旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

僕が旅に出る理由

 

初めまして、祖雲(そうん)と申します。

今回、ご縁を頂いてこちらのブログに原稿を寄せさせていただくことになりました。

 

さて、御話をお受けしたのはいいけれど、何を書こうか。

コロナ情勢下で気軽に旅行に出られない今、北海道在住の私が

北海道の自然をお伝えして、少しでも旅行気分を味わっていただこうか、

 「旅する」禅僧だから旅の話か。

けれど旅らしい旅なんてしばらくしてないしなぁ…、

等々あれこれ考えている内に一週間、二週間と経ち、

「そもそも旅ってどうしてするんだろう」という考えが沸いてきました。

 

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皆さんは、出掛けた先から帰って来たとき、

「やっぱり家が一番落ち着くなぁ」と口に出したり、

思ったりしたことはありませんか?

出掛け先で何か嫌な思いをしたならともかく、めいっぱい楽しんだ後でさえ、

家に帰るとホッとした気持ちになることはありませんか?

 

だったら、最初から出掛けずにずっと家にいればいいんじゃないのか、

というとそういう訳でも無さそうです。

家に帰って日々の生活を送り、しばらくすると、あの景色が見たい、

あの名物が食べたい、と旅の虫がうずいてくる。

 

旅に出て、家に帰ってホッとして、それも忘れてまた旅に出る、の繰り返し。

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「人生は旅である」という例えをよく目にします。

「人生」を「旅」とするならば、「家」は「自分」、

「旅先」は「他者」とでも置き換えられるでしょうか。

 

「人は皆各々尊いのです」、お坊さんからそんな風に説かれても

中々腑に落ちるものではないのではないでしょうか。

本来尊いはずの自分や他者だとしても絶対的に尊いものだと、

肯定するのは難しい。そして肯定し続けるのはもっと難しい。

 

最終的には勿論そうなれればいいとは思いますが、

その入り口として、比較して良さに気付くという事が

あってもいいのではないでしょうか。

 

「旅行先も素敵だけど、自分の家が落ち着くね。

きっと、その旅先に住んでいる人もお互いに同じことを

思っているんだろうけど。」といった具合に。

 

 

旅(人生)の経験を通して、旅先(他者)の良さ、家(自分)の有難さに気付く。

 

 

という点も、人が旅をする理由の一つなのかなと思い今回書かせていただきました。

 

 

文章力不足、勉強不足相まって読みづらい点、

意味が分からない点多々あったかと思いますが、

最後まで御読みいただき有難うございました。

今回はお試しで記事を書かせていただいたため、次回は未定ですが、

またご縁がありましたら、書かせて頂く機会があるかもしれません。

その時に向けて日々精進してまいります。

                                                                                    合掌

大きな木の下で

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みなさん、こんにちは。慧州です。すっかり梅雨が明け、ジリジリと灼けるような暑さがやってきました。そんな猛暑の中でも、道を歩いていると至るところにセミの抜け殻を見つけることができ、成虫になった彼らは残り僅かの命ではありますが一生懸命鳴いています。

 

先日、久しぶりに図書館へ行きました。コロナの影響で長らく行けなかったため、やっとの訪問。ただ以前と同じように自由に利用できるわけではなく、感染予防のため時間制限のある予約制となっていました。その日は予約した時間より早く着いてしまったため、どこかで時間を潰さなければなりませんでした。普段であれば喫茶店に入って時間を潰せばいいものの、どうしても人混みが気になってしまい、仕方なく近くの公園に行くことに。

 

公園には大勢の人が集まっていました。炎天下の中、スケートボードの練習をしている若者たち。ランニングコースでひたすら走っている人々。既に夏休みに入ったのであろう小学生の子どもたちが虫網を持って駆け回っている姿。それぞれが思い思いの時間を過ごしていました。

 

私は大きな木の下にあるベンチで読書することにしました。とても暑い日でしたが、木陰に守られたその場所は風が通るととても涼しく感じられました。不思議なことに、周りではけたたましくセミが鳴いているにも関わらず耳障りには感じません。ある人から聞いた話ですが、外国の方は日本のアニメで夏の背景音としてセミの声が鳴いていても、ただの騒音にしか聞こえずやかましいと思うそうです。生まれた時から慣れ親しんだセミの声に、日本人はどこか夏の情緒さを感じるのだなと思います。

