旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

ご開山さんに感謝

みなさんこんにちは尚真です。今回が令和6年最初の投稿になります。「旅する禅僧」を楽しみにご覧いただいている皆様、本年もどうぞ宜しくお願いいたします。そして私のしょうもない記事も合わせて読んでいただけると幸いです。

 

さて今年は元日より能登半島を中心とした能登半島地震が起きました。震災で亡くなられた犠牲者の皆様のご冥福をお祈りいたします。

 

また未だに避難生活を送られている被災者の皆様におかれましてはお見舞い申し上げると共に、現在でも余震が続いている状況ですが、少しでも早く安心した生活が戻るように重ねてお祈りいたします。

 

 

先日、私どものお寺で開山忌の法要を執り行いました。開山忌とはお寺を開いた初代の住職の報恩に感謝するともに、歴代の住職、お檀家さんのご先祖様と共にご供養する法要です。

 

ここ数年はコロナ禍の影響で私と住職のみで行っていましたが、今年は久しぶりにお檀家さんと近隣のお寺院さんと一緒に法要を行うことが出来ました。

 

その際、本堂内に能登半島地震の募金箱を設置し、お檀家さんにもご協力をいただきました。私どものお寺がある茨城県の青年僧で活動している、茨城県曹洞宗青年会にて募金用の掲示物を用意していただきました。

 

私は昔から自分の考えを行動に移すのが苦手で、色々と考えているうちに結局機を逃してしまことが多い人間です。それはめんどくさがりとも言えるし、根性無しとも言えるかもしれません。

 

そんな以前の私はどこで募金すればいいのだろう、どうやって募金すればいいのだろうなんて考えているうちに結局調べもせずに終わってしまう事が何度もありました。

 

募金に限った話ではありませんが、気持ちはあるけどついつい行動しないままに終わってしまった。こんな経験があるのは私だけではないと思います。

 

しかし今は僧侶となり自坊に戻ったことで、こんな私でも行動に移せるように、先陣を切って行動してくれる仲間がいてとても心強く思うと共に、この仏縁を有難く感じています。

 

募金をしてくれたお檀家さんもご家族やご友人、職場の同僚など周囲の人に対してそういうきっかけになってくれるともっと嬉しいし、支援の輪がどんどん広がって行きますね。

 

だから以前の私のように、何か支援したいけどどうしていいか分からないという方がもしいらっしゃれば、この記事をきっかけに行動に移してみてはいかがでしょう。現在は様々な方法で募金することが出来ます。スマホからでも募金することが出来ます。ぜひ検索してみて下さい。

 

また募金以外でもさまざまな方法で支援が出来ると思います。「様々な募金の方法があるよ」と誰かに伝えるだけでも、募金したい人の助けになるかも知れません。また今はただ祈ることだけしか出来なくても、それはいつかどこかで次の行動の基になることでしょう。

 

このようにいつも周囲の仲間に助けられている私ですが、そのような仏縁に巡り合えたのも元を辿ればご開山さんを初めとした歴住さんがこの地で脈々とお寺を守ってきてくれたおかげです。今年はより一層感謝が強めの開山忌となりました。

 

久しぶりの開山忌となりました

 

而今に学ぶ。30

こんにちは、俊哲です。令和5年も残すところ数日となりました。皆様も仕事納めや忘年会など、公私にわたり賑やかに過ごされているのではないでしょうか。

 

さて、当ブログ「旅する禅僧」ですが、この数年間はパンデミックの影響でそもそも旅をする機会が減ってしまい、私自身も旅について書くことがあまり多くありませんでした。

それでも今年、コロナが5類になって以降は世間の流れの潮目が変わったように思います。

 

そんな中で先日、所属している団体の関係でカンボジアを訪れておりました。

東南アジアに位置するカンボジアは、世界遺産アンコールワットがある国としても有名です。

 

また、アンコールワットに次いでカンボジアのイメージといえば地雷やポル・ポトという名が上がるのではないでしょうか。

1970年代より政権を握ったポル・ポト政権によって、カンボジアでは大量虐殺が行われ、その後の内戦を経て多くの人が犠牲になりました。その内戦時にはたくさんの地雷が埋設されました。現在、埋設された約半分の地雷除去が行われたそうですが、逆に言えば未だ半分しか除去できていない状況です。地雷1つあたりのコストは安価で、それゆえに簡単に多くの地雷を埋設したのに対し、地雷除去は地道に1つ1つ丁寧な作業が求められ、膨大な時間とコストを要しながら今日も続けられております。

