旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

脚下照顧

こんにちは。拓光です。

 

入梅が近づき不安定な空模様のこの頃、いかがお過ごしでしょうか。

 

 

突然ですが、皆さんは道に迷った経験はありませんか。

きっと誰しもが幼い頃に迷子になった経験があるかと思います。

 

実は私自身とても方向音痴でして、よく家族に迷惑を掛けます。年に数回、僧侶を対象とした勉強会が都心で行われるのですが、東京に出向く度に毎回迷子になってしまいます。我ながら方向音痴のプロだなと自覚しております。

 

しかし方向音痴のプロなので、早く見付けてもらうにはどうしたらよいかも人一倍心得ています。

 

 

 

それは…

 

 

 

 

 

「迷ったら動かないこと」です。

 

 

 

まずは立ち止まって自分が今どこにいるのかを確認することです。

逆に一番やってはいけないことは自分がどこにいるのかもわからず、四方八方を探し回ることです。

 

 

仏教には脚下照顧(きゃっかしょうこ)という教えがあります。「脚下」とは足もと、「照顧」とは顧みるということ。

つまりこの教えを簡単に言いますと靴をしっかりと揃えましょうとか、自分自身の足下に気をつけなさいといった意味があります。

それだけではなく現在自分の置かれている状況(脚下)をしっかりと確認し、よく見極めてから行動をしなさい(照顧)という意味もあります。

 

これは私達が日々歩んでいる人生に関しても同じことが言えると思います。

皆さんも「人生の目標が見付からない、人生をどのように歩んだらいいのかわからない」、またこのコロナ禍の中で「どのように生活をしたらよいのかわからない」などの沢山の悩みに出会うことがあるかと思います。

そのような時もまずは立ち止まって考えることが大切です。

 

悩みや問題に対して「今どうするべきなのか、自分はどうしたいのか」と冷静に考えることで、おのずと問題解決の為の糸口が見えてくると思います。

人生を前向きに歩むためには一歩を踏み出す勇気も大切ですが、時には立ち止まる勇気も必要なのではないでしょうか。

 

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アフターコロナでの気付き

 皆さんこんにちは尚真です。この間の週末は、緊急事態宣言が全国的に解除されてから初の週末となりました。皆様はどのような週末を過ごされたでしょうか。

 

 緊急事態宣言は解除されましたが、昨夜には「東京アラート」なる新たな警戒呼びかけもありました。全国的に見ても、未だに新規の感染者は数十人程確認されていますし、クラスター感染の疑いのある事例があり油断が出来ない現状が続いていると思います。

 

 やはりワクチン等の治療薬が開発されるまでは、「withコロナ」の生活を強いられる状況です。今まで通りの日常が戻る日が来るまで、一人一人の行動が、周囲の人々の健康を守りもするし、脅かしもするという気持ちで日々過ごしていきたいものです。

 

 とは言うものの、緊急事態宣言が解除されて、今まで外出自粛要請の中で我慢ガマンの生活をして来た分、やはり多少はお出掛けしたくなってしまう事と思います。その際は、「ソーシャルディスタンス」を確保して、「三密」を避けて、帰宅後の「うがい・手洗い」を忘れずにお願いします。

 

 私の住む茨城は、緊急事態宣言中は「特定警戒都道府県」との事だったのですが、新規の感染者が暫くの間出る事が無く、東京などよりも一足先に宣言解除になりました。それまで自粛生活をしていたので、気分転換にと天気が良い日に家族とお出掛けしてきました。

 

 お出掛けと言っても向かった先は、車で5分位のところにある自然公園。コロナ禍でテイクアウトを始めたレストランでお昼ご飯を買って、芝生の上にシートを引いてお昼を食べてきました。公園には割と多くの人が訪れていましたが、みな「密」にならないように工夫しながら思い思いに過ごしていました。

 

 食後に心地よい風に誘われて少しウトウトしていましたが、ふと辺りを見渡すともうすっかり新芽も芽吹き、緑が萌える新緑の季節が訪れている事に気付きました。季節の中でも生命の力強さを感じる事が出来る新緑の時期が、私は一番好きです。

 

