旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

而今に学ぶ。19

 こんにちは。俊哲です。私にとっては2021年最初の投稿です。本年もよろしくお付き合い下さいませ。

 

 さて、世間は先行きの見えないコロナ禍ではありますが、不安を煽るメディアの報道のあり方を指摘する声も高まってまいりました。それぞれに情報を精査しながら、自分の生活と社会生活のバランスを保ちたいなと思うのであります。

 

 今日は、およそ3年前に南米のブラジルで開催された、禅の大会に参加した時のことをお話ししたいと思います。

 

  

 私が参加した禅の大会は、南米大陸におられる曹洞宗の僧侶達を中心に、各国で仏教や禅を学ぶ皆さんの大会で、皆で坐禅をし、各地での布教の様子や意見交換を行い交流を深めるといったものでした。参加した日本人はブラジル在住の日本人僧侶と、そのタイミングで南米に滞在していた僧侶と私との3人で、ほとんど全員が南米出身者たちによって催されたものでした。

 

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南米の皆さんとの坐禅と法要の様子



 ブラジルのフロリアーノポリスという島で開催されました。大西洋に浮かぶこの島はブラジルの人にとっては避暑地として、アルゼンチンの人にとっては海水浴地として人気があり、風光明媚なこの島の、元々はキリスト教修道院だったという場所にて開催されました。

 

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会場となった元修道院の教会

 この修道院だった建物は現在も地元の人達が通う教会として機能しており、期間中もミサが行われておりました。また、利用するに不敬ではないと判断された時にだけこの施設を利用することが認められ、この時も南米の禅の大会に是非にと、非常に好意的に私たちは迎えていただきました。

 

 期間中、私に与えられた部屋は、かつては修道士が暮らしていたというもので、簡素に作られたその部屋は何もなく、しかし小さな石造の部屋でありながら不足を感じることはありませんでした。かつての住人と私とは、宗教も、人種も、時代も違いながら、私の「今、ここ」に置いて信仰という部分で共感するのではないだろうかと思いを巡らした部屋でした。

 

そんな感動を覚えながら耳を澄ますと、部屋の外から波の音が聞こえてきます。庭に出ると、小高い丘の上に立つこの教会からは大西洋を眺めることができました。

 

 休むことなく日本から飛行機を乗り継ぎ、時差ぼけを時差ぼけと感ずるに未だ至らぬその時の私は、体のバランスをいくらか崩しておりました。体のバランスを崩すと、心の持ち方にも変化があるようです。

 

というのも、その時眺めた海はなんとも幻想的で、私は今までにない深い感動を覚えました。海には間も無く沈もうとする真っ赤な太陽が、海も空も、その一切を真っ赤に染めながら輝いておりました。沈もうとするその陽の方角には見えずともアフリカ大陸があり、日中、庭で眺めたアフリカからの渡り鳥が巣に飛び帰る姿も赤く染め上げておりました。

 

言葉には言い表せないこの感動はなんなのだろうか…

陽が沈みきり部屋に呼ばれるまで立ち尽くしておりました。

 

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大西洋に沈む夕日

 

私は今日、日本からこの地にきて、この景色に出会ったからそのように思ったのでしょうが、私がここに来るずっと前からこの教会は日が昇り沈みゆくのを何百年と経験しているのです。

そしてこの教会が建つ何千年も前からこの地はこの美しき光景が繰り広げられていたのです。私がこの場所に居ても居なくても、私がわざわざ美しいと思わなくても世界は輝いており、そこには”美しくなろう”という作為など当然全くないのです。

その事実が、私の頭をバーーーーンと叩いたような衝撃を持って感じられました。

 

そんなこと誰でもわかるよ!と声が飛んできそうですが、このことを頭で理解することと、深い感動とともに実感するのとはまったく違うのではいかと思うのです。

 

 私がいなくても、出会わなくても、日は昇り沈んでゆきます。きっと今日もあの教会からは真っ赤な夕日を眺めることができるでしょう。

「私がいなくてもこの世界は変わらない」と、常々思っております。きっとこの先も、この思いは変わらないのだろうと思います。

 

 しかし、そんな私の思いなんて関係なく、気がつけばあの時、私自身も辺り一面と同じように夕日に真っ赤に照らされていた。そのことを忘れることはないでしょう。

 

 私が、美しいと知覚するまでもなく夕日は私を照らして居たこと。きっと、その姿にこそ輝く命を生きる”私”の用い方があるのだと感じました。

 

