旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

レジ袋と親切心

 皆さんこんにちは尚真です。今年はなかなか梅雨が明けませんが、不安定な天気ながらも日に日に暑さが増しているのを感じるこの頃です。今年は雨が多いせいか、各地で大雨による災害が出ています。雨が少ない時には恵みの雨なんて言いますが、多すぎるのも困りものです。

 

 7月1日からレジ袋の殆どが有料化になりました。個人的にはこの試みは環境問題への取り組みとし非常に良い事だと感じています。開始される前はコロナ禍の影響と相まって、マイバックに詰める時に感染のリスクがある等、多少の混乱が想定されるような報道がされていました。

 

 1か月ほど経ちましたが皆さんは慣れてきましたか?私としては、普段からちょっとした買い物ならレジ袋を断ることが多く、特に有料になった事に不便さを感じる事はありません。お会計の際に、「レジ袋ご利用になりますか?」と一言訪ねられるようになり、むしろレジ袋を断りやすくなって良かったと感じています。

 

 レジ袋の有料化が始まる前のコンビニでは、こちらが小銭の準備や、スマートフォンでキャッシュレス決済のアプリの操作などをしている間にもうレジ袋がスタンバイされていて、「袋要りません」と言い終わる頃には袋詰めが終了している、なんて事がよくありました。そのような時は、何だかこっちが悪い事をしたような、気まずい空気になった事を覚えています。

 

 仏教の教えでは、「利行」と言って、見返りを求めることなく人の助けになるような行いをするよう勧めています。しかし見返りについてだけでなく、相手にとって本当に助けになるのか等あれこれ考えていたら、実際に行動に起こすことはなかなか難しくなってしまいます。

 

 最近のコンビニは、どんどん便利になり、次々に新しいサービスを私達に提供してくれています。ですが私としては、昔はちょっとした買い物だと「このままでも良いですか?」なんてレジ袋の有無をよく聞かれた様に記憶しています。きっと最近のコンビニでは人為的なミスを無くす為に、マニュアル化された接客を行っているのでしょう。

 

 しかし、コンビニにとってはサービスで行っていた、一つの商品でも丁寧に袋詰めする作業は、私にとっては過剰包装であり正直不要なサービスでした。そして有料化された事によって、レジ袋の有無を毎回聞かれる事に対し、私のように良く捉えている人もいれば、不便さを感じる人もきっといる事でしょう。

 

 このように、その人の置かれている状況や立場や様々な理由で、好意的に捉えられたり、その逆の結果を招く事があります。世の中で良かれと思って親切心でやった事が、逆に裏目に出てしまって失敗することは良くある事かも知れません。電車で席を譲った時に断られて、結局また自分で座ると言う経験を、多くの人がした事があると思います。

 

 実際に私も、「実は相手にとって迷惑なのでは?」等と考えているうちに声を掛ける機会を逸して、結果的に見て見ぬふりをしてしまった事も多々あります。相手の立場に立って思いやることも大切ですが、考え過ぎずにまずは勇気を出して行動に移すことも大切だと感じます。

 

 そしてもし自分が他の人からの親切を受ける立場の時には、その親切が自分にとってありがたいかそうでは無いか考える前に、その人の親切に対して感謝の心を持ち、自然と感謝の言葉が言えるようになれば、このどんよりした梅雨空の中でも少し明るい気持ちになれるような気がします。

而今に学ぶ。16

 こんにちは。俊哲です。

この数日、一連のコロナの騒ぎが国内でここまで大きくなる前に旅をした海外でのことをまとめておりました。その作業中、つい数ヶ月前のことがなんだか遠い昔の出来事のように感じました。つい数ヶ月前の出来事が非現実に感じられたのは、その時から見たら非現実であろう現在のWithコロナの生活に慣れてきた証とも言えましょう。

 

この週替わりで投稿するブログタイトルは『旅する禅僧』ですが、時期が時期だけに私も含め皆さん、”赴く旅”が叶わずにおります。国が主導するGo To政策もどのようになるのでしょうか。その不安とともに移ろいゆく世相を眺め、人生という旅の景色を共有する楽しさを私は感じ過ごしております。

 

 