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 自粛期間中はあまり外に出掛けることも無く、出掛けたとしても周りの人との距離を気にしながら足早に用を済ませる程度でした。暦の上では今は5月だという事は分かっていましたが、こんなに緑が芽吹いて気持ちの良い季節になっている事を、この時初めて認識しました。

 

私たち人間がコロナウィルスによって大混乱し、外出自粛で外に出ない間も、植物は私たちが気付かないうちに、今年もいつも通りに新たな芽を吹き、多くの若い葉っぱを茂らせていました。

 

 お釈迦さまはお悟りになった際、「有情非情同時成道」、つまりは人間だけではなく、動物や草木、大地なども等しく、仏としての性質を備えているのだと仰っています。地球に暮らす中で、私たち人間は特別な存在では無いのだという事を、大自然は教えてくれています。

 

 「アフターコロナ」で私たちの生活様式が大きく変化しいて行く事が予想されています。人との接触を減らすという意味で、最近利用が始まった5Gの利用普及が拡大するなんていう事も言われています。これを機に是非、環境に配慮された、地球に優しい生活様式も普及すればいいなと思う初夏のこの頃です。

 

而今に学ぶ。15

 こんにちは。俊哲です。皆様いかがお過ごしでしょうか。緊急事態宣言が解除され、いくらかなりの開放感と、まだ解決したわけではない恐怖心を抱きながらの日々が続いております。

 

自粛が叫ばれ、私も基本的にはお寺の外に出ることなく日々を過ごしておりました。緊急事態宣言が出てからはお寺にお参りに来る人の数も減ったので、そのぶんその毎日は坐禅をしたり、経を詠んだり、祖録を読むということに時間を使っておりました。

 

 その中で、ジャンブーの樹について仏典を調べておりました。このジャンブーという植物は、ムラサキフトモモと言う植物で、別名アマゾンオリーブとも呼ばれます。お釈迦様が初めて瞑想・坐禅をしたのがその樹の下だと聞いたことがありました。原産はインドや東南アジアで、観賞用として日本でも流通しております。私も南アジアの国々を旅した時には、このジャンブーの実をよく食します。非常に渋みのある紫の色をした実で、塩とチリスパイスを共に袋に入れて混ぜ合わせて食べます。古くから、そうした国々では成人病の薬としても食されております。

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ジャンブーの実を販売する男性。手前の黒っぽい実がジャンブー。(🇧🇩Bangladeshにて)

そのジャンブー樹を私は育てていて、冬の間は小さい温室で越冬させているのですが、この時期に温室から出してあげるので、合わせてその樹がどのようにお釈迦様に関係があるのか調べ直しておりました。

 

お釈迦様が初めて瞑想坐禅をされたのは幼少期のことで、お父様浄飯王に城の外に連れ出された時のことでした。

お釈迦様は、釈迦族の王子として育ち、お城の外のことを全く知らずに育ちました。それゆえに、城の外でみた光景があまりにショックだったのです。

仏典ではその様子を「田植えの時期に、王が側を通るのにも気づかず働く。流れる汗が乾き白く塩を噴き、働きづめの牛は足を止めそうで、それを追い立てる人間も牛と劣らず疲れ切っている。それでも休もうとせずに少しでも耕そうと働き、その掘り返された土には虫たちが顔を出す。その虫達を狙い鳥達が群がり、我先にと必死に取り合いついばんでいた。」と伝えています。

 

若き日のお釈迦様は「鳥達は同じ仲間であるのに争い、強いものが弱いものを押し退け、逃げることのできない虫を啄んでいる、人々は疲れ果てているが、同じように疲れ果てている牛に鞭を打ち、追い立てるように働いている。この世は苦しみに満ちている」と思われたそうです。

王子として城内で不自由なく暮らす自分の存在と、城の外の世界に混乱し、お釈迦様はお父様の元を離れ、ひとり静かに座られたのがこのジャンブーの樹下でした。

 

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若き日のお釈迦様が王子として暮らしたとされるカピラ城の様子。現在未だ発掘途中。写真はお釈迦様が出家された時に城外に出られたとされる東門から城内を見た様子。(🇳🇵Nepal)