 道元禅師の残された「諸仏の常にこの中に住持たる、各各の方面に知覚を残さず。群生のとこしなへに、この中に使用する、各各の方面に知覚を残さず」という言葉を読むとき、この時の光景を思い出します。

 

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日中の教会の庭の様子。敷地内では多くの野生動物を見ることができた。

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各地の仏教徒が応量器や線香、テキスト等を持ち寄り、交換、販売していた。日本のようには仏具が揃わないため、工夫しながら弁道に励む姿に非常に刺激を受けた。

 

年のはじまり

みなさんこんにちは!
光彬です!
いかがお過ごしでしょうか?
緊急事態宣言が発令され、心地よい生活が
出来ない中かと思います。ですが、
どうか耐えてください。一人一人の努力と気遣い、
想う気持ちが、知らない誰かを、そして
みなさんの大切な人を救います。

さて!
年が明けて早2週間近くが経過しました。
再びの緊急事態宣言が出てしまいましたが、
私がいる山梨のお寺でも少しずつ、
自粛していた法事をしたいとご連絡をいただいています。

先日、年が明けて最初のご供養の日でした。
その日の本堂は特に冷えきっていて、ご家族が
いらっしゃる2時間前にストーブ4台をフル稼働して
迎える支度をしていました。
25人で来たいと言っていた所を、自粛等もあるからと
10人まで減らして、配慮をしてくれました。
時間の15分前になり、8人が集まりました。
もう来るだろうと、お焼香用の香炉に炭入れをしたり、
蝋燭の火を灯したり、いつ始めても良いように
準備をしていました。

3分前になり、家族もどうしたのだろうと
そわそわしだしました。私は、ちょっと遅れる分には
待っていようと思っていましたが、
なかなか来る気配がありません。
電話も繋がらない、近くまで来たのかも分からない、
そんな状態が続きました。

結局、電話があったのは法要開始予定時刻から
45分経ってからでしたが、
私はその前から少しずつイライラしてきていました。
こっちだって寒いなか、少しでも
ご供養に心が向けられるようにと
暖房を付けたり階段を掃いてキレイにしておいたり、
トイレの掃除をしたり、不快に思わないようにと
支度をしたつもりでした。

法要が開始したのは電話が繋がってから
約2時間経過した頃でした。
ご家族も、先に始めてくださいと言ってくれましたが、
意固地で何とも言えない苛立ちのせいで
待ちましょうと、思ってもない気持ちを口に
していました。


ようやく全員が揃い、無事に17回忌の法要を
済ませることができました。
苛立ちの中でした法要は、自分でもかなり
気持ちの悪いものでした。その時、
遅れてきた人は苦笑いしながら謝ってきましたが、
故人の奥様が涙ぐみながら、
遅れてきた人を待ってから法事をしてくれてありがとうございました。主人とも仲が良かった人でしたから、全員が揃って法事の席にいられて、嬉しい気持ちでした。
と、言ってきてくれました。

その言葉を聞いて、
私の中に、調理器具の焦げのように纏わりついていた
イライラは、一瞬で消えて無くなったようでした。
ご家族をお見送りしてからは、なんで
あんなことでイライラしたのだろう、もしかしたら
昨晩の仕事疲れで寝坊してしまったかもしれない、
ケータイの電波が上手く繋がらないところを
走っている最中だったのかもしれない、
それでも忙しい中来てくれたのに、と
恥ずかしい気持ちになりました。


修証義というお経のなかには
愛語(慈愛に溢れた優しい言葉)がもたらす高徳をお示しになる部分があります。
"人としての善い徳を持っている人は褒めて、
徳の薄い人に対しては憐れみをもって接し、
憎い敵を穏やかに説き伏せ、
権力者同士を和解させて平和へと導く力があるもの、
それが愛語である"

その日、憤りの気持ちに囚われていた私を
穏やかにしてくれたのは、施主さんの優しいお礼の言葉でした。


これは、全てのことに通じることです。
特に今、コロナでたくさんの人が不満を抱き、窮屈な心で
過ごしている時だからこそ、かけられる言葉が
愛語ではないでしょうか?

私自身がまず
相手に優しい言葉を話します。
みなさんも一緒に、実践して貰えると嬉しいです。
素敵な1年にしましょう。

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新年明けましておめでとうございます

 

今年一年の無事とご多幸をお祈りいたします。

 

 

皆さま、どのようなお正月をお迎えましたか?