 

 

今回はシャンティ国際ボランティア会(SVA)主催のスタディツアーに参加し、地獄と称された難民キャンプを経験された方からのヒアリングや、内戦でお亡くなりになられた方々のご遺骨や虐殺現場での現地僧侶たちとの慰霊供養、またカンボジア国内でのSVAの視察、内線から現在に至るまで平和活動をする団体や組織への訪問を行ってまいりました。

光が差し込むプノンサンパウ霊場ポル・ポト政権時は宗教弾圧の一環でこうした霊場が虐殺場となった。この洞窟もかつては遺体が放り込まれ、遺骨で足の踏み場がなかったそうだ。



 

その1つ、訪問した小学校では、難民キャンプを生き抜きこの小学校建設の最初からスタッフとして携わった人、難民キャンプを渡り歩き今この学校で働く先生、この小学校の卒業生であり現校長先生からお話をうかがいました。

 

内戦後、日本を含めた周辺国からのたくさんの支援がなくては生きられなかったという話や、ここに日本の団体が学校を建設してくれなかったら教育を受けられず今校長になる未来もなかったという話を聞き、携わった方々の想いや行動力に改めて感服すると共に、僅かばかりでも支援の先で彼らの未来を少しでも明るいものにしていたのだということを実際に目にし、胸が熱くなりました。

 

自分の育ったお寺もSVAの会員として長年協力させていただいておりましたが、支援のその先を特に気にすることはなく、毎年”お金を送る”ということ以上に考えておりませんでした。

 

 

ですが三者三様の人生が、支援の先にあるこの小学校という場所で交わり、カンボジアの未来を作っている。

 

この事実を目の当たりにして、僅かでも支援させていただいていることが「あぁよかった」と素直に思えました。

 

 

今なおカンボジアでの地雷除去活動を含め、世界では紛争や貧困に苦しむ人がおります。同時代に、たまたま生まれた場所や状況が違っただけで、全く違う環境で生きております。

 

誰でも、出会った時から他人ではなくなります。

出会ったのだから。

この記事を読んでくださる方も、この記事と出会われました。

 

遠い世界に感じる話でもどうか他人事と思わず少しでも興味を持っていただき、自分が直接ではなくても、どこかで誰かの笑顔のためになる、そんな人生があることを知っていただけたら幸いです。

 

 

大きな話の第一歩は身近なところから。

どうぞ皆様、良いお年をお迎えください。

アンコールワット

訪問した小学校で行われた絵本の読み聞かせ会。大いに盛り上がった。

SVAの移動図書館

カンボジアのお寺のお釈迦さま

 

悉有仏性

こんばんは、禅信です。

 

今年も残すところ半月余りとなりました。

振り返ってみるとあっという間だったなというのが本音で、

今年も一年忙しくも楽しい日々を過ごしました。

 

歳を越す準備として、お墓参りや年回忌法要をお勤めする方も多く見受けられ、

最近では、平日にも法事を勤めさせていただくことも多く、

本日も午前、午後と2度本堂に於いてお檀家様と共に1周忌法要をお勤めさせて頂きました。

 

はじめに、般若心経を読経してお釈迦様へのご供養をしたのちに、

1周忌法要の読経へ続きます。

 

ご焼香の案内をしてふと塔婆に目をやると「大円鏡智 経曰 一切衆生 悉有仏性」

大円鏡智は四智の一つで、大円鏡という鏡は私たちの善も悪もありのままに写すものです。

経に曰く(大般涅槃経の一節を示して曰く)

一切衆生 悉有仏性

「私たち生命は ことごとく仏性(お釈迦様の姿、心)を備えている」

直訳するとこのように受け止められます。

 

住職の書く一周忌の塔婆には必ずこの一節が書かれてあります。

 

「一切衆生 悉有仏性」の教えは、私が高校生の時に道元禅師の礎石地を巡る旅行に参加した際、事前に行われた授業の中で、

 

 道元禅師が比叡山で修行をしていた幼少の頃このお経を知り、

 「仏性を備えているのに、なぜ修行をしなければならないのか?」

 と疑問に思ったそうです。

 