 

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ベンチで座っていると、ふと幼い頃よく口ずさんだある童謡を思い出しました。

 

大きな栗の木の下で

あなたとわたし

仲良く(楽しく)遊びましょう

大きな栗の木の下で

 

とても短い歌で、誰しもが一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。幼い頃「なぜ木の下では仲良くしなければならないのだろう」と不思議でしたが、今こうしてベンチで座っているとなんとなく理解できるような気がしました。

 

木は誰かのために見返りを求めて木陰を作っているわけではなく、たまたまそこで木として育ち、光を浴びて結果的に木陰を生み出しているだけです。しかし、人間だろうとセミだろうと全ての存在が平等に木陰を享受することができます。だからこそ、先の童謡では木の下で争ってはいけないと示されたのではないだろうかと思うのです。

 

この木陰のような存在は実は私達の身の回りに溢れています。一言で言えば「お陰様(おかげさま)」という表現です。誰かと挨拶するときによく「お陰様で元気にやっております」なんて言いますが、誰かのお世話になった覚えがなくとも「お陰様」と言うこの挨拶に幼い頃は不思議だなと感じていました。

 

でも実は私たちは知らず知らず「誰かのお陰様」で生きていて、さらに言えば「私たちのお陰様」で誰かが生きています。今生きているこの瞬間もそうです。空気があるからこそ私達は呼吸ができるわけであり、誰かが食料品を運んでくれるからこそスーパーに食べ物が陳列されています。互いに互いを支え合って生きていることを思い出させるために、「お陰様」というようになったのだろうと思います。昔で言うなら「お天道様」という考えに近いかもしれません。

 

コロナによって人との接触が減り距離が離れてしまったように思えても、決してつながりが消えたわけではありません。自粛期間中に話題となった医療従事者や配達業者への感謝はそのことを気づかせてくれた典型例ではないでしょうか。当たり前だからこそ気づきにくいのだと思います。

 

 「(みんなの)お陰様で私は元気です」

皆がそう思えたら、もう少し世界は平和になるかなと思えた木の下での出来事でした。

お盆の由来について

こんにちは。拓光です。

長かった梅雨もようやく明け、いよいよ夏本番となりました。今年の夏も去年と同様に暑くなりそうです。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

 

八月に入ると、私達僧侶はお盆の季節が近づいてきたなと少し身構えます。

皆さんはお盆を迎えるこの時期にはどのようなことを感じるでしょうか。中には亡き人と共に過ごした思い出に寂しさや懐かしさを感じる人もいるのではないでしょうか。

 

さて、今日はお盆の由来について少しお話しします。

お盆とは「盂蘭盆(うらぼん)」を略したものです。

諸説ありますが、盂蘭盆とはインドのサンスクリット語の「Ullambana(ウランバナ)」を漢字に当てはめたものであり、ウランバナとは「逆さづり」という意味です。この逆さにつるされた苦しみを取り除く供養が、お盆ということになります。

 

これはお釈迦様の十大弟子(10人の優れた弟子)の一人である、目連尊者の話が元になっています。

目連尊者は修行を積み、どんな世界でも見通せる力である神通力を使いこなせる境地に至りました。

その力で、まず最初に自分のことを大切に育ててくれた亡き母の様子をみて、その恩に報いようと考えました。 すると母は、なんと餓鬼道(常に飢えと乾きに苦しむ世界)で、逆さ吊りになって苦しんでいました。この世界では餓鬼たちが食べ物や飲み物を口にしようとすると、炎がふきだし、口をつけることができません。

 

驚いた目蓮尊者は、師匠であるお釈迦様に相談をしに行きました。そこで、自分には優しかった母が、我が子さえよければよいという自己中心的な幸せだけを願い、他の生物に対して施しを行わなかった結果、餓鬼道で苦しんでいることを知りました。