 

今年は12月に入っても忘年会や年末の旅行がなく、家族と家で過ごした人も

多い事と思います。

 

 

静かな年の終わりに、梵鐘を鳴らし。

1年を振り返りながら「三塗八難 息苦停酸 法界衆生 聞鐘悟道」と

ひと撞きひと撞きに想いを込めます。

 

この「鳴鐘の偈」には、鐘の音を聞いたすべての人の苦しみが除かれてやすらかな生活を過ごせるようにと願いを込めます。

 

 

鐘の音が、静かな夜に響き渡り遠くの町に届いては、夜の静寂に消えゆく情景に

先人たちは「諸行無常」を想い、終わっていく一年に想いを廻らせました。

 

 

平家物語に「ただ春の夜の夢のごとし」とある様に、過ぎてはあっという間の人生ですが。

 

除夜にその一年の人生を振り返り、感謝と反省を抱き鐘を撞くその時間はかけがえのない習慣なのかもしれません。

 

 

 

そして、新年を迎え気持ち新たに一日一日歩みを進めます。

 

「正月」の正の字は「一に止まる」と書くのだと祖父に教えられたことがあります。

 

歳の始まりに一度足を止めて今年の目標を立て自己を見つめ、気持ち新たに新年を迎えます。正月は気持ちの切り替えにも、区切りを作る意味でも何事を始めるにも最適な月です。

 

お釈迦様の教えに触れる時、仏門に入る時、修行に入る時には必ず初心をもって「菩提心を発します」物事の始まりに沸き上がる強い思い、修行を務める時にも最初に念じた強い決意や決心を、一日一日、一瞬一瞬に同じ菩提心を発し生活を務めます。

 

 

 

 

新鮮な気持ちをもって日々の生活を送ることが、修行を務める時に一番大切なことである。そう教えられました。

 

 

人生の大切な一年、他を思いやり、共に協調しあえる日常を送れるように努めたいと思います。

 

 

 

今年も一年よろしくお願いいたします。

 

年末ですね

こんにちは、哲真です。

 

いよいよ年末ですね。今年最後の投稿です。

 

今年一年を振り返ってみるとコロナに始まりコロナに終わったという感じでした。このブログは「旅する禅僧」ですので、旅がキーワードになっていますが、その旅が今年は制限されてしまいました。

 

そんな中でも、お寺にお参りにくる方々は多くいました。これはコロナ禍で何とかしたいという想いや、いつもお参りしていたからなど様々な理由があったはずです。移動が制限されてもお寺にはお参りがあるものだなと気づかされました。そして私が旅をしなくてもみんなが旅して来ることがある場所だということを認識させられました。

 

 

 

吾唯知足という言葉があります。これは「われ、ただ足るを知る」という、簡単に言えば「今あるもので十分であると知ること」です。

 

コロナ禍で外出が制限されたり、飲食店や買い物も自由に行きにくい年でした。それでは生活ができなくなってしまったかといえばそうではありませんでした。また、必要以上に物で溢れかえっているような生活をしていたことに、気づかされた一年でした。マスクなどは買占めも話題になりましたが、皆が購入できようにと買占めを控える人もいました。自分だけ良ければ良いということではなく、皆も良くなるようにと行動される方が多くいたのです。それこそ吾唯知足に繋がるのではないかと思います。何が自分にとって必要で何が不要なのかをきちんと見極めることが大事なのだと思います。

 

また、押印の文化もこのコロナで問われだしております。今自分が必要な物、もしくは世の中に必要な物を見極める力が問われているのかもしれません。

 

世の中いろいろ変化があります。その中で必死に生きて様々な経験をし、成長していきます。それこそが生きるということなのかもしれません。

 

来年はコロナが収束し、もっと経済も含め皆が活発に行動できるようになる事を願っております。

 

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前回の雪が降った時の境内

 

年末は、大雪となるところがあるようです。皆様気を付けてお過ごしください。

そして、よいお年をお迎えください。

今年唯一行った旅のような旅でないような話

こんにちは。向月です。

いよいよ年の瀬。あと1週間で大晦日です。

今年を振り返ると、大変なことばかりでした。

年明けから始まった第一波、やっと乗り越えたかと思えばすぐに二波、

三波と押し寄せてきました。医療現場の方々は、

大変な苦労だったと思います。

世界中で緊急事態宣言が出され、街では人の姿がなくなりました。

沢山の規制の中、皆さんも本当にストレスのたまる1年だったことでしょう。

 