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カピラ城周辺の現代の様子。

 私のいる寺では、生ゴミや痛んでしまった果物はまとめて境内の奥にある雑木林に撒きます。周りの植物の栄養になるほか、それらを当てにした動物達の餌となるからです。いつも決まって母がそれらを台車に乗せ雑木林に向かうのですが、周りの木の上からカラスがその様子を伺います。賢く、人間と生活が近いカラスは母が台車を用意する頃から、遠くのカラスにもそのことを伝え鳴き始めます。

 そして撒いて帰ってくる頃にはカラス達がついばみ始めるのですが、決まって喧嘩をするのです。時には、食べものではなく、境内の掃除した枝葉を集め台車に乗せて運んでいても、いつもの場所に餌を運んでいると思いカラス達はその場を探し始め、終いにはそこに餌がないのに探す優先権をかけて争いを始めます。

母は、餌となるものを撒く時にはカラス達に「喧嘩しないでね」と声をかけるんだと言っておりましたが、思い虚しくカラス達は喧嘩をし、また他の動物達も縄張り争いを行います。

 

 

 若き日のお釈迦様は、このカラス達のことを見ても同じように苦しく感じられたのだろうと思います。

お釈迦様は『鳥達は馬鹿だなぁ』と自分と比較をするのではなく、その光景を見た自分に思いを向けられたのです。

 

世界とはそういうものです。動物は馬鹿だと思った人間も、お金を求め、利権や優先権を求め、最近だとこのコロナの影響でトイレットペーパーやマスクを求めて我先にと争い合っておりました。

 

醜く、苦しいのです。でも、そう感じるのは、感じることができるのは「私」自身に他なりません。

お釈迦様も感じられたこうした出来事を通し、ではどのように行動するのか、自分の生活はどうしたら良いのかと疑問を持つことが、この世界を苦しむことなく生きるための第一歩となります。

 

若き日のお釈迦様の苦悩する姿に寄り添ったように、私がそんなことを考える日々もまた、ジャンブー樹に見られているようでした。

 

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写真中央に生える木がジャンブー

 

みなさまこんにちは!
光彬です!ご無沙汰しておりますm(__)m

コロナ渦中いかがお過ごしでしょうか?
身心ともにご健康でありますよう
祈念致します。


コロナウイルスによる外出自粛が始まり
早1ヶ月半ほどが経ちましたでしょうか。
只今東京のお寺で修行をさせて頂いていますが、
私は典座寮という食事を司る部署におります。
日々、他の指導者役の僧侶や修行している者のために
食材の購入等をしていますが、自粛直前にも
買い出しに行かなくてはなりませんでした。

お店に到着するやいなや、目に飛び込んできた光景に
驚きました。
ほとんどの品物が売り切れていて、
かろうじて置いてあったのは少し傷んだ野菜や
単品では調理できないもの、調味料などでした。
仕方がないので傷んだ野菜を少しと調味料を
購入して戻りました。
他のところはどうなっているだろうかと思い、
もう一ヶ所よく行くスーパーに行きました。
結果は同じでした。

この出来事に、寂しさを感じました。
世間にはたくさん、人と人の思い遣りを大切にすることを促す言葉や広告、行事があります。
ですが、今回のこの事は自分のこと、或いは
自分の家族のことしか考えていない者が
多かったということではないでしょうか。
もちろん、先の見えない自粛生活への不安、いつどこで取り込んでいるか分からないウイルスへの恐怖、情報の混迷、様々な不安がさせた行動だと思います。
だからこそみんなが不安の中にあるときこそ
一人一人が互いに思い遣りの心をもつべきです。


仏教の御教えの中では
他者への施しの気持ち、分け与える気持ちを
持たない者は憐れでありそれによって賤しいと
いわれます。

私は、今まで災害や困難に遇った時、
日本人は穏やかで暖かく
協力的で知的であると感じます。
世界を巻き込むコロナウイルスとの戦いも
克てると信じます。
自分自身も施し、協力の気持ちをしっかりもち
頑張りますので、どうか心ひとつに
この困難を乗り切りましょう。


