旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

落ち葉掃き

みなさまこんにちは!

光彬と申します。

長い夏が終わりを告げ、ようやく涼しくなって参りました。この猛暑をみなさまと共に

乗り越えられたこと、嬉しく思います*

 

さて、私が住む山梨県身延町は山々に囲まれており(山梨県自体が山に囲まれていますが)夏の終わりから冬の中旬までは日々落ち葉との格闘です。掃いても掃いても終わりがなく、時間を決めて行うのですが次の日にはまた同じところからスタートすることが目に見えていると、なかなか

やる気を維持することが難しいです。

いつもの様にブロワーで落ち葉を飛ばしていた時のことです。

軽い風で飛んでくれる落ち葉もあれば、強い風を当てないと飛ばない葉があることに気が付きました。また、一方向からの風ではなく、自分が

動き回って様々な方向から風を当てなくては

集めたい場所に落ち葉を運べないのでありました。この落ち葉や風の動きを見ていた時に

些細なことですが、この葉や風が人の心や言葉であったならばと考えました。

少し前に、電車内で騒がしかったことを注意された若者が、注意されたことに腹を立て、注意した中年の男性を尾行し人気のないところで暴行を加えたというニュースがありました。テレビのコメンテーターは、若者が反抗に及んだことを非難し、近頃はどんな言葉でキレるか分からないから怖いとコメントしていました。人を傷つけてしまうとき、言葉にしろ力にしろ、一瞬でもそれで良いのか考えるのが我々人間だと思いますが、このニュースの若者は歯止めが効かず行動に移してしまいました。幸い、命に別状は無かったようでしたが、命に関わろうと関わるまいと暴力で相手を屈伏させることは正しいことと思えません。

しかし私は同時に、注意の仕方にも気を配らなくてはならないなと感じました。

私も時々、家族と言い合いになることがあります。100%自分が悪いことであっても、なにか嫌な言い方をされると気分が良くありません。もちろんそれは悪い側の屁理屈でもあるのですが、

もしもそこで優しく声を荒げたりすることなく注意を受けたならば、お互いの気持ちは随分違うのではないかと思います。

 

北風と太陽の話では、

旅人のコートを脱がせたのは強くて荒々しい風ではなく、暖かく柔らかい太陽の光でした。

仏教にも、真に相手の事を想いやり発せられる言葉には、どれほど憎い敵をも説得させ、国を統べるような権力者とも和やかで素晴らしい関係を築くことができる力があると説かれます。これは単に優しい言葉を話すだけではなく、相手のことを想いやるがゆえに時には厳しいことを言うことも含まれます。

私達は人と話すとき、自分に対して善意もしくは悪意が向けられていることを、相手の話し方や抑揚、言葉から敏感に感じ取ります。ですから、

たとえ仲の良い方であろうと、初対面の方であろうと、いつでも傷付ける可能性があることに気をつけなくてはなりません。

 

これからまだまだ落ち葉との格闘の日々が続きます。風の向きを変えてみたり強弱を意識し、落ち葉掃きを通して自分自身が、相手との接し方を

見つめ直し考えながら過ごしていきたいと思います。

おはぎとお彼岸

みなさんこんにちは尚真です。先日の台風13号で犠牲になった方のご冥福をお祈りすると共に、浸水や土砂災害などで住むところを失われた方々、生活に不便を強いられている方々にお見舞い申し上げます。

 

また厳しい残暑の中、復興作業に従事されている方々には、どうかご無理をなさらずに体調に留意して作業に取り組んで頂きたいと思います。

 

今年の気温は今後も平年より高い傾向になるという発表がなされています。9月に入ってからも最高気温が30℃を超えるような、厳しい暑さの日が続いています。

 

最高気温が30℃を超える日は「真夏日」と呼ばれていますが、私が子どもの頃の記憶では、私の住む茨城では最高気温が30℃以上になるのは8月前半からお盆までの間に数日あった程度かなという感じです。

 

しかし今どきの真夏の実態は35℃以上の「猛暑日」が連日続きます。夏の一番暑いころに「真夏日」と言われればしっくり来ますが、9月になって少し暑さが弱まってからが「真夏日」では、何だか真夏とは名ばかりのようで虚しく聞こえます。

 

しかし関東地方では今日の(記事の投稿は9/20です)雨を皮切りに少しずつ暑さも落ち着いてくるようです。暑さ寒さも彼岸までとは本当に良く言ったものです。そう今年の秋彼岸の入りの日は本日9/20(水)なのであります。