 さて、今日は『旅する』と冠していますので、2016年に南アジアの国、バングラデシュを旅した時のことを書こうと思います。

このバングラデシュ人口爆発が社会問題になるなど人口密度が非常に高い国で、現在でこそ人口増加率は低いものとなりましたが、依然労働力を充分に満たすことができる上に賃金が低いことから衣料メーカーなどの工場がたくさんある国です。また、そうした場所での過酷な労働環境などの問題で度々取りあげられることがあります。

 

現在、国民の88%がイスラム教徒ですが、かつては東南アジア諸国へ仏教が伝わっていった仏教史に於いて重要な地であり、かの有名なカンボジアのアンコール遺跡や、ミャンマーバガン遺跡に影響を与えたとされる世界遺産パハルプール遺跡を有しております。

 

 そんな国を実際に歩いてみたく訪れた訳ですが、

私も20有余国を旅した中で一番衝撃を受けた国でした。

 

 

 滞在中、先にも述べたように、人の多さにはとにかく驚かされました。なんでもない、ごく一般的な道で、人や自転車に押し挟まれ混雑で一歩も動けないという状況を何度も経験しました。それはまるで花火大会の行き交う人の混雑のようなものでした。安くない航空券代を払い、時間をかけ私は何しに来たのだろうかと自問したことを記憶しています。

 

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とにかく人の密集度に驚かされた

人が多いということは、多様な人がおります。その中には、働く子供たちの姿や、ストリートチルドレンの姿もありました。

 

多くの人や車、リキシャーで溢れた交差点に差し掛かると、足が止まりました。

 

その時、ふと感ずることがありました。

 

私は、貧乏旅行者でカメラ片手に旅をするバックパッカー。しかし、この交差点で、もしかしたら一番裕福な生活を送っているのかもしれない。その先の旅を思えば決して多いとは言えない額のお金を持っているが、そのお金をこの交差点にいる何%の人が持ち合わせているのか。客引きや物乞いに「ノーマネー」ってなんで言えるんだ。

そう考えたら突然目の前の景色と騒音が遠くかすれてゆくのがわかりました。

私は日本に生まれただけ…

 

しばし呆然と交差点に立ち尽くしておりました。

 

 しばらくすると、誰かの視線を感じます。

目を向けると女の子と男の子が私を見つめていました。2人は兄弟のように見えましたが、確認することは出来ません。この2人はストリートチルドレンで行き交う人たちにお金を乞うておりました。

「そうか、2人はお金が欲しいのだな」と我に返りました。すると、2人の視線が私の肩にかけたカメラに向いていることに気が付きました。

「カメラはあげられないな」そう思った瞬間に2人はポーズをとっていました。写真を撮って欲しかったのだと分かり、すぐにカメラを構え、シャッターを切りました。

ここで2人の写真はお見せ出来ませんが、2人の姿は純真無垢なものでした。

撮影した写真をすぐカメラの画面で見せると、2人は笑顔になり手を振って喧騒の中に走りさり、物乞いを続けはじめました。

 

目の前の喧騒と、行き交う人や車の音に胸のざわつきが溶け込んでゆくのを覚えました。

 

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ダッカ市内の交差点

 

 旅先で見る景色とは、実際はその光景に自分の心の中の風景を映し出し、その景色を眺めているのでしょう。

 このブログに記している、ある時の旅の話は、ある時期の私自身について書いているのです。

 

皆さんにも、心に残る思い出や、思い出される景色があると思います。そこに付随する感情や感想こそが、それらの景色や記憶に導かれて自覚する、ある時期のあなたの心の中の風景なのです。

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自慢のマンゴーを持ってポーズをとる男性。人の数だけ人生があるのだ

 

固かったタケノコ

みなさんこんにちは!光彬です!
今年はなんだか雨が多いような気がします。
梅雨ということもありますが、
九州地方の大雨による自然災害やコロナウイルス
再度蔓延など、気持ちが落ち込んでしまいがちです。
いかがお過ごしでしょうか?


