旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

亡き人を近くに感じるために

こんにちは。拓光です。

 

秋晴れの爽やかな日が続いております。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

 

8月、9月は亡き人を偲ぶお盆と秋彼岸が続きましたが、皆さんはどのような時を過ごせたでしょうか。中には亡き人と共に過ごした思い出に、寂しさや懐かしさを感じた人もいたのではないでしょうか。

 

私にも学生時代に祖父を亡くした経験があります。祖父が亡くなったのは高校生の時のことです。

祖父の自宅は我が家から徒歩圏内にあり、幼少期から中学生になるまでは祖父宅に出向いて他愛もない話をして帰るということが私にとっては当たり前の日常でした。

そんな俗に言うおじいちゃん子、おばあちゃん子だった私は祖父を亡くしたことに、とてつもない喪失感を感じ夏休みの間に塞ぎ込みがちになってしまいました。

そんな様子の私を見かねて母は「今からおじいちゃんの家に行って線香でもあげてきなさい。おばあちゃんも最近あんたが来なくて寂しがっているよ」と声を掛けてくれました。


重い腰を上げて祖母に会いに行くと、祖母は温かく向かい入れてくれ、「話相手が来てくれて嬉しい」と喜び、いつものように私の好物のお菓子とお茶を出してくれました。

それを機に次の日から幼少期の頃のように毎日祖父宅へ行き、祖母と祖父の話をして帰るというのが私の日課になりました。

初日に祖母からお菓子を出された時に気付いたのですが、家にいるのは私と祖母の二人だけなのにお菓子とお茶がなぜか一つ余分に多く出されていたのです。

 

その時は育ち盛りの私に二人分食べなさいという意味で出しているのかなと不審に思い手を付けませんでした。

しかしそんな日が何日も何日も続き、流石にひょっとして祖母も祖父を亡くした喪失感からか、寂しくて痴呆が進んでしまったのかなと心配に思い、「ばあちゃん、なんでお菓子とお茶がひとつ多いの?これ俺食べちゃっていいのかな」と聞いてみました。

 

すると祖母は、「おじいちゃんはあんたと話すのが大好きだったからね。おじいちゃんの分も用意したらそこで笑いながら聞いているような気がするんだよ」と照れながら答えました。そしてそっと祖父の位牌の前にお菓子とお茶をお供えしました。

「本当はいつもあんたが帰った後にお供えをしているんだけどね。おじいちゃんが生きていた時もこうやって夫婦で向き合って、孫のあんたの話をよくしてたよ。今もこうやっておじいちゃんを思うといつでも傍にいてくれている気がするよ。」

 

寂しくて痴呆が進んでしまったなんてとんでもない勘違いでした。
祖母は亡くなった今も祖父のことを思い、祖父が喜ぶであろうことを行っていたのです。

生前と変わらず、亡き人の心に寄り添う。僧侶となって改めて実感するのですが、これこそが真の供養であり、亡き人を近くに感じるために必要なことなのではないでしょうか。私達が亡き人のことを思うときには、きっと生前と変わらず私達の傍にいてくださるでしょう。

 

大切な人を亡くされたことは深く悲しいことですが、それ以上に悲しいことは亡くなられた方を過去のものとしてしまうことであると私は思います。

私達は日々の忙しさの中で、亡き人とどのように向き合うのかと考えることを、おろそかにしてしまいがちです。このブログを機会に振り返ってみてはいただければ幸いです。

 

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暑さ寒さも彼岸まで

 皆さんこんにちは尚真です。前回の投稿の頃は梅雨がなかなか明けない等と記していましたが、梅雨明けの後は暑い日が長く続いておりました。コロナ自粛で運動不足になっている方や、長い時間マスクを付ける必要のある方には、今年の夏は特別に暑さが応える夏だったことでしょう。

 

 しかし先日の台風の接近に伴い、冷たい空気を一緒に運んで来たのか、だいぶ日中は過ごしやすくなりました。朝晩は少し肌寒くさえ感じます。『暑さ寒さも彼岸まで』と昔から言いますが、昔の人はよく言ったもので毎年その通りになるので驚かされるばかりです。

 

 コロナの影響で外出する機会がめっきり減ってしまい、最近の休日の楽しみはもっぱら愛犬の散歩に行く事です。田舎に暮らす最大の利点は自然に溢れているという事、のどかな田んぼ道や、木立に囲まれた林道など散歩コースには事欠きません。

 

 どんよりとした雲の多い日には、田んぼの上を手を伸ばせば届きそうな高さで、ツバメが旋回しながら飛んでいく様を良く目にします。『ツバメが低く飛ぶと雨が降る』と昔から言いますが、これは湿度が高い為に餌となる小虫が普段より地面の近くを飛ぶ事で、ツバメも低く飛ぶそうです。