 先輩の僧侶や、老僧に問うてもなかなか腑に落ちる答えが聞けずに、

 

 道元禅師はいよいよ宋に渡り、禅の修行に行きつきます。

 

 そこで様々な師である如浄禅師や老典座との様々な出会いがあり、

 多くの僧と共に修行

 する中で、坐禅 読経 食事 掃除などすべてが仏道であり、

 我々が仏性を備えているからこそ仏道を修行する事ができるのであると

 答えを出されたのである。

 

と、先生からご教授頂いたことを思い出しておりました。

 

この一切衆生 悉有仏性の文字を観て、読経の中ご家族が焼香する姿に目を移すと

その姿はなんともまっすぐな姿、心に映りここにも仏性が備わっていることを実感しな

がらお経の声にも力が入りました。

 

一年を振り返ればいたずらに時を過ごした日々も沢山ありましたが、残りの半月間

仏性を備えた生活を修行したいものです。

 

いぬ

 

伝える

こんにちは、哲真です。

 

寒くなりましたね。皆様はいかがお過ごしでしょうか。体調を崩してはおりませんか。私は朝は寒さ対策として厚着をして朝課をしているのですが、昼には少し気温が上がりほんのり汗をかいてしまうことでかえってその汗が冷えて寒さを痛感するという日々を過ごしています。こういうことが体調を崩すきっかけになりやすいですよね。風邪など引かぬようにしっかり対策していこうと思います。

 

さて、前回の私のブログでは弟子が修行に行く準備をしていると書かせていただきました。その後、残暑が厳しい中修行へと旅立ちました。弟子がどのように過ごしているのか心配になることもありますが、修行で何かを掴んで帰ってくることを願うばかりです。

 

弟子が修行にいったことで私も、山門の前に立ったあの日のことを思い出しました。緊張と不安など様々な思いの中、立っていました。修行中では、お経が覚えられなかったり、法要の仕方が理解できなかったりして、時には怒られながらも一つ一つ乗り越えていきました。次には弟子がその場に立ち、同じ思いをしているのだなと感じる師としての立場を与えてくれて、さらに特別な思いを味合わせてくれたこの状況を感謝せずにはいられません。

 

お寺では、「正法興隆」を御祈祷などの際にお唱えいたします。正法とは、お釈迦様より脈々と伝えられている教えのことであり、興隆とは盛んになる、栄えるという意味です。コロナ禍の中、人との交流の場が減ってしまい伝えることが難しいと感じていましたが、今は次の段階へと進み再び人々の交流が増えてきています。弟子が修行から帰ってきたときには、新しい環境を活かして正法をいろいろな方に伝えていってほしいと願っております。

 

11月も終わりを迎え、年の瀬が近づいてきます。12月は師走ともいい忙しい月です。一年の最後の締めくくりに向けて頑張っていきたいと思います。皆様、季節の変わり目の寒暖の差が激しい時期ですので、くれぐれもお身体には注意してお過ごしください。

 

 

雑感

寒さを感じだすと、時間の流れるスピードというものはどうしてこうも早いものかと少し感慨に浸ってしまいがちになりますね。今年の夏の酷暑もこうも寒いと今では少し恋しくも感じてしまいます。

 

こんにちは、俊宏です。

 

季節の変わり目ということもあり、気温の低下に加えて天候不順が続き、檀務以外では屋外にでることの意欲が絶賛低下中の今日この頃です。

 

そんなときはそう、、、

 

自宅に籠ってオタクlifeにかぎりますね!

 

生来、出不精気味な私なので、秋の夜長も相まってついついサブスクリプションの動画配信サービスをひたすら鑑賞してしまいます。(そこは坐禅三昧じゃないのかとのご指摘はうけつけてませんので悪しからず。。。)

 

新作、旧作、不朽の名作にわたり非常に数多くの映画やアニメなどが月々定額で観放題なものですから一旦、見始めようものなら大げさではなくまさしく時間が溶けてなくなります。

 

私は特にアニメを比較的多く視聴しているのですが、そのなかでも最近特に感銘をうけた作品が鉄腕アトム、地上最大のロボット』をオマージュしたPLUTO』(プルートウというNet flixにて配信されたアニメ作品です。

 

 

 