このブログも『旅する禅僧』というタイトルの通り、

メンバーが旅してきたことやその途中で考えたこと。

また日常生活の中で感じる旅への思い。旅から見た仏教、

仏教から見た旅の話などを書いております。

規制の多い中で旅にでれず、みんな何を書いたら良いかと悩んでおりました。

それでも、毎週欠かさずブログを更新してくれたメンバーにも感謝しております。

 

 

私も今年は旅らしい旅はできなかったのですが、

唯一それらしいことと言えば岡山と香川に行ったことです。

10月のはじめに行った、半分仕事のような旅でした。

その途中、岡山県倉敷市玉島にある円通寺というお寺に立ち寄りました。

このお寺は曹洞宗の禅僧、良寛さん(1758年~1831年)ゆかりのお寺です。

望む小高い丘の上に有り、瀬戸内海を望むように静かに建っています。

 

 

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良寛さんは「子供の純粋な心こそが真の仏法」と言われ、

子供たちとよく遊ばれていたようです。

また、教養のある大人たちとは和歌や詩などを交わす

文化人の一面ももたれていました。

そんな良寛さんの最期の一句は

 

「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」

 

と言われています。

人間は良い面(表)と悪い面(裏)があるけど、

人生では結局全部見せながら生きていく(死んでいく)

と言うような意味にとれます。

 

人間も自然の一部。ありのままで生きていくしかないと

言われているように思います。

この句はこの円通寺で詠まれたものではありませんが、

瀬戸内の海を眺めながら修行された良寛さんの飾り気のない、

暖かい人柄を表しているように感じます。

私も良寛さんに習って瀬戸内海を眺めながら一句詠んでみようと

思案したのですが、さすがに思いつきませんでした。

もう少し長旅ができるようになったら、ゆっくり考えて

渾身の一句を詠みたいものです。

 

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円通寺の建つ丘から眺めた瀬戸内海)

 

 

さて、「旅する禅僧」も来週の投稿が年内最後となります。

大変な1年でしたが、ご愛読いただいた皆様には大変感謝しております。

旅するメンバー一同、今後も精進していきたいと思いますので

これからもぞうぞよろしくお願い致します。

ブッダとウサギと私

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みなさん、こんにちは。慧州です。気がつけばあっという間に12月を迎え、年末の慌ただしさを感じる季節になってきました。

 

先日街中で買い物していた時、駅前である声が聞こえてきました。

「O型の方の血液が足りていません!みなさまのご協力をお願いいたします!」

それは献血の呼びかけでした。O型の私はまるで自分に声かけられているような気持ちになっていました。O型は万能輸血として知られ、他の型にも利用できるため慢性的に足りないそうで、さらには新型コロナウイルスの影響で学校等の集団献血ができず、全く足りていないとのことでした。

実は生まれて30年以上、一度も献血をやったことがありません。血を抜くということへの単純な不安もありますが、それ以上に周りで献血をやっている人がおらず、一体どんなものなのか知らなかったからです。

その時は急ぎの用事があったので、その場をすぐ立ち去りました。しかし、いつもだったら素通りしていたであろうその声が、なぜか耳から離れませんでした。

どこか罪悪感を感じながら歩いていると、ふとこのコロナ禍で生きている自分とは何かを考えていました。いつもクヨクヨしてしまう私の悪い癖です。

 

今年の3月、イタリアでは教会の司祭の方々が大勢亡くなるニュースが日本でも流れました。患者の臨終に立ち会い、その結果コロナに感染してしまう。それでも祝福を与え続けた彼らの行動に私だけでなく多くの方が驚いたことだと思います。

彼らをそこまで突き動かしたもの、それはただ目の前の人の苦しみを救いたいという思いでした。

 

それは仏教でも同様です。釈尊の前世である『ジャータカ』には「捨身飼虎」というお話があります。お腹を空かせた親子の虎を見た前世の釈尊が、我が身を崖から投げ出し、虎に食わせたというこのお話。法隆寺に所蔵される「玉虫厨子」という工芸品にもその様子が描かれていることでも有名です。

 

私が初めてこのお話を知ったのは幼いころに読んだ手塚治虫の『ブッダ 』。冒頭のエピソードであるクマとキツネとウサギの三匹の動物が雪上で倒れている老人を助けるために食べ物を探すお話です。クマは川で魚を捕まえ、キツネは土の中から何かの実を持ってきました。しかし、ウサギだけは何も見つけられませんでした。

