しているのだなと感じます。

 

ある日、治療中に先生がこんな事を言っていました。「痛みを和らげるためにストレッチを教えても、面倒くさがって実践してくれない患者さんが多い。私たちがいくら治療しても、最後に完治させるのは患者さん自身なのです」と。

 

私はその話を聞きながら、お釈迦様が亡くなる(涅槃)前に説かれた最後の教えの中に「我は良医の病を知て薬を説くが如し、服すと服せざるとは医の咎に非らず」という一節があるのを思い出しました。

 

これは文字通り、良いお医者さんが良い薬を出しても、飲むか飲まないかは患者さん次第、仏様の教えも実践するかしないかは本人次第といった意味です。

 

先生は体について話をしているつもりだったのでしょうが、私はお釈迦様の教えを改めて説かれているような不思議な感覚になりました。

 

その日から、先生に教えてもらったストレッチを毎日お風呂上りに実践しています。先生の治療と日々のストレッチのおかげで、腰の痛みはすっかり無くなり、今まで通りに体を動かすことが出来るようになりました。

 

体の調子が良いと心も晴れて、明るい気持ちで日々の生活が送れます。やはり身心一如、心と体は密接に関係していることが分かります。

 

先生のおかげで、心身ともに健康を取り戻すことが出来ました。そして人の話をしっかり聞くと、色んなところに良く生きるヒントが隠されているという事を実感する事も出来ました。

 

そのためには、自分の中で人の話を聞く準備が出来ていないといけませんね。薬を飲むか飲まないかは私たち次第なのですから。

而今に学ぶ。21

 こんにちは。俊哲です。

 投稿している今日、5月26日は今年のウェサークという日になっています。ウェサークとは日本以外の仏教国で6月の満月の日にお釈迦様の誕生・成道・涅槃を祝う日のことで、そのような仏縁深き日に投稿できますことを心より嬉しく思います。

 

 

 さて、今日は『世界観の共有』ということについて感じたことを記したく思います。

 

  東南アジアのタイ王国を訪れると、電車やバスなどの公共交通機関には日本と同じように優先席があるのですが、その優先される人達の中に僧侶という項目があります。

 

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タイの首都バンコクを走る鉄道

 仏教を信仰する人も多く、僧侶たちが敬われているから優先されるわけですが、この優先席に座るということは他にも理由があります。

 タイの仏教は、多くは上座部仏教と呼ばれるもので、その修行の中で男性出家者は女性に触れてはならないというルールがあります。ですから、男性出家者は女性に触れないように気をつけ、また女性たちも僧侶達の修行を妨げることがないよう触れないように気をつけているのです。

 

 すると、先程の優先席の見え方が変わってきます。

 

お坊さんは偉いから優先席に…というだけではなく、お坊さんの修行のため、また一方でお坊さんの修行の邪魔をする人にならないために優先席があることがわかります。

 

 

 

 私は旅に関する事柄をS N Sで調べることも多く、その時は以前タイを旅した日本人が、電車に乗っている時に見た光景について記した投稿を目にしました。

 

内容は、駅で止まるとお坊さんが電車に乗り込み、先に座っていた乗客がワッと立ち上がり皆が席を譲ろうとしたというものでした。

その光景が異様で、その後その方は、なぜ皆立ち上がったのか調べたのだそうで、「お坊さんに席を譲ると来世で良い姿に生まれ変わる功徳をたくさん得られるからだ」とわかったそうです。そして、「タイ人、功徳マイル貯めるの必死すぎ」と嘲笑して文章は終わっておりました。日本では見慣れぬ光景なので、驚きもあってジョークとしてこのような表現をしたのだろうと思いますが、実際にこのように思われる方もあるのだろうなと感じました。

 

 

果たしてワッと立ち上がった人たちは、”来世のために”という目的を持っていたのでしょうか。

 

 

 そんな話を目にしたことをタイ人の友人に話をし、その“功徳マイル”の為かと聞くと、「え?みんな良いことしたとしか思わないよ」って返されました。

功徳がどうだとか考えてないし、老人や妊婦さんに席を譲る感覚と何も変わらないから、来世がどうなるから、なんて考えた行動じゃないと教えてくれました。そしてまた、「日本人は、何かの為じゃなきゃ良いことしませんか?」と聞き返されてしまいました。

 

 

 現状、日本では人権が守られた方が幸せだと感じる人が多いからこそ、実際に手にとって感じたこともなければ、目でその姿を見たことのない「人権」を脅かされることに強く反発するように、私たちが幸せだと感じることは10人居れば10通りありながらも、その幸せの方向性が共有されていると、その幸せの実現が近づくことが言えます。

 

  タイで僧侶が優先されることという話題ですと、筆者である私も僧侶なので、読者の皆様には「僧侶を優先しろ」という話に見えてしまうかもしれませんが、ここではそのことを伝えたいのではありません。