 

 また地域によって様々な言われ方をしていると思いますが、『○○山に雲が掛かると雨が降る』とか『○○湖に霧が出ると雨が降る』とか、雨を予想する古くからの言い伝えがどの地域にも必ずあると思います。

 

 昔は農業を生業としている人が当然今より多かったでしょうし、建物も現代より簡素で、車も無い時代には、今よりも雨が降る影響が断然大きかった事と思います。私たちがスマホの天気予報アプリでポチポチと調べるように、昔の人は周囲の景色や生き物を見て天気を調べていたのですね。

 

 天気にまつわるものだけでは無く、例えば『食べてすぐ横になると牛になる』とか、『夜爪を切ると親の死に目に会えない』なども昔から良く言う言葉だと思います。『夜爪を切ると・・・』は妙に信じ込んでいて、子供の頃は必ず昼間に切るようにしていました。これは昔の行灯の灯りが暗かった為に、夜切ってはいけないと言われていたものだそうです。

 

 妻にも何か思いつくものがあるか聞いてみたところ、『秋茄子は嫁に食わすな』が真っ先に出てきました。姑である私の母に普段いじめられているかのようで、それを聞いて少し心配になりましが、お嫁さんを気遣う、『茄子は美味しいけど毒性があるので食べ過ぎないように注意しなさい』のような意味もあるそうです。

 

 このように皆さんの生活に浸透している古くからの言い伝えやことわざも、先人の教えのような物だと思います。私たち僧侶も、お釈迦様の御教えや道元禅師を始めとしたお祖師様方の御教えを学び、実践し、皆様にお伝えするのがあるべき姿であり、それを目指して日々精進して生活しています。

 

 そう聞くと様々な事を我慢したり、無理をして生活しないといけないのではと敬遠してしまう人もいるかもしれません。しかし、仏様の御教えはよりよく生きるための智慧であり、苦労をする為の教えでは全くありません。皆さんの暮らしがより良いものになるように、仏様の御教えがもっと皆さんの生活の中に浸透していくように、今後より精進していこうと思います。

 

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すっかり秋らしくなって来ました

 

而今に学ぶ。17

 こんにちは。俊哲です。お彼岸もお中日を過ぎました。皆様はお墓参りには行かれましたか?テレビなどでGo Toトラベルでの高速道路の渋滞や、観光地の混雑の様子が放映されておりました。コロナ禍による閉塞的な生活が続き、リフレッシュのための旅行でしょうか、故郷への墓参の車もあったのでしょうか。

 

〝自分の来たところであり〟、〝自分の行くところ〟にお参りする生活を大事にして欲しいものだと思っております。

 

とは言え、私も頃合いを見て、少しは旅に出たいなと思うようになりました。海外からの観光客が少ないという現在、常に混雑していた京都をまた訪ねたいなぁと思うのです。

 

 以前、京都へ旅した際私は、ある臨済宗のお寺に立ち寄りました。周囲には修行道場となるお寺や塔頭寺院があり、その日は数ヶ寺ほどお庭の拝観が可能でした。

 「禅の庭」は枯山水と呼ばれ、砂利に付けられた熊手の跡や並べられた岩によって水の流れを表します。門を抜けた先、寺院の前に広がる庭に、細やかな人の手と、自然との調和を感じ、ずっとその場で見ていられるほどの心地よさを感じます。

 

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苔むした禅の庭園

 そのお寺のお庭でカメラを出し、その美しさを写真に収めようと努めましたが、思うように上手く行きません。諦めて、しばらく庭を前に腰を下ろし、静かに座っておりました。しばらくして、そのお寺の御住職さんが現れ、私が僧侶だと気付き声をかけてくださいました。同じ禅宗の僧侶と分かると、こんな若僧にも貴重なお話を聞かせてくれました。

 

 「禅の庭は見て楽しむものではなく、味わうもの」

「携帯電話片手に写真を撮りに来る人は増えたけど、そのレンズに何がおさまるのかな」と。

 

 私はハッとするところがあり、私もカメラでの撮影を諦めたことを伝えました。お話に聞いたように、ある部分だけを切り取って伝えることはできても、このお庭が持つ全体性を私には写真で表現できないことを伝えました。

「それで良いのですよ」と一言告げ、御住職さんは奥のお部屋に入っていかれました。

それは、仏法に通じる非常に大事なことであり、その後の私の人生に大きく影響を受けた気がします。

 

 見て楽しむのではなく、味わうもの

 