今日は私が以前しでかした
失敗のお話をさせて頂きます*


少し前の春半ばのことです。
東京の修行道場で典座寮(てんぞりょう)という
食事を司る部署に配属されて1年と少し
経った時でした。
修行僧の師寮寺(師匠がいらっしゃるお寺)から
筍の頂き物をしました。群馬県から送られてきたもので
新鮮取れたてのものを送ってくださり、
「どうか皆様でお召し上がりください」と丁寧なお手紙まで添えて送ってくださいました。

大きいものがゴロゴロ入っていて、茶色い皮にはまだ
水滴や土が付いており、鮮度が良いことは見てすぐに分かりました。さっそく修行僧と一緒に筍の下処理をするために皮をむき、灰汁抜きの支度を進めました。

ちょうど去年の同じ頃にも、違う県からですが
筍を送って下さったお寺がありました。
その時には上司が下処理の仕方を調べて下さり一緒にさせて頂きましたが、今回は自分が上に立って下処理をさせて頂きました。
手順や方法は分かっていたので難しくはありませんでした。

灰汁抜きまでの処理が終わり、
大鍋から取り出した筍からはそのまま
食べてしまいたい位良い香りが立ち込めました。
処理が終わったのが夜の7時過ぎだったので、
その筍は次の日の薬石(お夕飯)で出すことになりました。

次の日、筍を使った料理に取りかかりました。
しっかりと下処理が出来たので、調理してさらに
美味しくなるであろうことにうきうきしながら
作業していました。

食事の時間ギリギリに出来上がり、熱々の状態を
なるべく保って出すことが出来ました。
修行僧のみなさんも指導役の僧侶の方々も
美味しかったよ!と言ってくれました。

その中で、ある指導役のご老僧からこんな
お言葉を頂きました。
「味は良かったけど、少し筍が固かった。三徳が備わってない食事でしたね。」と。
一瞬驚き、失礼致しました。とだけ言いましたが、
何が悪かったのか気が付くのに少し時間が掛かりました。


余った料理をもう一度食べてみました。
固さも味も、冷めても美味しいように自分では
感じました。
筍が硬いだけでどうしてあのように言われたのだろうと
次第にモヤモヤした気持ちが溜まっていくのを感じました。

薬石のあと、私はそのご老僧のお部屋に呼ばれました。
筍の件だろうと思いましたが、案の定そのことでした。
まず筍のことをお詫びしましたが、他に何がいけなかったのかを伺いました。

きれいに作られていて灰汁の渋みもない、
調味料がバランス良く使われていて
口当たりは良かった、けれど、私のような年の者には
あれくらいの柔らかさの筍でも硬いし大変なんだ。と
仰いました。
私は"三徳が備わってない"と言われたことを
そこで気が付きました。

福井県永平寺を開かれた道元禅師様が
典座教訓という著述を残されました。
この中には食事のこと、1日の仕事のこと、
作るときの気持ちのことなどが事細かに記されています。
その中に、三徳という教えがあります。
『禅苑清規』に云く(いわく)、「六味精しからず(くわしからず)、三徳給わざるは(そなわざるは)、典座の衆に奉する(ぶする)所以に非ず」

「修行僧のために制定された正しい決まりごとが記された禅苑清規によれば、
六味[苦い・酸っぱい・甘い・辛い・塩辛い・淡い]の
バランスが良くとれ、
三徳[軽軟:あっさりして柔らかくできている]
[浄潔:きれいでさっぱりしている]
[如法作:正しい手順で、正しい方法で調理がされ無駄がないようにされている]
が備わっている食事でなければ、修行僧に食事を供養したことにはならない」とあります。

私は自分が食べるのに肉厚な方が好みです。
また、大きさも精進料理といえど食べ応えがある方が好きなので大きく切っていました。
その日の筍もそのようにしてしまっていました。
いくら灰汁抜きの時に茹でたとしても、それでは
十分に柔らかいか、火が通っているか、全員が全員
この大きさ固さで大丈夫かなど分かるはずがありませんでした。
味付けで美味しくできれば良いという思いから
食べる人への配慮を欠いていたのです。
思い返せば、色んな野菜を何回もそのようにしてしまっていたことに気が付き、その日の食事は供養させて頂いたことにはなっていなかったのだと恥ずかしい気持ちになりました。