原作は浦沢直樹さんが20年前に週刊誌連載をされていたマンガですが、まさにロボットアニメの枠をこえた非常にシリアスな仕上がりになっております。連載当時もそうでしたが、猶更、むしろ今改めて観るべき作品として私はこちらの視聴を皆さんに強くお勧めします。

 

 

まず、この作品が伝えたいこととして「憎しみの連鎖からの脱却」が挙げられ、おおまかなあらすじについては、大きな戦争によって悲劇に巻き込まれたアブラー博士が、復讐の為にプルートウというロボットを用いて世界を破壊しようとしますが、それをアトムが食い止めるといったもので、この物語の背景や各キャラクターの心理描写等が実に我々の社会における現状にも実にリンクするからです。

 

ご存知ではあると思いますが、今世界各地では様々な紛争が多発しております。確かに争う理由はそれぞれあって、そして武力によって解決する一面もあるにはあるでしょう。

 

しかし、たとえ勝っても負けても、それらに関わったすべての人の心には必ず遺恨が生まれ、残り続けます。傷つけた側には背徳感や後悔が、傷つけられた側には悲しみや憎しみが。

 

自身にとって情けない話ですが、ここ最近悲劇的な現状が目から耳から入りすぎて、もはや当たり前と感じてしまっている自分がいました。そんななかでふと視聴したこのアニメに改めて気づかされることが多くありました。

 

「勝利からは恨みが起こる。敗れた人は苦しんで終わる。勝敗を捨てて、安らぎを大切にした人は、安らかに終わる」

 

ダンマパダという経典にはお釈迦様が残したこんな言葉が記されています。またこうも記されています。

 

「恨みを抱く人たちの中で、恨むことなく、安らかに生きよう。恨みを抱く人たちの中で、恨むことなく暮らしていこう」

 

百億人以上が暮すこの地球上ですから、そもそも一筋縄ではいかないことばかりです。ただ、他者を傷つけることを問題解決の手段として用いたとしても、本当の意味での解決にはつながりません。そこから生まれた遺恨が新たな問題の火種になってしまうからです。

 

そういった恨みの連鎖をどこかでやめなければ永遠に争いは続いていく。まさしくすべてを滅ぼしつくすまで終わることはないでしょう。しかし、たとえ頭では理解していても、いざ当人となればその難しさははかりしれないものになるでしょう。ですが、そんな人々の想いを痛いほど感じつつも恨みを抱く人たちの中で、恨むことなく、安らかに生き、暮していくことをお釈迦様は勧めたのでした。

 

 

各地でおこる紛争問題を引き合いにだすには少々極端ではありますが、我々の日々の暮らしの中でも大なり小なりこのような問題や悩みはそれなりにあるとおもいます。もし心あたりのある方は是非このお釈迦様の言葉を思い出し、それぞれの心の在り方を今一度振り返ってみて下さい。我々人間は幸せになるために生きているのですから。加えて先にご紹介した『PLUTO』もお時間があればご覧になって頂きたい。

 

 

 


もうむっちゃくちゃ感動しますから。騙されたと思って是非一度お試しあれ。

共育

こんにちは。拓光です。日ごとに秋の気配を感じる今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

私事ですが、今年に入り第二子が誕生しました。新しい命が誕生したこともあり、より一層精進せねばと思う次第です。

というのも仏教では「生」と「死」を別のものと捉えず、「生死(しょうじ)」と表現します。

つまり生があるから死がある。また生の中に死があり、死の中に生があるということです。

日々の生活が忙しいと、つい生きることに精一杯になってしまい、死に対して向き合うことをおろそかになってしまいがちです。人間は生きれば生きるほど死に近づいていく訳ですから、死について考える、向き合うことはとても大切なことです。

話を戻しますが、我が子を育児することで、私の両親や今は亡き祖父母もこんな大変な思いをして私自身を育ててくれたのだなと気付かされるといった、我が子を通じて共に学び合い、共に育てられる「共育(きょういく)」そんな日々を送っています。

「共に学び合い、育てられる」これは親子関係だけに限らず、上司と部下、友人同士でも言えることかもしれません。

指導する、される立場、言い合いをする仲。その中でどちらか一方だけが学ぶというのではなく、互いが学びながら生きていく。前回のブログ投稿で挨拶について紹介させていただきました。(挨拶の「挨」は押す、師匠が弟子に対し仏法(教え)を理解できているかと自ら寄り添うこと。「拶」は迫る、弟子が師匠に対し仏法(教え)の真髄を自発的に追い求めるという意味です。つまりどちらか一方だけが歩み寄るのではなく、互いが互いに、寄り添い合い、意思疎通して初めて挨拶となる)