カメラや携帯電話を庭に向け、その時『私』と『庭』を隔てていたことに気がつきました。レンズを向けた時に、庭全体がもつ美しさ、複雑に、そして単純に織り成される全体性に『私』の存在が欠けていたのでした。目の前に広がる美しい景色を『私』と別物と考えるのではなく、そこにいる『私』の存在も含めた環境で、私はどのようにその環境に関わることができるのかというのを問われているのです。つまり、〝私も含めた庭である〟ということです。

 

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禅の庭に居心地の良さを感じるのは、「環境」があなたを拒まないから

 

 私は写真を撮ることが好きで、少ない荷物の中にカメラを携えて旅をします。

特にスナップショットと呼ばれる、日常のふとした瞬間を好んで収めます。もちろんカメラは趣味に過ぎませんが、レンズを向ける時、目の前に広がる景色といかに私が調和しているのか、この出来事以降よく考えるようになりました。

 

 目の前に広がる世界に、皆さんはどのように関わっておられますか?

目の前の世界を、現実の全てと思うならば、その世界や現実にあなた自身が深く関与していることをまずは知らなくてはいけませんね。

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世界との関わり合い、筆者の旅は続く。写真はスリランカコロンボの街並み。

 

好きの中の嫌い 嫌いの中の好き

みなさまこんにちは!
光彬です!
少しずつ涼しくなり秋の予感がして参りました*
私は金木犀の香りがとても好きなので
待ち遠しい気持ちです!

本日修行道場において転役(てんやく)という、
部署異動があり、約1年半お世話になった
調理場を出ることになりました!
今度はお寺の入り口で様々な受付をする、
受処(うけしょ)に配属されることになりました!
また気持ちを新たに頑張ります!

つい先日の話、
まだ調理場で寺内の食事を支度していた時のことです。

私は昔から偏食家で、とにかく気に入ったものはたくさん食べ、嫌いなもの、特に、食べてもいないのに匂いや見た目が気に入らないという理由ですら、食べたくない!と
頑なに拒んできました。
とくに、ここには多過ぎて書ききれませんが
野菜は大の苦手でした。
大学生の時にアルバイト先のファストフードの飲食店では
賄いがでたので、そこで色々食べれるようになりましたが、それでも食べたくないものはまだまだありました。

卒業後は修行に行き、そこでは私の食べたいものなど
個別では出てきません。その中の大勢の修行者と指導役はみんなで同じものを頂きます。初めて味わう空腹感からか、修行中には野菜嫌いなど無くなったのかと思うほど食べられるようになりました。それに、美味しいとすら感じていたのです。これには自分でも驚きました(笑)

美味しいものがたくさんあるんだと気が付かせて頂いた修行期間でしたが、その後、指導役として再び調理場で修行させて頂くことになりました。
2年目のついこの間の9月初頭、いつものように
寺内の食事を作っていました。その日は他見から
色々頂きものをしていて、何種類かの野菜が調理場に
集められていました。その中に、私があまり好きではない野菜、ズッキーニが見えました(*_*)
これは。。と思い、どんなメニューにするか
調べたりしましたが、気持ちは既に離れていました。
私は食べなくても良いから他の人が食べてくれるだろうとまで考え、簡単によくあるメニューにして提供しました。
思いの外美味しく出来たようで、みんな喜んでくれました。ですがここでピンチが訪れます。
見落としていた未使用のズッキーニがもう1つ
箱から出てきたのです。中途半端に余ってしまったので
どうしようかと思っていました。すると、1人の修行僧が
ちょっと作ってみたい物があるんですがよろしいですか?と使用許可をとってきたので、私はラッキーと思い
何でも良いから作ってみて良いですよ*と半分安心した気持ちで答えました。

何分かして、 出来上がった!と声がしました。
品物を見る気もありませんでしたが、どうでしょうか?と聞いてきたので一応確認しました。
修行僧全員の分は無いけれど、中ぐらいの丼に
8分目くらいに出来あがった料理がありました。
良かったら味見をお願いします!と言われましたが
乗り気ではありませんでした。ですが
不思議となんとも良い香りがしていたのです。

一欠片をさらに半分にして恐る恐る頂きました。
飲み込んでしまえと思いましたが、うっかり噛んでしまいました。するとどうでしょう、美味しかったのです。
平静を装い、美味しいねと、もう一欠片を食べてみましたがやはり美味しかったです。
私は今まで何を怖がってこれを見てきたのか、
一瞬にして分からなくなってしまいました。


