旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

而今に学ぶ。28

 こんにちは。俊哲です。通常ですと今回の投稿者は禅信さんですが、今回は私と禅信さんが前後入れ替わる形での投稿となります。

 

今回の記事は投稿順が入れ替わったことにも関係しております。

記事の投稿日(4月26日)は、曹洞宗大本山永平寺で授戒会という大きな法要が約1週間厳修されているタイミングで、禅信さんは毎年その法要に随喜(手伝い)に行っていることから投稿順が前後入れ替わりました。

 

また先週は曹洞宗のもう一つの大本山總持寺でも同じように約1週間の授戒会が厳修され、私も今現在の禅信さん同様、總持寺での授戒会に随喜しておりました。今回の記事は、總持寺ではコロナ禍になって以来、実に4年ぶりに行われた報恩大授戒会に随喜していた時のことを記したく思います。

 

 この4年間、總持寺では一番大きな出来事として禅師様の交代を経験しました。禅師様の交代とは簡単にいうと總持寺のご住職の交代で、江川禅師様がお亡くなりになられ、石附禅師様が新たにご住職になられました。

 

また、この4年間には予定していた授戒会が直前にコロナによって中止となることも経験し、久しぶりに行うことができた授戒会にもなりました。

 

私自身はこの4年間も授戒会こそ執り行うことは出来ませんでしたが、人数を減らした随喜に呼んでいただいていたので、そうした変化を近くで見届けていたつもりでした。しかし、4年ぶりの授戒会は月日が経ったことを改めて感じさせるものでした。

 

 

 コロナ禍という世間が一変した出来事に加え、禅師様の交代(住職交代)はお寺の中の雰囲気も大きく変えました。さまざま、禅師様が変わったことで大きなことから細かなことまで總持寺内でのルールに変更点があり、それもまた言い換えれば總持寺が修行道場として変化をしながら生き続けている証とも言えます。

 

私が任された寮舎では修行僧と関わることも多く、その中で私の周囲で変化を感じたのは修行僧間の先輩和尚・後輩和尚の関係でした。道場の雰囲気が変わっていくことも道場が生きているからこそだと思っております。

 

 私が總持寺で修行僧として安居していた時に老師のお話の中で、修行僧全員に対し

總持寺とは"私"だと各人それぞれに肝に銘じて修行に励め」という言葉をいただきました。

当時の私は「俺が、俺が」という思いでこの言葉を受け取ったように思いますが、この変革の時に總持寺に携わらせていただき、この言葉の受け取り方が自分の中でも変化しておりました。

 

禅師様、今總持寺におられる諸老師方、修行僧達の雰囲気、それが即ち總持寺なのだと。

 

ある時期だけ随喜という形で總持寺に関わる立場の私は、「私が居た頃は」という経験は重要でありながらも、今の總持寺に何が必要なのかという問いを持ち続け、頂いた機会に向き合い、頂いたお役を全うすることの意味を考え続けておりました。

 

ある時期だけであっても、その時期はしっかり「私が總持寺なのだ」という想いを抱いて。

 

 

 来る令和6年は、太祖瑩山禅師700回大遠忌を迎えます。曹洞宗では一仏両祖として、お釈迦さま・道元禅師様・瑩山禅師様を中心にお祀りいたします。その瑩山禅師様は總持寺を開かれたお方です。

 

掲げられた言葉は「相承」〜多いなる足音が聞こえますか〜

 

 

 

 4年ぶりの授戒会は経験を還元した随喜の皆様の尽力もあり、規模はまだ小さいながら無事円成することができました。

続いてきた行事が繋がってゆく時、そうした行事を繋いできてくれた皆様の姿が思い浮かびました。またこうした行事以外にも、伝わってきた仏法(教え)や、立ち居振る舞いにも、繋いできた方の姿が現れていることを感じました。

行をたもつという意味で行持(ぎょうじ)という言葉を大切にする曹洞宗の教えがありますが、私の一挙手一投足が總持寺であり、私の一挙手一投足が曹洞宗であり、そしてこの一挙手一投足が過去の仏、祖師達の歩みなのだとしみじみ感じ入り、また改めて肝に銘じた授戒会でした。

 

私が安居していた際の江川禅師様のお姿を思い出しながら總持寺で過ごした1週間。まだまだ修行が足りていないことを教えていただいた、温かな時を過ごして参りました。

尊敬する随喜衆の御二人。その姿に学ばせていただいております。

4月8日より總持寺におりましたので本山の釈尊降誕会に立ち会えました。

總持寺総受付「香積台」