「人は行為によって賤者となり、行為によって覚者となる」
ブッダの言葉』よりf:id:tabisuruzensou:20200520182505j:plain

心のゆとり

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こんにちは、禅信です。


庭の木々も一雨ごとに芽吹き出し新緑がまぶしい季節となりました。
家の庭ではバラの花が咲き乱れとてもいい香りに包まれています^^

 

 

最近では朝晩も暖かく過ごしやすい日も多いため、
庭に出て木々や花々を観ながら散歩するのが日課になっています。

 


自然に触れていると日々の雑音から離れ心が休まるような気持ちになりますね。

 

先日、知人から薪木をいただいたので家族と庭に出て焚火を囲みながら夕食を楽しみました^^

普段は母に任せっきりになっていた食事の準備片付けですが、
ちょうど母の日にあたっていた為、「夕食だけでも準備しようか」ということで

弟と買い物に出かけあれやこれやと食材をかごに入れていました。

 

 


普段食材の買い物などしない男二人での買い物だったので、
ふとカゴを覗くと肉・肉・魚・肉・ヨーグルト・焼きそば・魚・・・

自分たちの食べたいものばかり詰まっています・・・^ω^)
Uターンして野菜コーナーに戻りしぶしぶと野菜を買い足しました、

 


夕食を団欒していると、焚火の炎に目を奪われました。

パチパチと音を立てゆらゆらと立ち昇る火を見ていると、

時間を忘れて見入ってしまいました。

 

 

この癒しの理由は「1/fゆらぎ」にあるそうです・・・・

 

「1/fゆらぎ」急に聞きなれない言葉が出てきました。

 

まず「ゆらぎ」とは、ここでは規則性の中にある不規則性を表します。
言葉にするとわかりづらいですが、

薪がはじけるパチパチという音もいっけん同じ音に感じますが、大小や音の間隔が不規則に変化します。
燃え上がる炎もゆらゆらと昇っては消え昇っては消えを繰り返しますがその形や色は不規則に変化します。

これらを「ゆらぎ」と表現しています。

 


「1/f」とは、
パワー(スペクトル密度)が周波数fに反比例するゆらぎ・・(wikipediaより)


読めば読むほどわからなくなりますが、物理の話はこの辺にしておきます。笑

 


このゆらぎは、

蝶が花から花にヒラヒラと飛び回る姿
清流が山からキラキラと流れ来る様子
波の音、鳥のさえずり

あらゆるところにあふれています。
これらの音や情景が、人間の体や脳と共鳴して心が休まるそうです。

 


抑圧された生活の中ですが、少し外を覗いてみると

鳥のさえずりや木々の息吹を感じられるかもしれません。

 

 

今は動画配信サイトなどにも焚火や波の音だけを流しているチャンネルもあります^^


北欧のフィンランドスウェーデンなどでは

一日中焚火の様子が流れるテレビチャンネルがあるそうです。

 

 

3蜜になる方が難しい田舎からの投稿ですが、

少しでも明るく過ごせるように心のゆとりは大切にしたいと思います^^

日々

こんにちは。哲真です。

 

新型コロナウイルス(COVID-19)の緊急事態宣言の延長が決まりました。これから一ヵ月まだまだ自粛生活が続きます。身体を動かしたりなど、リフレッシュするように心がけて生活をしてください。

 

人類はウイルスによる被害は歴史的に何度もありましたが、それを乗り越えて今があります。必ず乗り越えられます。共に協力していきましょう。

 

コロナ禍の為、家での生活も多くなり、体を動かしたり、今まであまりできなかった片付けや、物を直したりするようになり、日々の時間の過ごし方が今までと変わってきました。毎日、工夫しながら生活するようになってきました。

工夫とは、「よい方法や手段をみつけようとして、考えをめぐらすこと」とあります。禅宗では、「禅の修行にひたすら打ち込む」ことを指します。

 

禅の修行では、食事、お手洗い、入浴中は話しをしません。もちろん坐禅中も無言です。そして、掃除は徹底的に行います。

経本を持ってお経を唱えるときも目の高さまであげ、口元が経本で隠れるような形で行います。

最近思ったのですが、これは、ウイルス対策の一つになっていたのかもしれません。飛沫感染を予防し、ウイルスを掃除して失くすということを日々行っていたのです。禅の修行にひたすら打ち込むという工夫により、自分自身と周りの方々をウイルスから守るという術の一つだったのかもしれません。

