旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

ブッダとウサギと私

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みなさん、こんにちは。慧州です。気がつけばあっという間に12月を迎え、年末の慌ただしさを感じる季節になってきました。

 

先日街中で買い物していた時、駅前である声が聞こえてきました。

「O型の方の血液が足りていません!みなさまのご協力をお願いいたします!」

それは献血の呼びかけでした。O型の私はまるで自分に声かけられているような気持ちになっていました。O型は万能輸血として知られ、他の型にも利用できるため慢性的に足りないそうで、さらには新型コロナウイルスの影響で学校等の集団献血ができず、全く足りていないとのことでした。

実は生まれて30年以上、一度も献血をやったことがありません。血を抜くということへの単純な不安もありますが、それ以上に周りで献血をやっている人がおらず、一体どんなものなのか知らなかったからです。

その時は急ぎの用事があったので、その場をすぐ立ち去りました。しかし、いつもだったら素通りしていたであろうその声が、なぜか耳から離れませんでした。

どこか罪悪感を感じながら歩いていると、ふとこのコロナ禍で生きている自分とは何かを考えていました。いつもクヨクヨしてしまう私の悪い癖です。

 

今年の3月、イタリアでは教会の司祭の方々が大勢亡くなるニュースが日本でも流れました。患者の臨終に立ち会い、その結果コロナに感染してしまう。それでも祝福を与え続けた彼らの行動に私だけでなく多くの方が驚いたことだと思います。

彼らをそこまで突き動かしたもの、それはただ目の前の人の苦しみを救いたいという思いでした。

 

それは仏教でも同様です。釈尊の前世である『ジャータカ』には「捨身飼虎」というお話があります。お腹を空かせた親子の虎を見た前世の釈尊が、我が身を崖から投げ出し、虎に食わせたというこのお話。法隆寺に所蔵される「玉虫厨子」という工芸品にもその様子が描かれていることでも有名です。

 

私が初めてこのお話を知ったのは幼いころに読んだ手塚治虫の『ブッダ 』。冒頭のエピソードであるクマとキツネとウサギの三匹の動物が雪上で倒れている老人を助けるために食べ物を探すお話です。クマは川で魚を捕まえ、キツネは土の中から何かの実を持ってきました。しかし、ウサギだけは何も見つけられませんでした。

するとウサギは老人に火をつけるよう頼みました。なぜそんなことをするのだろうか、クマとキツネは不思議でした。すると突然ウサギは火の中に飛び込んだのです。

自らを焼けば老人に食べてもらえるからです。老人とクマ、キツネは嘆き悲しみながら、ウサギに祈りを捧げます。これが冒頭のエピソードです。

「見ず知らずの人にそこまでできるのか」

幼い私にとって衝撃的な始まりでした。

 

振り返って今の私はどうだろうか。全く変わっていないんじゃないだろうか。「自未得度先度他(自分よりもまずは他人を先に救いたい)」という誓いを出家した時にたてたのではないか。へこんでいる場合じゃないだろう。そんな声が頭の中を巡るのです。

 

そんなことを考えながら買い物を終え、再び駅前に戻った私は気がつけば献血会場へ足を運んでいました。迷いがかえって私の背中を押してくれるようでした。

今出来ないことばかりを考えてしまう私。でも出来ることは目の前にあるかもしれません。釈尊やウサギのようにこの身を投げ入れることはできないかもしれません。たかが献血じゃないかと笑われるかもしれません。

それでもあの日「献血に行こう」と思えた気持ちを、私は忘れないようにしたいと思います。