修行道場には幅広い年齢層の方々がいます。
好みも違えば考え方もちがいます。
だからこそ、その人たちがどうしたら
美味しく食べられるか、満足してもらえるかを
教えの通りよく思慮して、これからの食事作りに
向けていきたいと思いました。
また、この教えはどんな場所でもどんな立場であっても
通ずる教えであると思います。
ここを出てからもこの日の気持ちを忘れず
向き合っていきます。


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迷い犬

こんばんは、禅信です。

 

巣立ちの時期になり境内でもまだぎこちない飛び方の雛をよく見かけます。
毎年、巣立ちに失敗した雛を住職が拾ってきては一週間ほどエサを与えて飛べるようになってから自然に返す。

そんな姿が風物詩の様になっています。

 


今年も一匹のスズメを巣立たせました、

今年のスズメは自然に放してから5日目になりますが、
住職が朝玄関を開けると、屋根にとまり餌をねだる様に待ち構えています。

 


そんなスズメを肩に乗せて幸せそうに笑う
住職を見るとこちらも幸せな気持ちになります。

 


今年はそんなスズメと一緒に迷い犬もやってきました。

 

先日、車で出かける用事があり通勤の時間と
重なることを考えて少し早めに出発しました。
お寺を出て一つ目の信号機に差し掛かったところに
柴犬が一匹ふらふらと歩いていました、
近くに飼い主の姿はなく首輪はしていましたが
リードはついていなかったので、飼い主の元から
はぐれて彷徨っているのだと思い保護することにしました。

 


たまたま車に積んであったリードをもって近づくと人にも
慣れた様子ですぐにリードをつける事が出来ました。

 


お寺に連れ帰って水をやり、近所の獣医師さんに
連絡を取るとすぐに往診してもらえることになりました。
歳は4歳か5歳位で少し痩せてるけど、
身体もそんなに汚れてないからまだはぐれて
間もないだろうとのことでした。

 


それから、今日でちょうど一週間、玄関を開けて顔を
のぞかせると、のそのそと近寄ってきて甘えた声を
出してこちらの様子をうかがいます。


そんな、素直なスズメや犬の姿を見ていると
肩の力が抜けて自然と優しさが沸き上がってきます。

 

言葉が通じない分、あいての表情や態度を
読み取ってその感情に共感する。


私たちも素直が一番と頭では解かっていますが
なかなか態度や表情に出せないこともあると思います。

 

住職がスズメを肩に乗せて笑う顔を思い出し、
ほっこりした気持ちで本日のブログを閉じようと思います。

 

 

 

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ゴン(仮)

 

くも

こんにちは。哲真です。

 

暖かい日や寒い日など気候に変動があります。皆様、健康には気を付けてください。

 

梅雨に入ると紫陽花が咲き、雨に濡れている境内に飾り付けをしてくれています。

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それと同時に、クモの巣があちらこちらに大量にできる時期でもあります。できるだけ掃除はするのですが、どうしてもすぐに別な場所にできてしまいます。

 

クモは、「害虫を食べてくれるので殺してはいけない」「朝のクモは縁起が良い」などと言われます。それを考えるとクモの巣を掃除することはどうなのかと考えてしまいます。

 

そんなクモの巣の掃除をしているといつも「蜘蛛の糸」を思い出します。芥川龍之介が書いた児童向けの短編小説です。

 

人を殺したり家に火をつけたり、いろいろと悪事を働いた大泥棒の犍陀多(かんだた)が、たった一つ善いことをしました。それは、林の中で見つけたクモを殺そうとしたのですが、命あるものだから殺してはかわいそうだと思い返し助けてやったのです。

犍陀多は死んで地獄に落ちたのですが、御釈迦様は一つだけ善いことをした犍陀多を、蜘蛛の糸で地獄から救い出してやろうとします。

結果的には、その蜘蛛の糸で助かりそうになるのですが、自分だけが地獄から抜け出そうとする無慈悲な心を出し、糸がきれて元の地獄へ落ちてしまうお話です。

 

殺生はやはり良いことではなく、生きる物を大事にすること、それに自分の事だけを考えるのではなく、みんなの事を考えようという事が書かれているのだと思います。

 

今回のコロナ禍でも、この県や地域では、コロナ感染者がいないからマスクをしなくても大丈夫だとしていない方を見かけますが、マスクをするのは自分がかからない為だけではなく、もしかしたら発症してはいないがウイルスを持っている可能性があるので、みんなにうつさないようにマスクをする必要があります。