するとウサギは老人に火をつけるよう頼みました。なぜそんなことをするのだろうか、クマとキツネは不思議でした。すると突然ウサギは火の中に飛び込んだのです。

自らを焼けば老人に食べてもらえるからです。老人とクマ、キツネは嘆き悲しみながら、ウサギに祈りを捧げます。これが冒頭のエピソードです。

「見ず知らずの人にそこまでできるのか」

幼い私にとって衝撃的な始まりでした。

 

振り返って今の私はどうだろうか。全く変わっていないんじゃないだろうか。「自未得度先度他(自分よりもまずは他人を先に救いたい)」という誓いを出家した時にたてたのではないか。へこんでいる場合じゃないだろう。そんな声が頭の中を巡るのです。

 

そんなことを考えながら買い物を終え、再び駅前に戻った私は気がつけば献血会場へ足を運んでいました。迷いがかえって私の背中を押してくれるようでした。

今出来ないことばかりを考えてしまう私。でも出来ることは目の前にあるかもしれません。釈尊やウサギのようにこの身を投げ入れることはできないかもしれません。たかが献血じゃないかと笑われるかもしれません。

それでもあの日「献血に行こう」と思えた気持ちを、私は忘れないようにしたいと思います。

発想の転換

こんにちは。拓光です。早いもので今年も残すところあとわずかとなってしまいました。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

 

先日、ふとテレビを見ているとニュースで児童虐待に関しての報道がされていました。内容は29年連続で児童虐待の件数が増加しているとのことでした。

私は大学時代に「児童虐待防止」をテーマに卒業論文を書いた経験があるのですが、児童虐待が発生する際にはいくつかの要因が存在し発生すると言われています。

その中には親の生育歴などの親自身の要因がありますが、他にも「子どもが言う事を聞いてくれない」などのいわゆる育てにくい気質があるなどの子ども自身の問題もあります。

 

私自身も娘と共に過ごす上で、娘に対してなぜこんなに厳しく叱っているのに、どうして言うことを聞いてくれない、なぜ気持ちを理解してもらえないのだろうと悪戦苦闘することが多々あります。

しかし肝心の怒られた娘はどうかというと、親の気持ちも知らず無邪気に満面の笑みを向けてくれます。

 

子どもが生まれた時は「笑顔で元気にいてくれさえいればそれだけでいい」と思っていたことが、いつの間にか「自分の言うことを聞く都合のいい子どもに育ってほしい」と考えるようになっていたようです。自分の都合ばかりを優先し、子どもに対して身勝手な感情をぶつけていたことに気付かされます。

 

以前、このブログ内でも取り上げましたが、お釈迦様は私達に「この世の中の全ては苦しみの中にある、自分の思い通りにならない」という意味である一切皆苦という教えをお残しになられました。

皆さんもこのコロナ禍で日常生活がガラリと変わり、自分の思い通りの生活が送れていないということが多々あるかと思います。

 

例えば、ちょっと近所へ外出する際もマスクをしなくてはならなかったり、親しい人と話すときにもソーシャルディスタンスを気にしたりと以前と比べ、大変過ごしづらい思いをされているかと思います。

 

俳優の小栗旬さんがこの自粛が続くコロナ禍に対してこのようなことを仰っていました。 

「今このコロナ禍で私達は大きく変われるチャンスがきている。」

「思うように上手く身動きが取れなくなって、この過ごしにくい世の中がどうしたら面白く(良く)なるのだろう。今私達には何が出来るのだろう。コロナ禍でつらいつらいと思うことも大切だけど、問題に対して一所懸命摸索すること、行動すること。今はそれが出来るチャンスの時でもあるのではないか」と述べていました。

 

本当にその通りだなと実感します。私達は今まで思い通りになっていることを「当たり前」と考え、逆に思い通りにならないことを「苦しみ」と考えていたからこそ、思い通りにならないことが起こると過ごしにくいと感じてしまうのではないでしょうか。

 

そう考えるのではなくお釈迦様が示しているように「一切皆苦、思い通りにならないことが当たり前」と考えてみればどうでしょうか。

「苦しいこと」を「当たり前のこと」と捉えることによって、苦しみに対して考え方や感じ方が少し変わるのではないでしょうか。

小栗さんが仰っていたように、思い通りにいかないことについて悩んだり、考えたりと試行錯誤するからこそ、その過程の中で人は成長し、問題が解決したときには大きな喜びを感じることが出来るのだと思います。

 

まだしばらくコロナ禍という苦しみは続くかとは思いますが、どうか気を落とさずこれも困難を乗り越えるために与えられたチャンスなのだと前向きに考えて、共に乗り越えていければと思います。一緒に頑張りましょう。

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