旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

而今に学ぶ。25

こんにちは。俊哲です。じめじめした日が続き、関東も梅雨入りをむかえました。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

 

總持寺の総受付「香積台」

 私は、6月7日に横浜市鶴見区にある大本山總持寺にお参りに行っておりました。数年前まで私が安居(修行)させていただいたお寺でもあります。今回伺ったのは、6月の5日間、總持寺で修行される伝光会攝心(瑩山禅師が記された書物の名を冠する坐禅を集中して行う期間)に修行僧たちの食事供養の施主となり、その修行の一端を垣間見させていただくためです。

 

この食事供養の施主となると、普段、總持寺の者以外は認められていない坐禅堂への入堂をさせていただけます。私にとっても安居していた時ぶりのことで、楽しみにしておりました。

 

 

いざ總持寺へ到着をし、坐禅堂へ案内していただくと、堂内の簾の内(坐禅堂内は簾の内と外で分かれている)では坐禅が続いておりました。簾の外では既に配膳の準備が整い、配膳をする修行僧たちが静かに坐禅終了の鐘がなるのを待っておりました。彼らの姿を見ても、その姿勢や視線から緊張感が伝わってきます。

 

坐禅終了の鐘の音が鳴ると簾が開き、いざ食事の準備が始まります。

堂内に鳴り響く様々な鳴らしものの音を聞き、修行僧たちが連動して動き回り配膳をします。

 

案内の方に導かれ、修行僧の時ぶりに坐禅堂の簾の内へと足を踏み入れ、周りを見渡すと修行僧たちが坐禅をしながら合掌しお唱えをしております。

 

そのお唱えの一つで、食事をするのに使用する『応量器』を拡げる際にお唱えする偈文があります。その最後の句が「等三輪空寂(とうさんりんくうじゃく)」というものです。

お布施を受ける者・お布施をする者・お布施される物 これらの三つが執着から離れ清らかなることを誓い、願ってお唱えされます。

 

以前、私がこの伝光会攝心に参加したのは修行僧の時です。まさしく、布施を受ける身でした。その時のことを思い返すと、ただ坐っていれば良い。しかし、その環境は食事を供養している方がいたからこそで、本当にありがたかったことを思い出しました。そしてその際にいただいた食事は、応量器の扱いに慣れた先輩和尚さんたちについていくので必死だったり、坐っているだけなのにくたくたに疲れてしまう身体を維持する食事で、とにかく目の前の修行、目の前の坐禅、目の前の食事に懸命で、美味しいも不味いも味わう余裕がなかったように思います。

 

 

今回、食事の供養の施主、お布施をする者としてこの伝光会攝心に関わらせていただき、素直にありがたいなぁという感謝の念が湧きました。

 

 

お布施をするという行為に、見返りが全くなかったように思います。お布施を受ける身であった時もただ感謝の念を抱いたことを思い出すと、どちらもただ無心に、ただ感謝の思いでこのひと時を過ごしていたことは執着から離れた清らかな時間だったのだと、一日経った今改めて感じるところです。

 

 

事前に準備をした原稿を投稿することも考えましたが、前日に訪れた總持寺での出来事を、この熱量を持って鮮度を届けたく文章に起こしました。幾許か、私の思いが先走った駄文となってしまったことを反省しつつ、皆々様に、どの立場にあっても「いただきます」の思いで目の前のご縁に接していただきたいと願っております。

 

總持寺百間廊下。坐禅の時は坐禅、掃除の時は掃除。雑巾掛けをした日々を思い返す場所です。