 

俊宏さんがお盆の時期の投稿で、お盆の風習が薄れてきていると記事の中で触れていましたがお彼岸についても同じことが言えるのではないでしょうか。

 

このブログの読者の方はそんなことは無いと思いますが、お盆と違ってお彼岸休みなどはありませんので、もしかしたら世の中にはお彼岸をご存じない方もいらっしゃるかも知れません。

 

お彼岸は春分の日秋分の日を中日としてそれぞれ前後3日間、計7日間を指します。春分の日秋分の日は昼と夜の時間が同じということで、私達の世界「此岸」とご先祖様の暮らすあちら側の世界「彼岸」が最も近くなる日になります。それなのでお彼岸中にはお墓参りやお寺で行われる法要に行くのですね。

 

余談ですが、今年のお彼岸の入りは9/20と書きましたが、実は春分の日秋分の日はそれぞれ年によって日にちが異なるという事をご存じでしたか?ですのでお彼岸の期間も年によって異なると言う事になります。

 

また「彼岸」とは悟りの境地の事ですので、六波羅蜜と呼ばれる修行を行う期間とされています。7日間のうちの中日を除いた6日間で、六波羅蜜の「布施」、「持戒」、「忍辱」、「精進」、「禅定」、「智慧」を一つずつ実践する修行になります。

 

六波羅蜜は私たち自身が悟りの境地に近づけるだけではなく、周りの人達も幸せになる行いばかりになります。本来ならいつでも実践していきたいところですが、現実はなかなか難しく私も実践できているとは言えません。

 

特に私か実践出来ていないものは、嫌な事や困難な事があっても、感情的にならずに我慢する「忍辱」でしょうか。嫌な顔や態度をすると、周りの人も嫌な気持ちにさせてしまいます。大いに反省しなくてはなりません。

 

この秋のお彼岸を機に、私も心を入れ替え、六波羅蜜を実践していこうと思います。皆さんもこれを良い機会として六波羅蜜に挑戦して頂けると、私の「忍辱」が足りていないことをカミングアウトした甲斐があります。

 

さて私の子どもの頃のお彼岸の思い出では、よくぼた餅やおはぎを檀家さんからいただいたものです。しかし最近はそんなこともめっきり無くなってしまいました。

 

地域や作り方によってさまざまな呼ばれ方があるようですが、春のお彼岸に食べるのが「ぼた餅」、秋のお彼岸に食べるのが「おはぎ」、それぞれ花の咲く時期に合わせて呼ばれています。

 

このように季節の花の名前で呼ぶあたりは日本らしい奥ゆかしさを感じます。しかし最近は、近所のスーパーでも一年中「おはぎ」として販売されていますし、ぼた餅とおはぎの区別が無くなってきているような気がします。

 

お彼岸の風習だけではなく、「ぼた餅」、「おはぎ」といった日本らしさも一緒に次の世代に伝えていきたいと思う彼岸の入りとなりました。

 

萩の花も咲いてきました

 

而今に学ぶ。29

 こんにちは。俊哲です。残暑がまだまだ厳しいですが、まさに秋に移りゆく今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

 私の近況を話しますと、私が所属する地元の曹洞宗青年会(若い世代の僧侶達で組織する団体)主催の、一泊二日のスケジュールで行う坐禅会、その名も「緑蔭禅の集い」が開催されました。

私もその青年会において、広報委員長を仰せつかっており主に写真の撮影を行いながら参加してまいりました。

 

実に4年ぶりとなる宿泊を伴う緑蔭禅の集いの開催(この4年間はコロナ禍で宿泊無しの開催)で、久しぶりの開催となりました。と同時にこの4年間で青年会員の入会・退会もありましたので、初めてこの坐禅会を経験する者も多く、初々しさも入り混じる緑蔭禅の集いとなりました。

 

 

私が青年会で広報に携わるのは8年目となりました。昨年より広報委員長になり、今年は委員長最終年です。とは申しましても、8年も携わると自分が好んで撮影する構図とういうのはワンパターンで、変化を加えようとしても自分の枠を超えるような写真が撮れず、自分の写真に自分が一番飽きてしまっております。

 

 

お寺の本堂で人が坐禅をする姿を撮影することは意外と難しく感じています。被写体は動かないけれど坐禅中は本堂の中を暗くし、それでいて窓の近くは外から太陽光が差し込むため、カメラへの光の集め方、シャッター時間に気を使う必要があります。