目連尊者がお釈迦さまにどうすれば母を救うことが出来るのかと相談すると、お釈迦様は、修行をしている僧侶に対して3ヶ月間飲食を供養すれば、その功徳(良い行い)によって母は救われるであろう、と教えられました。 目蓮尊者は、お釈迦さまの教えに従って修行僧達に飲食を供養し、その功徳によって母も餓鬼道の苦しみから救われました。

 

目連尊者は母が救われたことに大変喜び、その後お釈迦様に「もし後世の人々がこのような行事を行えば、苦しんでいる人々を救うことが出来るのでしょうか」とお尋ねになりました。 その問いに対しお釈迦様は、「もし真心を込めてこの行事を行うならば必ずや善きことがおこるだろう」とお答えになられました。 このお釈迦様の教えが現代まで伝わり、「お盆」という行事として今日まで続いております。

 

お墓には両親、祖父母もまだ入っていないから我が家にはお盆なんて関係ないという方も中にはいるかもしれません。 しかしお盆という行事は、亡くなった方を尊び供養するということだけではありません。 今、私たちがこうして生きていられるのは、先祖の方はもちろんのこと、過去の世の人々、今現在自分自身を支えてくれている方々。健康な身体を作ってくれる、食べ物など様々なもののおかげであります。

そのすべての人や物に感謝して、供養するという豊かな気持ちは自らの心も豊かにしてくれます。

どうかこの意味を良く考えながら、お盆を迎えていただけたらと思います。

 

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レジ袋と親切心

 皆さんこんにちは尚真です。今年はなかなか梅雨が明けませんが、不安定な天気ながらも日に日に暑さが増しているのを感じるこの頃です。今年は雨が多いせいか、各地で大雨による災害が出ています。雨が少ない時には恵みの雨なんて言いますが、多すぎるのも困りものです。

 

 7月1日からレジ袋の殆どが有料化になりました。個人的にはこの試みは環境問題への取り組みとし非常に良い事だと感じています。開始される前はコロナ禍の影響と相まって、マイバックに詰める時に感染のリスクがある等、多少の混乱が想定されるような報道がされていました。

 

 1か月ほど経ちましたが皆さんは慣れてきましたか?私としては、普段からちょっとした買い物ならレジ袋を断ることが多く、特に有料になった事に不便さを感じる事はありません。お会計の際に、「レジ袋ご利用になりますか?」と一言訪ねられるようになり、むしろレジ袋を断りやすくなって良かったと感じています。

 

 レジ袋の有料化が始まる前のコンビニでは、こちらが小銭の準備や、スマートフォンでキャッシュレス決済のアプリの操作などをしている間にもうレジ袋がスタンバイされていて、「袋要りません」と言い終わる頃には袋詰めが終了している、なんて事がよくありました。そのような時は、何だかこっちが悪い事をしたような、気まずい空気になった事を覚えています。

 

 仏教の教えでは、「利行」と言って、見返りを求めることなく人の助けになるような行いをするよう勧めています。しかし見返りについてだけでなく、相手にとって本当に助けになるのか等あれこれ考えていたら、実際に行動に起こすことはなかなか難しくなってしまいます。

 

 最近のコンビニは、どんどん便利になり、次々に新しいサービスを私達に提供してくれています。ですが私としては、昔はちょっとした買い物だと「このままでも良いですか?」なんてレジ袋の有無をよく聞かれた様に記憶しています。きっと最近のコンビニでは人為的なミスを無くす為に、マニュアル化された接客を行っているのでしょう。

 

 しかし、コンビニにとってはサービスで行っていた、一つの商品でも丁寧に袋詰めする作業は、私にとっては過剰包装であり正直不要なサービスでした。そして有料化された事によって、レジ袋の有無を毎回聞かれる事に対し、私のように良く捉えている人もいれば、不便さを感じる人もきっといる事でしょう。

 

 このように、その人の置かれている状況や立場や様々な理由で、好意的に捉えられたり、その逆の結果を招く事があります。世の中で良かれと思って親切心でやった事が、逆に裏目に出てしまって失敗することは良くある事かも知れません。電車で席を譲った時に断られて、結局また自分で座ると言う経験を、多くの人がした事があると思います。

