旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

而今に学ぶ。29

 こんにちは。俊哲です。残暑がまだまだ厳しいですが、まさに秋に移りゆく今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

 私の近況を話しますと、私が所属する地元の曹洞宗青年会(若い世代の僧侶達で組織する団体)主催の、一泊二日のスケジュールで行う坐禅会、その名も「緑蔭禅の集い」が開催されました。

私もその青年会において、広報委員長を仰せつかっており主に写真の撮影を行いながら参加してまいりました。

 

実に4年ぶりとなる宿泊を伴う緑蔭禅の集いの開催(この4年間はコロナ禍で宿泊無しの開催)で、久しぶりの開催となりました。と同時にこの4年間で青年会員の入会・退会もありましたので、初めてこの坐禅会を経験する者も多く、初々しさも入り混じる緑蔭禅の集いとなりました。

 

 

私が青年会で広報に携わるのは8年目となりました。昨年より広報委員長になり、今年は委員長最終年です。とは申しましても、8年も携わると自分が好んで撮影する構図とういうのはワンパターンで、変化を加えようとしても自分の枠を超えるような写真が撮れず、自分の写真に自分が一番飽きてしまっております。

 

 

お寺の本堂で人が坐禅をする姿を撮影することは意外と難しく感じています。被写体は動かないけれど坐禅中は本堂の中を暗くし、それでいて窓の近くは外から太陽光が差し込むため、カメラへの光の集め方、シャッター時間に気を使う必要があります。

 

また、坐禅中にパシャ パシャとシャッター音がずっと鳴り響いていても、坐禅中の皆様の邪魔にってしまうため、坐禅が始まってすぐのまだ落ち着ききっていない間に数枚撮影して引き上げることもマナーと考えております。ここまでで何が言いたかったかと言うと、8年も広報に携わると、写真の技術はそこそこでも、写真を撮る際の周囲の様子が広く見えるようになったことをちょっとだけ自慢したかったのです(笑)

そういう点では成長させてもらったと実感いたします。

 

 

その後は撮影した写真を取り込み、人様の目で見ておかしく無いよう多少レタッチ(加工)処理を行います。

 

今では写真のレタッチを行うアプリ等も豊富で、私の目に映ったように、または私が感じたように撮影した写真を加工することができます。そこまで含めて、撮影者のセンスと言われる時代になりました。

 

色味の調整を行うと、究極は白か黒です。真っ白か、真っ黒。

この2つの色の間に全ての色が展開しています。

 

そう思うと、この白と黒は対極という見方だけではなく、全ての色の基礎(ベース)であると言えます。

 

世の中、「白か黒か」という二択を迫られることは多く、似たように、イエスかノーかと迫られる機会も多々あります。

そんなことに慣れ、気づけば自分で自分に二択を迫っていたということもあります。同じような経験をされた方も多いのでは無いでしょうか。

 

 

ですが、白と黒、イエスとノーは同一線上にあるもので、例えば北極か南極かという問いも地球という枠の中の話であります。両極の白か黒の間には無限の色の広がりがあります。

 

白と黒。イエスとノー。そんな二極が全てではなくて、NotホワイトでNotブラック。NotイエスでNotノーな世界は無限の広がりを感じます。その無限の中から見たら、両極と思っていた二極もその無限の中に包括されたことでありました。

 

そう思うと、二択に捉われている足枷が外れるとスーッと早く走れるようになるんだよなぁと、少々飽きてしまった写真の色彩調整を行なっていた時に感じたお話でした。

 

本堂前の朝焼け