 

また、坐禅中にパシャ パシャとシャッター音がずっと鳴り響いていても、坐禅中の皆様の邪魔にってしまうため、坐禅が始まってすぐのまだ落ち着ききっていない間に数枚撮影して引き上げることもマナーと考えております。ここまでで何が言いたかったかと言うと、8年も広報に携わると、写真の技術はそこそこでも、写真を撮る際の周囲の様子が広く見えるようになったことをちょっとだけ自慢したかったのです(笑)

そういう点では成長させてもらったと実感いたします。

 

 

その後は撮影した写真を取り込み、人様の目で見ておかしく無いよう多少レタッチ(加工)処理を行います。

 

今では写真のレタッチを行うアプリ等も豊富で、私の目に映ったように、または私が感じたように撮影した写真を加工することができます。そこまで含めて、撮影者のセンスと言われる時代になりました。

 

色味の調整を行うと、究極は白か黒です。真っ白か、真っ黒。

この2つの色の間に全ての色が展開しています。

 

そう思うと、この白と黒は対極という見方だけではなく、全ての色の基礎(ベース)であると言えます。

 

世の中、「白か黒か」という二択を迫られることは多く、似たように、イエスかノーかと迫られる機会も多々あります。

そんなことに慣れ、気づけば自分で自分に二択を迫っていたということもあります。同じような経験をされた方も多いのでは無いでしょうか。

 

 

ですが、白と黒、イエスとノーは同一線上にあるもので、例えば北極か南極かという問いも地球という枠の中の話であります。両極の白か黒の間には無限の色の広がりがあります。

 

白と黒。イエスとノー。そんな二極が全てではなくて、NotホワイトでNotブラック。NotイエスでNotノーな世界は無限の広がりを感じます。その無限の中から見たら、両極と思っていた二極もその無限の中に包括されたことでありました。

 

そう思うと、二択に捉われている足枷が外れるとスーッと早く走れるようになるんだよなぁと、少々飽きてしまった写真の色彩調整を行なっていた時に感じたお話でした。

 

本堂前の朝焼け

 

お盆供養

こんばんは、禅信です。

 

今日も暑いですね~。

 

最近は挨拶の様になっている言葉ですが皆様暑い夏をいかがお過ごしでしょうか?

8月もあっという間に、後半を迎え朝夕には秋の虫が涼しげに声を響かせるようになって参りました。

 

今年のお盆は入りの13日が日曜日と言う事もあり、お墓参りをする家族ずれの姿を多く目にしました。本堂で行われた合同供養も午前中の3座はどれも満席になる程でありました。

ようやく如常の生活様式が戻ってきたのかなと、嬉しさを感じるお盆でもありました。

 

 

今年は我が家も祖母の初盆を迎え、13日に提灯を持ってお墓に御霊のお迎えに行って参りました。お盆の期間中は沢山の方にお参り頂き祖母の存在の大きさを改めて実感致しました。

 

祖母は若い頃、保育士として勤めており近所には沢山の教え子がいて先生と慕われておりました。私も子供の頃は母親が料理をする隣の部屋でよく絵本を読んでもらったり一緒にテレビを観たりと面倒を見てもらいました。

 

 

祖母は歌謡番組を見るのが好きで自分の好きな歌手が出演していると一緒になって歌っていた光景が印象的です。決して上手とは言えないながらも、夢中で歌っている姿を見るとこちらも楽しくなり本当に好きなんだなと、子供ながらに微笑ましく感じておりました。

 

そんな祖母も、80歳後半になると2度目の脳梗塞を患いその後遺症から施設で生活することになりました。

 

ここ数年は面会も自由にできない状態が続きましたが、施設のカラオケ大会を楽しみにいつも大きな声で歌ってますよ。と、報告を頂くとテレビの前で歌っていた姿が思い浮かばれました。

 

 

昨年の11月いよいよ体力も弱くなり、最後の時を迎えました。

施設のベットの上で意識が朦朧とする中で、「もしもし亀よ亀さんよ」と子供をあやす様に口ずさみながら亡くなりましたよと施設の方から伺いました。

終末期には、寝ている時間も多くなり会話もままならない状態でしたが、夢の中で子供たちと遊んでいたのかなと思うと、祖母らしい温かい最後だったなと手を合わせてお別れする事ができました。

 

 

あっという間に半年が過ぎ祖母を迎える初めてのお盆では、家族・親戚がお参りに集まり元気な姿を報告する事ができました。

 