挨拶同様、「共に学ぶ」という視点を忘れずに、私自身もブログ投稿していきたいと思います。

 

ハロウィーンに思うこと

こんにちは。慧州です。

彼岸も終わり、朝晩は寒さを感じるくらい秋めいて参りました。

長袖を着る機会が増えたり、布団を一枚増やしたりと、生活が少しずつ冬に向かっていると肌で感じます。

 

さて、今月末はハロウィーンです。

「禅僧のブログなのにハロウィーン?」と思われるかもしれませんが、幼い子を持つ親にとって逃れられないイベントです。というのも、幼稚園で仮装をする行事があるそうで、先日その衣装を購入しました。

 

私が子どもの頃はまだ浸透していなかったハロウィーン。今では街中を歩くと、至る所で火の灯ったカボチャ(ジャック・オーランタン)やコウモリなどが飾り付けられ、ハロウィーン仕様がすっかりなじんでいます。

 

ご存知かもしれませんが、ハロウィーンは単なる仮装大会ではありません。

元々は古代ケルト人が一年の終わりを10月31日とし、一年の最後に収穫物を集めて冬の到来を告げるお祭りでした。また、季節の変わり目ということで死後の世界との境界が曖昧になることで、ご先祖さまをはじめ、多くの霊がやってくると信じられてきました。中には悪霊もいることから、子どもたちが仮装をして魔除けにしたのが、現在の仮装する習慣の起源だそうです。

 

この話を聞いて、皆さんは仏教にも似たイベントがあると思いませんか?そうです。お盆とお彼岸です。

お盆は、迎え火によってご先祖を迎え入れ、浴衣を着て盆踊りをしますね。お彼岸は、お中日を境に日の長さが逆転する季節の変わり目であり、死者の世界(彼岸)と生者の世界(此岸)が近づくため、先祖供養を行うという説があります。

不思議なもので本当に共通点がたくさんあります。人類考えることは同じということでしょうか。

まさにハロウィーンは、お盆とお彼岸が同時に来たようなものなのです。そう聞くと、なんとなくイメージが変わりませんでしょうか?

 

話は変わりますが、かつて私はハロウィーンに対して悪い印象を持っていました。それはどこか商業的で、騒いで街を汚くするイメージしかなかったからです。

 

ですが5年ほど前、その認識が少し変わった出来事がありました。

それはハロウィーン後のゴミ拾いです。ハロウィーン後のゴミ問題が指摘されて以来、終わった後のゴミ拾い運動が活発になり、私もたまたま知り合いに誘われて、渋谷のハロウィーン直後にゴミ拾いしに行くイベントに参加することになりました。

 

始発に乗って渋谷に行くと、明け方にも関わらずスクランブル交差点では多くの人が騒いでいました。どこか異様な雰囲気に私はやっぱりネガティブな印象を持ちました。しかし、電車が動き始めたからでしょうか。少しずつ帰宅の途につく人も増え始めて、落ち着きを取り戻しつつありました。そしていざゴミ拾いしようと思い、中心街に向かいました。

 

すると意外なことに、ゴミがあまり落ちていません。むしろ普段の渋谷よりよっぽど綺麗でした。その理由は、仮装していた人がゴミ袋を持って既に集めていたからでした。彼らも同じくゴミ拾いのボランティア活動をしていたのです。私はたまたま今年手伝っただけでしたが、これまで多くの人によってハロウィーンは支えられていたのかと頭が下がる思いでした。

 

仏教には「一水四見」という言葉があります。人にとっては飲み水、魚にとっては住む場所、そして油にとっては相容れない存在であるように、一つの物事は立場によって見え方が変わることを意味します。一つの目線ではなく、その背景に思いを馳せることの大切さを思い出す機会となりました。

 

今年はコロナ禍以来のハロウィーンとなりそうで、渋谷区長からもハロウィーン目的による大勢の集まりを控えるように呼びかけています。決して渋谷に集まらないようお願い申し上げます。

願わくはハロウィーンが本来の姿を取り戻せてくれること祈りたいと思います。

 

ゴミ拾いプロジェクト https://shibuya-gomizero.org/