 

 

 あくまで『僧侶に席を譲る』ということは比喩として、良いことをするのに理由がなくてはしないのかということです。また、そうした目的があって行為に及ぶのが当然という癖が私たちにはついていないかと内省してほしいと思っております。

 

 目的が先にあって行為に及ぶ。すごく当然の人間の生き方なんですが、ある種、無自覚にそうした感覚が価値観を形成し、自分をコントロールしているのかもしれません。合理的かどうかで判断し、無駄だと感じるものは排除する。資本主義経済において企業が優先して行うことの一つですが、しかしその合理化を私たちの生き方に用いた時、一個人の幸せに直結するかは誰もわかりませんし、もしかしたらそうしたことへ疑問を抱いている方も多いのではないでしょうか。

 

 報道などを目にすれば、法律を破らなけらば良い、警察に捕まらなければ良いという人達も多く居て、しかしそうなると肝心の法律は時代ごとの変化を求められ、抜け道を探すイタチごっことなっています。

 

 ある種、同時代同地域に生きる上で、良いこと悪いことの世界観の共有はすごく大事なことではないでしょうか。多様化が進む日本にあって、社会組織だけに留まらず各個人による温故知新のアップデートに迫られている気がします。

共有されるのは法律を破らなければ何をしても良いという世界では残念だと思うし、周りの人を利する生き方が美しいと感じる世界だと良いなと思うのです。

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優先席に座る僧侶。背面には優先を示す僧侶のピクトグラフが見える。

 

家庭厳峻

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yagi


こんにちは、禅信です。

 

先週末は、親戚のお寺で晋山式(住職を迎え入れる式)が修行されましたが。

新命住職の晴れ舞台を準備するために、寺族さん、地域の信徒さん、近隣の住職さん、一丸となって荘厳(しょうごん)に努めました。

 

この、荘厳という言葉は「荘厳に飾る」や「美しく荘厳な風景」といった使い方をします。

辞書を引いてみると「仏像や仏堂を、天蓋、幢幡、瓔珞などでおごそかに飾ることまたその物」とありますが。

 

きらびやかに飾るだけでなく、

(畳にも障子の桟にも塵一つ残さないように拭き清める

掃除が一番の荘厳だよ)と教えてくれた老師の言葉を想いながら荘厳に努めました。

 

 

信徒さんや近隣の和尚さんに支えられ、お寺に入られた新命住職さんが

須弥壇上に登りお言葉を宣べられた時に、亡くなられた先代の住職さんへの感謝の想いやこれまで育てて貰った地域の方への想いに胸を詰まらせ言葉を詰まらせる姿に、参列した全員がお寺への想いを共感しました。

 

 

前回、永平寺の山門に立つ所までを書きましたが

 

外に立つとその大きさに圧倒されます

太い柱に大きな四天王像、樹齢700年の杉の木に負けない存在感のある山門。

 

左右の柱には、

「家庭厳峻不要陸老従真門入」

(かていげんしゅん、りくろうのしんもんよりいるをゆるさず)

「鎖鑰放閑遮莫善財進一歩来」

(さやくほうかん、さもあらばあれぜんざいのいっぽをすすめきたれ)

 

と書かれた聯がかけられています。

右の聯

永平寺の生活は清規にそった厳格なものである

その生活に入るためには、(陸老)地位や名誉、財産は(不)必要ない

(従真)仏道を志す想い、道元禅師のお言葉に『ただ我が身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに遵いゆく時、力をも入れず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる』とありますが。

様々な教えや経典、経験に頭でっかちにならず、修行生活に乳水の如く和合しなさいよ。

 

と、この志だけをもって上山しなさいと背中を押されるよう文言に改めて、「力を入れまくって」「心を費やしつくして」修行にはいった私がいたことを思い出しました。

 

 

「」の力をいれて、心を費やしまくってという言葉は、先日ある法話を聞いていた時に出てきた話で。

確かに、私も修行に入るぞと意気込んで、ここでの生活のすべてが特別なものであると勘違いしていた時期があったことを恥ずかしくも思いだしたので引用させていただきました。

 

 

左の聯

しかし、この山門には鎖もなければ、入るものを拒むものは何もない

道心有る者は一歩踏み出しなさい。

 

修行入る私たちは、まだその聯に書かれていることの意味を知ることはありませんでしたが、生活の中で思い通りに行かないことにあたった時、自分を優先する心(自我)に気づいたり周囲に影響を受ける心に気づいたときに、この聯の言葉を想い返し修行生活を過ごす中での一番の指針となりました。

 

 

鎖なく、誰もが自由に過ごすことができる自由な世の中ですが、

 

上山の事を想い返したときに、昨今の社会生活にも周りと和合することが必要だと強く感じた為、記事にさせていただきました。

 