残暑厳しい今日この頃ですが、祖母の生きた姿を真似て優しい心を大切にしたいと感じたお盆供養でありました。

 

 

梅花

 

初心

こんにちは、哲真です。

 

暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。今年も八月になり、私の地域ではお盆の月となりました。

 

お盆はお寺にとっても忙しい月なのですが、初盆を迎える方々も親戚や地域の方がやってくるので忙しいのでないかと思います。

 

この時期は棚経で各家にお参りに行くのですが、最近は、「和尚さんはいつ来てくれるの?」「日にちと時間を指定してほしい」「お盆の時期は仕事で家に誰もいないけどどうしたらいい?」など多くの質問を受けることがあります。ネット上でも、あるお寺の檀家さんに棚経の事をたずねたら50%以上の檀家の方々が「できれば来てほしくない」と回答している寺院もあるようでした。今の時代には合っていないのかもしれません。

 

先ほど述べた問題は菩提寺の御住職様に相談していけば、きっと回答が見つかるはずです。ただ、お盆というものはすごく良いことだと思います。ご先祖様を供養したり、親戚が集まってお話をしたりという様々な良い点もあることは事実です。ですので、是非お盆の期間は大事に過ごしていただければと思います。

 

 

また、前回の私の記事で出家得度式を行い弟子ができましたと報告させていただきました。今回はその弟子が、できれは秋には修行に行きたいというのでその準備にも追われています。発心した以上、修行に行き、宗門に触れたいという強い決意があります。私も修行に行った時は同様の気持ちを持っていったものだと、久しぶりに思い出させていただきました。

 

「初心忘れるべからず」と言いますが、始めるときの気持ちを大事にするという意味と、始めた時は何もしらず、工夫したり、苦労したりしたことを忘れないようにしようという意味があると聞きました。自分自身も始めはできなかったけれど今はできるようになっていること、当時と変わらず今もできないこともあると改めて感じているところです。

 

皆様も始めたころと比べて成長した部分、成長が遅い部分など自分を振り返って考える時間を設けてみてはいかがでしょうか。

 

まだまだ暑い日が続きますので、お身体にはくれぐれも気を付けてお過ごしください。

 

夏の一大イベント

皆さん、こんにちは、こんばんわ、俊宏です。

 

いやーあっついですね。

 

連日の猛暑で梅雨がないと言われる北海道もなんだか年々、気温の上昇傾向とともに湿度も上がってきているように感じます。禅僧たる者、在りのままを受け入れなくてはいけないのでしょうが、ついつい天候については愚痴をこぼしたくなるそんなこの頃ですが、まあ夏なんで仕方ないですよね。

 

いきなりですが皆さん、夏ときいて思い浮かべることは一つしかありませんね。

 

 


そう、

 

甲子園ですね!!

 

と言いきりたいところですが、やっぱり立場的には「お盆」って言わなきゃいけないですよね。。。

 

野球のことであれば何万字も語れるところですが、ここは「らしく」お盆の話しをさせていただきます。

 

さて、皆様は「お盆」という言葉を聞くとどんなことを思い浮かべますか。

仏教国である日本においては、御先祖様などの亡き人の御霊を特に弔う期間としての認識であると多くの方に思っていてもらいたところですが、おそらくほとんどの方々は、夏休みとしての認識の方が強いようで、この期間は旅行やレジャーなどで自宅を留守にする人が殆どなのではないでしょうか。しかし、元来お盆の時期とは亡き人が我々のもとに里帰りをする期間と考えられており、精霊棚のようなご先祖さまを迎える場所を自宅の中に設け、それに合わせてお墓参りといった先祖供養をその時期には欠かしませんでした。しかし、現在はそういった風習の多くを残念ながら行っていない家庭が多いように思えます。

 

時代の流れやその時々での状況により、そういった慣習を行わなくなるのは仕方のないことではあるでしょう。しかし、特に神事・仏事に関して古来より行われているものの多くは、むしろ現代の我々にとって非常に意味のある素晴らしいものが多いのです。

 

