みなさん、こんにちは。慧州です。
本日はお釈迦様のお悟りをひらかれたことを記念する成道会です。
本来であれば仏教徒にとって素晴らしい日ですが、私にとっては苦い思い出が残る時期でもあります。
なぜなら、成道会直前には臘八(ろうはつ)摂心という行持が待ち受けているからです。
10年前、修行道場にいた私は坐禅が本当に嫌いでした。
体の硬かった私は、たった一回の坐禅でも足が痛くなり、心の中では「早く終わらないか早く終わらないか」と念じるばかりの単なる我慢大会になっていたからです。
そんな私にとって12月1日〜8日、約1週間かけて行われる臘八摂心は恐怖でしかありませんでした。
摂心とは、お釈迦様がお悟りを得るまで坐禅をし続けたという故事にちなんだ行持で、1日を坐禅で過ごし続ける期間となっています。
朝3時過ぎに起きてすぐに坐禅をし、夜9時までほとんど休憩なしで坐り続けます。
まさに坐禅三昧の1週間です。
いざ摂心が始まると、最初は眠気との闘いでした。
うつらうつらと船を漕ぐ度に、警策という木の棒で叩かれては目を覚ましていました。
3日過ぎた頃には、今度は足とお尻の痛みとの闘いに変わりました。
坐っているだけなのに筋肉痛、激痛に襲われ
「いつになったら終わるのだろう」
まだ折り返しに入っていないことも相まって、絶望感を覚えていました。
「坐禅は安楽の法門なり」
私がいた修行道場では、毎晩坐禅中に読み上げるこの一節。
摂心中の私は「あの言葉は嘘だろう!」と思いながら、痛みで震える手を必死で抑え続けながら坐り続けていました。
しかし時は止まることはありません。
4、5、6日と進み、気がつけば最終日を迎えていました。
同じ日常を繰り返す中、時間感覚が鈍ったせいか、後半の記憶はなぜだかあまり残っていません。
最終日は明けの明星を見て悟ったという故事から、この日は夜中の2時(つまり、12月8日)まで坐禅し続けます。
この日の夜は全ての修行僧が参加することができるため、坐禅堂は人で溢れかえっていました。
外は寒いはずなのに、堂内はものすごい熱気でした。
とうとう、摂心中最後の坐禅を迎えます。
「これで最後」と思うと、私の心の中では、ほっとする気持ちとどこか寂しい気持ちが同居していました。
そして、終わりの鐘が鳴り響くと、摂心は終わりを告げました。
私は達成感を噛み締めながら単から降り、周りを見渡すと、皆同じように晴れやかな表情でした。
その時、私ははっとしたのです。
摂心中はずっと孤独な闘いと思っていましたが、実はそうではありませんでした。
修行の同期も先輩和尚さんも、指導役の老僧方も、みな同じように坐っていて、そして、そのように一緒に坐る仲間がいたからこそ、私も坐り続けられたのだと気付かされたのです。
摂心を終えた私は、坐禅堂内を出てふと空を見上げました。
お釈迦様が見た明けの明星が、ほんとに見えるだろうかと思ったからです。
残念ながら見つけることはできませんでしたが、それでも星いっぱい輝く夜空は、今まで見た事がないくらい綺麗な景色でした。
何よりも、同じ景色をお釈迦様も、道元禅師も、そして私の師匠である父も見ていたかもしれない、そう思うと不思議な感情が湧き上がってきました。
何百年経とうとも同じ景色が見えると想像するだけで、暖かい気持ちになってきたのです。
あれから10年経ち、摂心に参加する機会は中々得ることはできません。
それでも今は坐禅に対して前向きになれたような気がします。
それは10年前の12月8日に見た、あの景色が忘れられないからかもしれません。
あの時感じた気持ちを教えてくれたのは、まぎれもなくみんなで坐り続けた摂心でした。