 

こんにちは、哲真です。

 

4月に入り暖かくなりましたね。境内には様々な花々が咲いて、外で活動することが楽しみな季節です。写真は境内に咲いていた八重桜です。

 

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実は、ここ1年くらい片付けばかりしております。要るもの、要らないもの、使うもの、使わないものを分けて整理して、不要なものは売ったり、処分したり、また必要な方がいれば差し上げたりしています。一般的には断捨離と言うのでしょうか。コロナ禍になり、家の中を片付けする方が増えたみたいですね。その証拠に、ゴミを燃やしたり処分したりしてくれるクリーンセンターはいつも混みあっています。

 

断捨離を調べてみると、

[「断捨離」とは、不要な物を「断ち」「捨て」、物への執着から「離れる」ことにより、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を開放し、身軽で快適な生活と人生を手に入れようとする思想である。](参照:Wikipedia

とあります。

 

身軽で快適な生活というと、「ミニマリスト」とも言うらしいですね。

 

最近は新しい言葉を耳にすることが多くなりました。仏教では「知足」という言葉が当てはまりそうです。知足とは、「足ることを知る」ということです。今、生活ができているならば今ある物で十分ということ。それ以上のことを望むのは「欲」であります。

 

私は転勤の多い家庭で育ち、社会に出てからも多く引っ越しをする環境でした。その為、物は極力少なくするという生活が当たり前でした。私の物に対する判断は、「今いるのかいらないのか」「今後使うのか使わないのか」です。そうして過ごしてきたので、断捨離やミニマリストという考え方があることに驚きました。

 

物も古くなります。ただ保有しておくだけでも状態が悪くなります。それより喜んで使っていただける方の手元に届くようにその物を手放すことも大事だと思います。物にも手放すのに最適な時期があると思います。

 

常々、身の回り物を整理し快適な生活を送れるようにしていきたいものです。物を無駄にしないということが、人にも環境にも優しい生活となるのではないでしょうか。

サクラの歌の話

みんさん、こんにちは。向月です。

新年度を迎えて、気持ちも新たに新生活をスタートされた方も

いらっしゃることでしょう。

私も今年度やりたいことなどを考えながら、春の訪れを楽しんでおります。

(今年は例年に比べ暖かかいので、春というよりは初夏を感じる日もありますね)

 

 

昨年から自宅で過ごす時間が多く、よく本を読むようになりました。

年明けくらいから、古文や短歌などの歌集やその解説本などを読んでいます。

先月から読み始めたのは『伊勢物語』と俵万智さんがそれを

解説している『恋する伊勢物語』です。

伊勢物語』は多くの短編物語が書かれており、その中の登場人物が

詠んだ歌が出てきます。

恋物語がほとんどの『伊勢物語』ですが、時々、お花見に行く話しや

旅の途中の話しなどが出てきます。

第八十二段「惟喬の親王(これたかのみこ)」というの話は、親王

馬頭(馬を管理する役職の長)が鷹狩りをしながらお花見を楽しむ話しです。

実際は、鷹狩りはほとんどせずお酒を飲みながら歌をうたう話しです。

この話しの中には有名な桜の歌があります。

 

 

世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし(馬頭)

 

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この世の中に桜の花が全くなければ、春の心はのんびりのどかなのになぁ・・・。

もちろん桜がなければ良いという歌ではなく、心をざわつかせる

桜ということで花の良さを表したものです。

俵万智さんは、「桜は開花を待ちわびて、咲いたら咲いたで妙に

ウキウキして、散ってしまわないかとハラハラする。強い春風に

あっという間に散ってしまいがっかりする。まったく、人の心を

騒がせる花だ」と言われています。

「待ちわびる→ウキウキ→ハラハラ→がっかり」の繰り返しです。

がっかりの後は、また春を待ちわびています。

満開の桜も、風に舞い散る花吹雪も、そのあと新緑の葉桜もとてもきれいです。

一方、桜のほうは誰に教えられたわけでもなく、機が熟せ蕾みになって

やがて花を咲かせます。全部、自然に任せています。

 

今年、早咲きの桜を見ながら自然体で生活していれば「機が熟す」時が

来るんだなと感じました。

我儘を言わず、自然の流れに任せて生きてみようと思いました。

そうすれば、自分でも気づいていない蕾が花を咲かせるときがくる。

また、それが散るときも。

短歌なかで「桜」が出てくると、その儚さを人生に例えることが多いようです。

私たちの人生も儚いものでしょう。

きれいな花が咲いた後、きれいな花吹雪を見せられるように生きていきたい

と思いました。

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毎週水曜日更新をしてきました「旅する禅僧」ブログですが、

次回から隔週水曜日の更新となります。

これからも「旅する禅僧」を宜しくお願い致します。