そもそも神事や仏事には所謂、目には見えないものに焦点を当てて言及している部分に共通点があります。例えば神事では人間には抗えないものや計り知れない事象などを神としてとらえ、それらと向き合っていく術を教え、導くもの。そして仏教とは、生きていくうえでは避けることのできない苦しみや悲しみといった感情にゆらぐ自身の存在や心を見つめる方法を説いたものです。神様にしても自身や他者の心といったものも、物理的に認知することは非常に困難です。しかし、日本の慣習はそのどちらも存在するものとして接してきました。そして目に見えないものであるが故に、時としては自分自身よりも優先してとらえてきたのです。要は自分が一番偉いわけではないのです。特にそんな概念が当たり前のように根付いていたはずの日本ですが、現代ではあまりにも個人という概念が大きすぎるように思えます。自分さえよければといった独りよがりな考えがもととなる悲惨な出来事も、日を追うごとに増えていってるようにすら感じます。今を生きる我々には目には映らないものに目を向ける機会が改めて必要なのではないでしょうか。

 

月並みですが、人は一人では生きていけませんし、この世に生まれ出ることもできません。更に言えば、遡って何万人という御先祖様のどなたが欠けても自分という存在はありえません。確率という点からみても今、自分がここに在るのは殆ど奇跡みたいなものなのです。こうして自分を世に送り出すという奇跡を紡いでくれたご先祖様の方々をどうして蔑ろに出来ようものでしょうか。そういった今は亡き人の存在や人のこころなど、目には見えないものへの感謝・思いやりの大切さを今一度、このお盆の期間を通して再確認していただけたらと思います。そして、そんな目にすら映らないものをも大切にできる心が、皆さんのこれからの人生をもっとより良い素晴らしいものへと導いてくれるはずです。

 

            

 


もし、今まで精霊棚の様なお盆飾りを設けたことのないお宅は、今年からでもこういった形をもって、亡き人を迎えるお盆の時間を過ごしてみてはいかがでしょうか。

 

挨拶の意味

こんにちは。拓光です。

今年も厳しい暑さになりそうですが皆さんいかがお過ごしでしょうか。節電も大切なことですが、しっかりと熱中症対策をしてお過ごし下さい。

先日、通夜式の導師を務めさせていただいた時のことです。

斎場に早めに到着し、喪主並びに喪主兄弟に「この度はご愁傷様です。本日の通夜式にて導師を務めさせていただきます。よろしくお願い致します。」と挨拶をし、喪主様からも「この度はよろしくお願い致します。」と互いに挨拶をし終えてから控室で待機をしていると

コンコンとドアが叩かれたので、ドアのほうに目を向けると再び喪主様が挨拶に来てくださいました。

「改めて本日はよろしくお願い致します。故人である父は…」と故人との思い出を語りながら改めて丁寧な挨拶をいただきました。

二度も挨拶に来ていただけるなんてとても丁寧な方だなと思いながら控室で待機を続けていると再びドアがコンコンと叩かれたので、再びドアの方に目を向けると大学生くらいの男性が立っていました。

「どうされましたか。」と尋ねてみると

「私は故人の孫の〇〇と申します。挨拶に伺わせていただきました。」と言われたので

「丁寧にありがとうございます。先程喪主様と挨拶をさせていただいたので気を遣わなくて大丈夫ですよ。」と伝えると

「いえ、私は私で故人に大変可愛がってもらったので別で挨拶に伺わせていただきました。」と喪主同様に故人との思い出話を語りながら挨拶をしていただきました。

お孫さんからも丁寧な挨拶をいただき嬉しい気持ちになったと同時に、はっと気付かされる私がいました。

私は今までは代表して喪主に挨拶をすれば良いと思っていたところがなかっただろうか。皆に話をする場面でその場にいる一人ひとり全員にしっかりと思いを伝えられるように話していただろうかと。

 

この「挨拶」という言葉は、もとは「一挨一拶」という禅語で

「挨」は押す、師匠が弟子に対し仏法(教え)を理解できているかと自ら寄り添うこと

「拶」は迫る、弟子が師匠に対し仏法(教え)の真髄を自発的に追い求めるという意味です。

つまりどちらか一方だけが歩み寄るのではなく、互いが互いに、寄り添い合い、意思疎通して初めて挨拶となるわけです。

人と人との出逢いは必ず挨拶から始まります。自分から挨拶をする際には個人、複数人に限らず、相手にこちらの思いを伝えるだけでなく、しっかりと伝わっているのかを意識することが大切です。逆も然りで挨拶をされた際には相手の思いが自分に伝わっていることを相手に示すことが大切です。

本日は改めて自らを律するために挨拶の意味を紹介させていただきました。今後も皆さんとブログ(挨拶)を通じて、心の交流を深めていきたいものです。