 

 実際に私も、「実は相手にとって迷惑なのでは?」等と考えているうちに声を掛ける機会を逸して、結果的に見て見ぬふりをしてしまった事も多々あります。相手の立場に立って思いやることも大切ですが、考え過ぎずにまずは勇気を出して行動に移すことも大切だと感じます。

 

 そしてもし自分が他の人からの親切を受ける立場の時には、その親切が自分にとってありがたいかそうでは無いか考える前に、その人の親切に対して感謝の心を持ち、自然と感謝の言葉が言えるようになれば、このどんよりした梅雨空の中でも少し明るい気持ちになれるような気がします。

而今に学ぶ。16

 こんにちは。俊哲です。

この数日、一連のコロナの騒ぎが国内でここまで大きくなる前に旅をした海外でのことをまとめておりました。その作業中、つい数ヶ月前のことがなんだか遠い昔の出来事のように感じました。つい数ヶ月前の出来事が非現実に感じられたのは、その時から見たら非現実であろう現在のWithコロナの生活に慣れてきた証とも言えましょう。

 

この週替わりで投稿するブログタイトルは『旅する禅僧』ですが、時期が時期だけに私も含め皆さん、”赴く旅”が叶わずにおります。国が主導するGo To政策もどのようになるのでしょうか。その不安とともに移ろいゆく世相を眺め、人生という旅の景色を共有する楽しさを私は感じ過ごしております。

 

 

 さて、今日は『旅する』と冠していますので、2016年に南アジアの国、バングラデシュを旅した時のことを書こうと思います。

このバングラデシュ人口爆発が社会問題になるなど人口密度が非常に高い国で、現在でこそ人口増加率は低いものとなりましたが、依然労働力を充分に満たすことができる上に賃金が低いことから衣料メーカーなどの工場がたくさんある国です。また、そうした場所での過酷な労働環境などの問題で度々取りあげられることがあります。

 

現在、国民の88%がイスラム教徒ですが、かつては東南アジア諸国へ仏教が伝わっていった仏教史に於いて重要な地であり、かの有名なカンボジアのアンコール遺跡や、ミャンマーバガン遺跡に影響を与えたとされる世界遺産パハルプール遺跡を有しております。

 

 そんな国を実際に歩いてみたく訪れた訳ですが、

私も20有余国を旅した中で一番衝撃を受けた国でした。

 

 

 滞在中、先にも述べたように、人の多さにはとにかく驚かされました。なんでもない、ごく一般的な道で、人や自転車に押し挟まれ混雑で一歩も動けないという状況を何度も経験しました。それはまるで花火大会の行き交う人の混雑のようなものでした。安くない航空券代を払い、時間をかけ私は何しに来たのだろうかと自問したことを記憶しています。

 

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とにかく人の密集度に驚かされた

人が多いということは、多様な人がおります。その中には、働く子供たちの姿や、ストリートチルドレンの姿もありました。

 

多くの人や車、リキシャーで溢れた交差点に差し掛かると、足が止まりました。

 

その時、ふと感ずることがありました。

 

私は、貧乏旅行者でカメラ片手に旅をするバックパッカー。しかし、この交差点で、もしかしたら一番裕福な生活を送っているのかもしれない。その先の旅を思えば決して多いとは言えない額のお金を持っているが、そのお金をこの交差点にいる何%の人が持ち合わせているのか。客引きや物乞いに「ノーマネー」ってなんで言えるんだ。

そう考えたら突然目の前の景色と騒音が遠くかすれてゆくのがわかりました。

私は日本に生まれただけ…

 

しばし呆然と交差点に立ち尽くしておりました。

 

 しばらくすると、誰かの視線を感じます。

目を向けると女の子と男の子が私を見つめていました。2人は兄弟のように見えましたが、確認することは出来ません。この2人はストリートチルドレンで行き交う人たちにお金を乞うておりました。

