旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

共育

こんにちは。拓光です。日ごとに秋の気配を感じる今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

私事ですが、今年に入り第二子が誕生しました。新しい命が誕生したこともあり、より一層精進せねばと思う次第です。

というのも仏教では「生」と「死」を別のものと捉えず、「生死(しょうじ)」と表現します。

つまり生があるから死がある。また生の中に死があり、死の中に生があるということです。

日々の生活が忙しいと、つい生きることに精一杯になってしまい、死に対して向き合うことをおろそかになってしまいがちです。人間は生きれば生きるほど死に近づいていく訳ですから、死について考える、向き合うことはとても大切なことです。

話を戻しますが、我が子を育児することで、私の両親や今は亡き祖父母もこんな大変な思いをして私自身を育ててくれたのだなと気付かされるといった、我が子を通じて共に学び合い、共に育てられる「共育(きょういく)」そんな日々を送っています。

「共に学び合い、育てられる」これは親子関係だけに限らず、上司と部下、友人同士でも言えることかもしれません。

指導する、される立場、言い合いをする仲。その中でどちらか一方だけが学ぶというのではなく、互いが学びながら生きていく。前回のブログ投稿で挨拶について紹介させていただきました。(挨拶の「挨」は押す、師匠が弟子に対し仏法(教え)を理解できているかと自ら寄り添うこと。「拶」は迫る、弟子が師匠に対し仏法(教え)の真髄を自発的に追い求めるという意味です。つまりどちらか一方だけが歩み寄るのではなく、互いが互いに、寄り添い合い、意思疎通して初めて挨拶となる)

挨拶同様、「共に学ぶ」という視点を忘れずに、私自身もブログ投稿していきたいと思います。