こんにちは、俊哲です。
このたびの台風19号により、被害に遭われた皆さまに心よりお見舞い申し上げます。被災された皆様の一日も早い復旧を、心よりお祈り申しあげます。
さて、こんな時ではありますが、今回は旅をしている時に出会ったオーストラリア人の青年との話をしようと思います。
今から5年前のこと、私はミャンマーを旅しておりました。当時は一部、規制は緩和されたとはいえ未だ軍事政権下のミャンマーは、入国時にビザが必要だったり、ヤンゴン市内のホテル不足で今まさに建設ラッシュを迎えている、そんな時期でした。まだまだ旅をするには不自由で、その不自由さや閉鎖的な雰囲気が逆に旅人たちを惹きつけておりました。
私もそんなミャンマーを訪れてみたいと思いたち、行くからには第二次世界大戦で多くの日本兵も亡くなられたこの地で、戦死病没者の慰霊供養を行おうと向かいました。
ヤンゴン郊外や南部ダウェイ、そして北上していくとイギリス軍との激戦地があり、両軍のみならず地元のビルマ人たちもたくさん犠牲になった場所があり、各地に慰霊碑があります。私の祖父の兄弟も戦時中ビルマを歩いたとの手記があり、そんなことに思いを馳せなが歩いておりました。
その旅の道中、バガン遺跡で有名なバガンの町から出る夜行バスに乗りこみました。私の席に向かうと隣の席はオーストラリア人の青年でした。バスに外国人は私と彼だけでしたから、なんとなく会話が始まり、互いの旅の話になりました。彼は学校の長期休暇を利用して旅をしていて、彼の祖母が今日本で暮らしていることから、この旅は日本で祖母に会ったところから始まったということ。そして、各地で泊まった宿で日本人の旅人と会ってきたことを教えてくれました。
そんな中で、彼が私に聞いてきたことがあります。
「日本人は何か目標がないと旅をしないのか?」と。
彼が会ってきた日本人たちは、ギター片手に演奏しながら自分のギターを試す旅をしていたり、自分の旅の動画を撮影しながら鉄道で縦断することを目標にしていたり、それぞれ旅に目標や目的があったみたいで、そのことが凄く気になったようでした。
思えば私も、戦死病没者の慰霊供養という目的を持っていました。
理由なく旅をしないのか?と聞かれ、私はハッとしました。
旅をする理由を掲げ、実際はそんなことをしたという自己満足のために行っていたのではないかと思うようになりました。
目標や、目的を持った旅をすることが悪い訳ではありません。ただ、私はどこかそうした旅自体に目標や目的を持つことで旅本来の良さを忘れていたような気がしたのです。
慰霊供養は慰霊供養としてしっかりお務めをする。それ以上でも、それ以下でもなく。
旅も、旅をしているそのままのあり方が旅の醍醐味であり、それ以上でもそれ以下でもないのだと。
思えば、坐禅をする際にも同じようなことを教わります。坐禅をして何者にもなることはない。偉くなることもなければ、坐禅をして仏となろうとすることや、救われようとしてはならないと教わるのです。坐禅をしている時には、最初に教わったように姿勢を正し、呼吸を丁寧に行っていく。その坐禅をしている姿そのままに仏性が現れていると。
よく分からないなりにその意味を考えていましたので、その言葉が頭をよぎりました。
何かをしたら、何か結果を得たいと思うのは普通の感覚でした。でもその感覚に盲目になっていて、すでに現れている結果に気がつくことができずにおりました。
そのままの在りようをそのまま認めることができると、何かの事象に対して結果を得られないことへの恐怖が無くなります。
その後の私の旅は、肩の力が抜けたものに変化したように感じています。
夜行バスを降りて眺めた朝日の輝きを忘れることはないでしょう。