「そうか、2人はお金が欲しいのだな」と我に返りました。すると、2人の視線が私の肩にかけたカメラに向いていることに気が付きました。

「カメラはあげられないな」そう思った瞬間に2人はポーズをとっていました。写真を撮って欲しかったのだと分かり、すぐにカメラを構え、シャッターを切りました。

ここで2人の写真はお見せ出来ませんが、2人の姿は純真無垢なものでした。

撮影した写真をすぐカメラの画面で見せると、2人は笑顔になり手を振って喧騒の中に走りさり、物乞いを続けはじめました。

 

目の前の喧騒と、行き交う人や車の音に胸のざわつきが溶け込んでゆくのを覚えました。

 

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ダッカ市内の交差点

 

 旅先で見る景色とは、実際はその光景に自分の心の中の風景を映し出し、その景色を眺めているのでしょう。

 このブログに記している、ある時の旅の話は、ある時期の私自身について書いているのです。

 

皆さんにも、心に残る思い出や、思い出される景色があると思います。そこに付随する感情や感想こそが、それらの景色や記憶に導かれて自覚する、ある時期のあなたの心の中の風景なのです。

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自慢のマンゴーを持ってポーズをとる男性。人の数だけ人生があるのだ

 

固かったタケノコ

みなさんこんにちは!光彬です!
今年はなんだか雨が多いような気がします。
梅雨ということもありますが、
九州地方の大雨による自然災害やコロナウイルス
再度蔓延など、気持ちが落ち込んでしまいがちです。
いかがお過ごしでしょうか?


今日は私が以前しでかした
失敗のお話をさせて頂きます*


少し前の春半ばのことです。
東京の修行道場で典座寮(てんぞりょう)という
食事を司る部署に配属されて1年と少し
経った時でした。
修行僧の師寮寺(師匠がいらっしゃるお寺)から
筍の頂き物をしました。群馬県から送られてきたもので
新鮮取れたてのものを送ってくださり、
「どうか皆様でお召し上がりください」と丁寧なお手紙まで添えて送ってくださいました。

大きいものがゴロゴロ入っていて、茶色い皮にはまだ
水滴や土が付いており、鮮度が良いことは見てすぐに分かりました。さっそく修行僧と一緒に筍の下処理をするために皮をむき、灰汁抜きの支度を進めました。

ちょうど去年の同じ頃にも、違う県からですが
筍を送って下さったお寺がありました。
その時には上司が下処理の仕方を調べて下さり一緒にさせて頂きましたが、今回は自分が上に立って下処理をさせて頂きました。
手順や方法は分かっていたので難しくはありませんでした。

灰汁抜きまでの処理が終わり、
大鍋から取り出した筍からはそのまま
食べてしまいたい位良い香りが立ち込めました。
処理が終わったのが夜の7時過ぎだったので、
その筍は次の日の薬石(お夕飯)で出すことになりました。

次の日、筍を使った料理に取りかかりました。
しっかりと下処理が出来たので、調理してさらに
美味しくなるであろうことにうきうきしながら
作業していました。

食事の時間ギリギリに出来上がり、熱々の状態を
なるべく保って出すことが出来ました。
修行僧のみなさんも指導役の僧侶の方々も
美味しかったよ!と言ってくれました。

その中で、ある指導役のご老僧からこんな
お言葉を頂きました。
「味は良かったけど、少し筍が固かった。三徳が備わってない食事でしたね。」と。
一瞬驚き、失礼致しました。とだけ言いましたが、
何が悪かったのか気が付くのに少し時間が掛かりました。


余った料理をもう一度食べてみました。
固さも味も、冷めても美味しいように自分では
感じました。
筍が硬いだけでどうしてあのように言われたのだろうと
次第にモヤモヤした気持ちが溜まっていくのを感じました。

薬石のあと、私はそのご老僧のお部屋に呼ばれました。
筍の件だろうと思いましたが、案の定そのことでした。
まず筍のことをお詫びしましたが、他に何がいけなかったのかを伺いました。

きれいに作られていて灰汁の渋みもない、
調味料がバランス良く使われていて
口当たりは良かった、けれど、私のような年の者には
あれくらいの柔らかさの筍でも硬いし大変なんだ。と
仰いました。
私は"三徳が備わってない"と言われたことを
そこで気が付きました。