曹洞宗 大本山永平寺を開かれた道元禅師様の書き示された教えに『典座教訓』という出典があります。
その中に
「比丘の口、竈の如し。(びくのくち、かまどのごとし)」という言葉が出て来ます。続きがありますが、
仏道修行者というのは、好き嫌いせずどんな食べ物でも同じように有り難く頂くのである。
続き→[この事をよく理解すべきだ。粗末な野菜が修行者の尊い身心を養い育むのだ。賎しいとかつまらないと思って支度してはいけない。仏同を説く修行者は、粗末なものを修行者が食べて力が湧くように工夫して作らなくてはいけない。]と。

私は食べてすらいないものを嫌いだからと遠ざけ、他の方が頑張って修行して頂くためにより美味しくしようとする努力も怠っていました。それはもはや仏道修行を怠っていることと同じです。お経を読む法要は好きだけれど、座禅は苦手だからしない、そんなことは言えません。ですがそう言っている事と同じなのです。

人は好きの中にも嫌いがあって、嫌いの中にも好きがある。誰しもがそうだ。嫌いな食べ物も調理法によっては食べられたり、嫌いな人がいてもその人の中に良いなと思えたりする部分があったりする。
宗教、また仏教において、その教えは生き方を豊かにしてくれる。修行も、嫌なことを少しでも楽しとか良いとか思えるよう工夫して臨めばそれは素晴らしいことに繋がる。あるご老僧からの言葉です。

調理場で怠慢になっていた私への最後の警告か、激励か。
これからまた一から色々なことを覚えていくわけですが、
嫌な仕事を進んでやり、得意な事に変えてより良い修行にしていこうと思います。f:id:tabisuruzensou:20200915225558j:plain

一期一会

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無防備な昼寝


こんばんは、禅信です。

 

毎日夕方に散歩に出かけますが、18時にお寺の鐘を鳴らしてから

犬を連れて走り出すと橋を超えて10分ほど経つ頃には空も薄暗くなり

雷雲と共に風が運ぶ雨の匂いに夏の終わりを感じる時節となりました。

 

 

今年もうだるような暑さが連日続き、日中は外に

出るのも躊躇するような夏でしたが、

8月のお盆には提灯片手に沢山の人たちがお墓参りをされてました。

 

 

今年は例年とは違い、お盆の棚経も初盆を迎えるお檀家さんの家だけ

お参りさせていただいたので、私も13日の昼間は時間があり

衣を着てお墓を回って読経を務めた後に、

提灯をもってお迎えに行ってまいりました。

 

 

恥ずかしいことですが、お寺に住んでいながら忙しさにかまかけて

お盆様のお迎えは里帰りをした叔母や兄弟に任せていた為に

思い返せば小学生の時依頼行っておりませんでした。

 

お寺の歴代住職のお墓、お祖母ちゃん達のお墓、お殿様のお墓、と順に周り

お花、お線香を供え手を合わせます。

 

 

提灯を持って帰ろうとすると、

 

「お盆にお墓で会うなんて珍しいなぁ!

うちの息子は東京だからことしはかえってこれねぇんだよぉ」

 

同級生のお父さんから声をかけられました。

その時は世間話をして別れたのですが、

 

 

棚経で初盆のお宅にお伺いした際にも皆さん口々に

「今年は親戚のひとはこれなくってねぇ」

「今年は子供には帰ってくるなよぉって言ったんだ」

と、寂しそうに話していました。

 

 

 

お盆休みを使って里帰りをする人、またそれを楽しみに待つ家族にも

今年はつらい決断せざるを得ない環境であったことは確かです。

 

 

私は年に一度、2月に鳥取のお寺で開催される摂心会(坐禅修行)に

随喜して、参加者の皆さんと坐禅、食事、読経を3日間修行します。

 

夜の坐禅の後、住職さんの部屋に行き一日の疲れを労いながら雑談を

楽しんでいる中で、

 

「一年に一度、あと何年続くかわからない、あと何回会えるかわからない、

 毎回とても楽しみであり、毎回寂しく、毎回真剣に勤めたい」

 

そんな言葉を言われたことを思い出しました。

 

 

大切な家族、友人、一つ一つの再会を大切にそう感じたお盆でもありました。

 

 

 

日日是好日


こんにちは、哲真です。

 

残暑が厳しい日が続いております。皆様、体調の方は大丈夫でしょうか。

 

今年は新型コロナウイルスの影響で三密を避けるようになったり、マスクをしたりなど生活様式が変わりました。これを「新しい生活様式」と表現したりしています。ただ、今から百年前に起こった通称「スペインかぜ」の資料を見ると、そこにあるのはマスク姿の人々。今も昔も対策はあまり変わっていないのでしょうか。

 

また、安倍首相も病気の影響で辞任されるとのこと。時代の変化の時ともとれますね。

 