 

皆様においても「毎日5分だけ体を動かすようにする」「新たな料理に挑戦してみる」「飲食店でテイクアウトを始める」など、ニュースを見ていても様々な工夫をしているなと感心させられます。

 

物事を一つ会得するのに形や順序などを知り、マネをすると思います。そして真似事ではなく自分のものにする為に工夫をします。工夫とは物事を会得する為に用いられるものです。

皆様は工夫をして生活をしています。それは、このコロナ禍での生活を会得しようとしていることになります。

今を一つ一つ楽しみながら工夫をして乗り越えていきましょう。

 

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最後の言葉

皆さん、こんにちは。向月です。

新型コロナウィルスによる緊急事態宣言が出されてから、もうずいぶん経ちます。

ゴールデンウィーク明けには解除になるんでしょうか?

それとも延長されるのでしょうか?

目に見えないウィルスへの恐怖や、将来への不安、外出自粛など

たくさんのストレスを抱えて生活しています。

 

 

芸能人や有名人の方々もコロナにかかり、

また残念ながら亡くなられた方もいらっしゃいます。

私も大好きだった志村けんさんもその一人です。

子供の頃、毎週兄と一緒にテレビの前でドリフが始まるのを

楽しみにしていました。

息ができなくなるくらい笑い転げていたのを最近のように思い出します。

その志村けんさんの追悼番組では、加藤茶さんが弔辞を読まれました。

 

「弔辞 志村、ひどすぎるぞ、おまえ。一番若いおまえが俺たち差し置いて天国に行っちゃうなんてなあ。(中略)5人がそっちに全員集合したら、そっちのお客さんを大爆笑させようぜ。約束だぞ。じゃあ、それまでゆっくりと休んでくれ。大好きな志村へ」

 

とても愛のある弔辞だったと思います。

加藤さんの志村さんへの気持ちと視聴者で志村さんのファンの方の気持ちがシンクロしていく感じがしました。

 

 

先日、私もあるお宅のお葬儀でした。

昨年、そのお宅のお婆さんのお葬儀をさせていただいたご縁で、

この度のお爺さんのお葬儀も勤めさせていただきました。

このお爺さんは76歳でご逝去されました。

長い間、街の郵便局長をされていた方です。郵便局長を引退してからも、

町内会長を務め、地域の清掃活動や老人会の活動などにも積極的に参加され、

沢山の方から慕われる方でした。

ご家族は「友達も沢山いたので、本当なら皆さんに声を掛けて

参列してもらいたいのだけど、こんな時期なので沢山の人を呼べない。

せめて家族親族だけでも爺さんを送ってあげたい」とお話されました。

また、新型コロナ禍が落ち着いたら改めてお別れ会をしたいとのことでした。

その葬儀告別式の中で、ご家族やお孫さんから弔辞を読まれました。

 

「お爺ちゃん。いつも、私たちをみていてくれてありがとう。明るい春の日差しのような暖かい笑顔をありがとう。貴方は、私たち家族の支えであり、光でした。今、その光が消え、どうしたら良いかわかりません。これからは私たちが周りの人への光となれるように、あなたのマネをして生きていきます。」

 

このような内容でした。

故人様がご家族や周りの方から本当に愛される存在だったと感じました。

 

 

人生最後に送られる言葉は、その方の生き方が現れると思います。

どのような人生を送ってきたか。周りの方とどのように関わってきたが現れます。

志村けんさんも、私が勤めさせていただいたお爺さんも

家族や周りの方を愛して生きてきたのだと感じます。

そうだから明るく、楽しく、みんなに愛される素敵な人生を送れたのだと。

私もこのお二人の「マネをして」生きていきたいと思いました。

 

 

しばらく、不安とストレスの生活が続くと思います。

皆さんも、どうぞお気をつけてください。

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(境内に咲いた一輪のバラです。花を見ていると落ち着きます)