福井県永平寺を開かれた道元禅師様が
典座教訓という著述を残されました。
この中には食事のこと、1日の仕事のこと、
作るときの気持ちのことなどが事細かに記されています。
その中に、三徳という教えがあります。
『禅苑清規』に云く(いわく)、「六味精しからず(くわしからず)、三徳給わざるは(そなわざるは)、典座の衆に奉する(ぶする)所以に非ず」

「修行僧のために制定された正しい決まりごとが記された禅苑清規によれば、
六味[苦い・酸っぱい・甘い・辛い・塩辛い・淡い]の
バランスが良くとれ、
三徳[軽軟:あっさりして柔らかくできている]
[浄潔:きれいでさっぱりしている]
[如法作:正しい手順で、正しい方法で調理がされ無駄がないようにされている]
が備わっている食事でなければ、修行僧に食事を供養したことにはならない」とあります。

私は自分が食べるのに肉厚な方が好みです。
また、大きさも精進料理といえど食べ応えがある方が好きなので大きく切っていました。
その日の筍もそのようにしてしまっていました。
いくら灰汁抜きの時に茹でたとしても、それでは
十分に柔らかいか、火が通っているか、全員が全員
この大きさ固さで大丈夫かなど分かるはずがありませんでした。
味付けで美味しくできれば良いという思いから
食べる人への配慮を欠いていたのです。
思い返せば、色んな野菜を何回もそのようにしてしまっていたことに気が付き、その日の食事は供養させて頂いたことにはなっていなかったのだと恥ずかしい気持ちになりました。

修行道場には幅広い年齢層の方々がいます。
好みも違えば考え方もちがいます。
だからこそ、その人たちがどうしたら
美味しく食べられるか、満足してもらえるかを
教えの通りよく思慮して、これからの食事作りに
向けていきたいと思いました。
また、この教えはどんな場所でもどんな立場であっても
通ずる教えであると思います。
ここを出てからもこの日の気持ちを忘れず
向き合っていきます。


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迷い犬

こんばんは、禅信です。

 

巣立ちの時期になり境内でもまだぎこちない飛び方の雛をよく見かけます。
毎年、巣立ちに失敗した雛を住職が拾ってきては一週間ほどエサを与えて飛べるようになってから自然に返す。

そんな姿が風物詩の様になっています。

 


今年も一匹のスズメを巣立たせました、

今年のスズメは自然に放してから5日目になりますが、
住職が朝玄関を開けると、屋根にとまり餌をねだる様に待ち構えています。

 


そんなスズメを肩に乗せて幸せそうに笑う
住職を見るとこちらも幸せな気持ちになります。

 


今年はそんなスズメと一緒に迷い犬もやってきました。

 

先日、車で出かける用事があり通勤の時間と
重なることを考えて少し早めに出発しました。
お寺を出て一つ目の信号機に差し掛かったところに
柴犬が一匹ふらふらと歩いていました、
近くに飼い主の姿はなく首輪はしていましたが
リードはついていなかったので、飼い主の元から
はぐれて彷徨っているのだと思い保護することにしました。

 


たまたま車に積んであったリードをもって近づくと人にも
慣れた様子ですぐにリードをつける事が出来ました。

 


お寺に連れ帰って水をやり、近所の獣医師さんに
連絡を取るとすぐに往診してもらえることになりました。
歳は4歳か5歳位で少し痩せてるけど、
身体もそんなに汚れてないからまだはぐれて
間もないだろうとのことでした。

 


それから、今日でちょうど一週間、玄関を開けて顔を
のぞかせると、のそのそと近寄ってきて甘えた声を
出してこちらの様子をうかがいます。


そんな、素直なスズメや犬の姿を見ていると
肩の力が抜けて自然と優しさが沸き上がってきます。

 

言葉が通じない分、あいての表情や態度を
読み取ってその感情に共感する。


私たちも素直が一番と頭では解かっていますが
なかなか態度や表情に出せないこともあると思います。

 

住職がスズメを肩に乗せて笑う顔を思い出し、
ほっこりした気持ちで本日のブログを閉じようと思います。

 

 

 

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ゴン(仮)