このような変化の時代でも人々はコロナ対策をして、日々を楽しんだりしています。新型コロナに感染したい方はいないと思います。その中であっても時には日々を活動的に過ごすこともやはり大事なのではないでしょうか。

 

このような過ごし方をしていると、ある言葉が浮かびました。それは「日日是好日」です。文字通りだと「毎日が素晴らしい日」となります。その日が悪い日で不吉な事が起こるのではないかとおびえて過ごしたり、過去のことにとらわれてその日を台無しにしてしまうのではなく、その一瞬一瞬を精一杯生きることこそが大事なのだと思います。

 

新型コロナでおびえて過ごし家から一歩も出ないのではなく、対策を万全にし、免疫力を高める為に食事を取り、十分な睡眠、そして運動をし、三密を避けて出かけるということをしていくことも大事です。

 

私は、このコロナ禍の中、その日が何もしないで終わったということがないようにしていく必要があるのだと気づかされました。

 

この前、「日日是好日」というタイトルの映画を見ました。私は、禅に関わりがあるものはどうしても見たくなってしまいます。

 

日日是好日」は監督が大森立嗣さん、黒木華さんや樹木希林さんが出演しています。茶道を通して様々な出会い別れ、経験を通して人生における大事なことに気づいていく映画です。それを見ながら、新型のコロナの影響がある生活を過ごす中でも、日々の生活の一瞬一瞬を大事にしていくことを改めて感じさせてくれました。

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日に悪い日はありません。

一日も早くこの状況が収束し、皆が制限なく自由に動けるようになることを願っております。

カレーに例える人

こんにちは。向月です。

今年は梅雨が長く猛暑日が続く夏でしたね。

熱帯夜のせいで寝不足だったり、食欲が落ちたり・・・。

私は食欲が落ちたときは、スパイスカレーを食べるようにしています。

 

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今年、コロナ禍で行われた外出自粛期に私はスパイスカレー作りに

はまってしまいました。

もともとカレーは大好物でしたが自分で作る事はあまりなく、

おいしいと噂のカレー屋さんを食べ歩くことをしていました。

雑誌やインターネットで口コミを見て、そのお店でどんなカレーが

食べれるか調べることが好きでした。実際にお店に行ってイメージと

違うことも多々ありましたが・・・。

しかし、新型コロナにより不要不急の外出は自粛すことに。

大好きなカレーの食べ歩きもできません。

それでもカレーを食べたくなります。

そんな時、友達から「それなら、自分でスパイスカレーを

作ってみてはどうですか?」と言われました。

彼は実際インドまで行って現地のスパイスカレーの作り方を習ってきた方です。

私も彼のスパイスカレーが好きで、いろんなカレーを作ってもらいました。

彼からスパイスを譲ってもらい、自宅でスパイスカレー作りに挑戦です。

はじめはスパイスの名前もわからず、分量もインターネットで

レシピを見ながら作っていました。

何度か作るうちに、以外と簡単にできることがわかってきます。

そのうち、自分の作ったカレーを誰かに食べてもらいたいと

思うようになってきました。

 

ある時、別の友達に、私の作ったスパイスカレーを振る舞う

ときがありました。

自分以外の方に振る舞うのは初めてで、どんな反応をされるか

心配でしたが、その友達は私のスパイスカレーを美味しいと

言ってくれました。

 

カレーを食べながらその彼が

 

 

「カレーも仏教もインド発祥だけど、日本のカレーはインドとは違うよね。

仏教もインドの仏教と日本の仏教では違うよね。」

 

 

と言われました。

インド発祥と言うことは同じだけど、カレーも宗教もその土地々々の

文化とミックスしながら変化してきたもの。

日本で隆興した仏教は日本風の仏教なのだけど、日本風にすることで

お釈迦様の教えを伝えやすくなたのだと思います。

インドのカレーを日本風にすることで、日本人の口に合うようにしたように。

インドの仏教をそのまま日本に伝えていたら、こんなにも

広がらなかったのではないでしょうか。

 

スパイスカレーを美味しそうに食べてくれる友達に言いました。

 

「カレーも仏教もインドとは違うけど、日本のカレーも仏教も、

私はどちらも好きですよ。」

 

仏教をカレーに例えた友達も、私と同じくどちらも

好きだと言ってくれました。

別物に見えていても本当は同じことを言っているときがあります。

細かいことを気にしすぎていると、中心にあるものを

見失ってしまいそうになります。

お釈迦様の教えも細かい違いは気にせずに、

本質を見ていきたいと思いました。

 

 

さて、別の旅ではある方と「この目で感」について

お話したのですが、その話はまた今度。