 

自分勝手な行動は自分を不幸にします。自分を幸せにしてくれるのは周りの方々です。ですからみんなを幸せにすればあなたにも幸せになれるということを忘れずに日々過ごしていきましょう。

 

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クモの巣でいろいろな事を考えさせられた一日でした。

 

子供の笑顔に癒されて

 

みなさん、こんにちは。向月です。

6月になり、だいぶ季節が進んだように感じます。

場所によってはすでに猛暑日を記録したところもあるようです。

今年の春は、新型コロナウィルスの影響で季節を感じる暇がありませんでしたね。

最近、空を見上げると入道雲が出ていたり、夕立が降ったりと夏が近づいてきたことを感じます。

 

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(東京都日野市 高幡不動尊の仁王さんもマスク姿です)
 

 

先日、ご法事のため、あるお宅にお邪魔しました。

コロナの影響で霊園のホールが使えず、ご自宅での法事となりました。

いつもなら法事の後のお斎(お食事)はホールの方がご用意していただけるのですが、この日はご自宅ということもあり仏間の隣の部屋ではご家族がお斎の準備をされておりました。

そこでは、そのお宅のお子さんも一緒にお手伝いをされていました。小学生に入る前、保育園の年長さんの女の子でした。

お斎の準備をみながら「なんだか、パーティーみたいだね~。パーティーだー!!」と言ってはしゃいでいました。

周りの大人たちはその光景にとてもなごんでおりました。女の子のお母さんだけは「お爺ちゃんの法事なんだかなね。静かにしてなきゃダメだよ」といって女の子を落ち着かせようとしていました。

女の子は私のところまできて

「お坊さんも、パーティーしに来たの?」と聞いてきたので。

「そうだよ。その前にお爺ちゃんに手を合わせようね。」と伝えました。

女の子は「お坊さんもパリピだね」と言い、ケラケラと笑っていました。

みんなが、その言葉でいっせいに笑い出しました。私も笑いました。

ご法事という場に、パーティーという言葉が不釣り合いでした。しかし、そんな女の子の楽しそうな言葉や輝くような笑顔に一同が癒され和やかな雰囲気になったのです。

 

 

「和顔愛語」という言葉があります。穏やかな笑顔と優しい言葉を意味するものです。

やさしい笑顔から繰り出される言葉は、周囲の人を笑顔にし、笑顔になった方々がやさしい言葉を話す。この女の子は、まさに和顔愛語を実践していました。

こうした、和顔愛語がどんどん伝染していくと良いですね。

 

今、世界は目に見えないウィルスと戦っています。薬の開発や予防方法が少しづつ進んできています。

目に見えない恐怖は、ひとの心も蝕んでいきます。険しい顔をして言葉で攻撃しあう世の中になっては生きづらくなってしまいます。

そうならないように「和顔愛語」が世界に広がっていけば良いなと願っています。

 

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(紫陽花が見ごろです。)

手放す勇気

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みなさん、こんにちは。慧州です。全国的に梅雨に入り、傘が手放せない季節になりました。梅雨と聞くと少しじめじめした気持ちになるかもしれませんが、「青梅雨(あおつゆ)」という言葉があるように、降り注ぐ雨粒によって草木の緑がとても綺麗に映えます。また、坐禅をしている時(あるいは何か没頭している時)に外から雨の音が聞こえると、とても落ち着きます。感じ方ひとつで大きく変わる梅雨なのだと最近気がつきました。

 

話は変わりますが、みなさんは大切にしているものはありますか?例えば、家族や友人といった身近にいる人、幼い頃から大事にしているぬいぐるみや故郷の味、帰り道にいつも聴く曲や尊敬している人物の言葉など、人それぞれあるでしょう。何かを大切にする気持ちがあるからこそ、私たちはそれに支えられ、前を向いて生きることができます。

 

しかし、仏教では「人や物に執着することは苦しみを生む」と説かれています。つまり、大切にしているものを思うことですら一種の「執着」として否定されるのです。なぜなら物事は無常で移ろいゆくものであり、私たち自身もいつかはこの世を去り、大切なものを手放し別れなければならないからです。とても厳しい言葉だと思います。

 

私も「執着してはいけない」と頭では理解しているものの、中々実践することができていません。

「大切な人を失ったらどうしよう」

「お金がなかったらこの先どうなってしまうんだ」

「あれが欲しいこれが欲しいもっと欲しい」

心のどこかで執着し、その思いに振り回されています。それでもお釈迦様は手放せとおっしゃるのです。では具体的にどうすればよいのでしょうか。

 

先日、私はある出来事の中でそのヒントをもらいました。それは二歳になる息子との出来事です。息子はちょうどイヤイヤ期の真っ最中であまり言うことを聞いてくれません。私も頭を悩ませる毎日です。そんな息子が今とても大切にしているものがあります。

 

それはピンク色のタオルケットです。いつも寝る時にかけているタオルケットですが、何か不安があるといつもその端を手に取って親指をしゃぶっています。心理学では「セーフティーブランケット(安心毛布)」と呼ぶそうで、自我が芽生える過程における成長の証とされています。

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ある日、息子は手に持っていた麦茶を誤ってタオルケットにこぼしてしまいました。私は慌ててタオルケットをとりあげ、洗濯機に持っていきました。すると息子は途端に口をへの字に曲げ、大声で泣き出したのです。「大事なものをとられてしまった」という思いから、息子は私の足にすがりつきました。しかし、既にタオルケットは洗濯機の中。しばらくすると息子は泣き寝入りしてしまいました。

 

息子が寝ている間は貴重な自由時間なので、私は洗濯が終わるまで息子の隣で読書することにしました。ただ、疲れていたのか、気がつくと私もうとうと寝入ってしまいました。

 

どのくらい時間が経ったのでしょうか。何やらクシャクシャと鳴る物音に私は起こされました。寝ぼけ眼をこすりながら見ると、息子が何かをいじっているようでした。手元を見てみると、なんと先ほどまで私が読んでいた本をグチャグチャにしていたのです。

 

私は慌てて「返しなさい!」と叱りました。しかし、息子は笑って誤魔化し、ついには本を投げ捨ててしまいました。思わず私は「なんてことをするんだ!」と怒鳴りました。大声に驚いた息子は泣きながら母親の元に行きました。

 

私は少し後悔していました。息子を強く叱り過ぎたことはもちろんですが、それ以上に「私の本」をぞんざいに扱ったことに対して怒りを覚えていたと気づいたからです。そこにはまぎれもなく本に対する執着がありました。息子がタオルケットに執着していたのと何ら変わりないのです。

 

その後タオルケットは無事に洗濯が終わり、乾燥しました。乾燥したてのタオルケットを抱える息子はとても幸せそうでした。私は少し気まずい思いを抱きながら、そんな息子を見ていました。

 

すると、息子は驚く行動をとりました。私の方を見るや否やタオルケットを持ってこちらにやってきて、おもむろにタオルケットの端を私に差し出してきました。まるで「これを持つと安心するよ」と教えてくれているようでした。彼にとってタオルケットは万能薬なのでしょう。言葉をまだ話せない息子なので、真意はわかりませんが、もしかしたら落ち込んでいた私を息子なりに慰めようとしてくれたのかもしれません。私は恥ずかしさと嬉しさが入り混じった気持ちになりました。

 

人はどうしても何かに執着をします。それは自我があるからこそであり、貪りの心があるからです。自分が一番可愛いと思うからです。ですが、そのこだわりや思いが実は自分自身を苦しめる原因にもなります。その執着を手放すことは難しいかもしれません。

 

しかし手放す勇気を持つ第一歩として、他人と喜びを共有することはできます。コンビニで会計をした際に、余った小銭を募金箱に投じることでもいいです。「このパン美味しいよ」と友達に一口あげることでもいいです。「この映画とっても面白いよ」と教えてあげることでもいいです。あるいは笑顔をみせるだけでも相手も笑顔になるかもしれません。人それぞれやり方はきっとあります。

 

喜びという名の灯火を独り占めしていてはいつか消えてしまいますが、誰かに火を分ければそれは2倍の喜びになります。見返りを求めることなく、ちょっとでも手放すことができた時、人は自由になれるのではないでしょうか。