旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

発想の転換

こんにちは。拓光です。早いもので今年も残すところあとわずかとなってしまいました。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

 

先日、ふとテレビを見ているとニュースで児童虐待に関しての報道がされていました。内容は29年連続で児童虐待の件数が増加しているとのことでした。

私は大学時代に「児童虐待防止」をテーマに卒業論文を書いた経験があるのですが、児童虐待が発生する際にはいくつかの要因が存在し発生すると言われています。

その中には親の生育歴などの親自身の要因がありますが、他にも「子どもが言う事を聞いてくれない」などのいわゆる育てにくい気質があるなどの子ども自身の問題もあります。

 

私自身も娘と共に過ごす上で、娘に対してなぜこんなに厳しく叱っているのに、どうして言うことを聞いてくれない、なぜ気持ちを理解してもらえないのだろうと悪戦苦闘することが多々あります。

しかし肝心の怒られた娘はどうかというと、親の気持ちも知らず無邪気に満面の笑みを向けてくれます。

 

子どもが生まれた時は「笑顔で元気にいてくれさえいればそれだけでいい」と思っていたことが、いつの間にか「自分の言うことを聞く都合のいい子どもに育ってほしい」と考えるようになっていたようです。自分の都合ばかりを優先し、子どもに対して身勝手な感情をぶつけていたことに気付かされます。

 

以前、このブログ内でも取り上げましたが、お釈迦様は私達に「この世の中の全ては苦しみの中にある、自分の思い通りにならない」という意味である一切皆苦という教えをお残しになられました。

皆さんもこのコロナ禍で日常生活がガラリと変わり、自分の思い通りの生活が送れていないということが多々あるかと思います。

 

例えば、ちょっと近所へ外出する際もマスクをしなくてはならなかったり、親しい人と話すときにもソーシャルディスタンスを気にしたりと以前と比べ、大変過ごしづらい思いをされているかと思います。

 

俳優の小栗旬さんがこの自粛が続くコロナ禍に対してこのようなことを仰っていました。 

「今このコロナ禍で私達は大きく変われるチャンスがきている。」

「思うように上手く身動きが取れなくなって、この過ごしにくい世の中がどうしたら面白く(良く)なるのだろう。今私達には何が出来るのだろう。コロナ禍でつらいつらいと思うことも大切だけど、問題に対して一所懸命摸索すること、行動すること。今はそれが出来るチャンスの時でもあるのではないか」と述べていました。

 

本当にその通りだなと実感します。私達は今まで思い通りになっていることを「当たり前」と考え、逆に思い通りにならないことを「苦しみ」と考えていたからこそ、思い通りにならないことが起こると過ごしにくいと感じてしまうのではないでしょうか。

 

そう考えるのではなくお釈迦様が示しているように「一切皆苦、思い通りにならないことが当たり前」と考えてみればどうでしょうか。

「苦しいこと」を「当たり前のこと」と捉えることによって、苦しみに対して考え方や感じ方が少し変わるのではないでしょうか。

小栗さんが仰っていたように、思い通りにいかないことについて悩んだり、考えたりと試行錯誤するからこそ、その過程の中で人は成長し、問題が解決したときには大きな喜びを感じることが出来るのだと思います。

 

まだしばらくコロナ禍という苦しみは続くかとは思いますが、どうか気を落とさずこれも困難を乗り越えるために与えられたチャンスなのだと前向きに考えて、共に乗り越えていければと思います。一緒に頑張りましょう。

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紅葉狩り

 みなさんこんにちは尚真です。気が付けばもう12月、今年も残すところ1ヶ月を切りました。あとひと月も無いなんて、振り返って見ると今年はあっという間の1年だったと感じます。私だけでなく、多くの方がそのように感じている事でしょう。

 

 今年はやはり新型コロナウィルスの影響で、残念ながら毎年恒例の行事が数多く中止となってしまいましたね。お寺の年中行持もコロナ以降は中止、もしくは大幅に規模を縮小して執り行われる事がほとんどでした。やはり恒例行事が無いと、一年が過ぎるのが早く感じてしまいますね。

 

 12月に入り気温もだいぶ下がってきて、1日あたりの新型コロナウィルスの感染者数が最多だった等とよくニュースで耳にします。世間では様々な「Go To ○○」が盛り上がっていた矢先ですので、旅行や外食の計画の見直しを迫られている方もいらっしゃる事と思います。

 

 私も先週末は、本来ならちょっとした1泊旅行に行く予定でしたが、この状況を踏まえて早々に中止としました。コロナ禍では県境をまたぐような遠出はせずに、外食もなるべく控えるようにしておりましたので、久しぶりの遠出に家族一同楽しみにしておりましたが、こればかりは止むを得ません。 

 

 代わりに車で1時間程のところにある山に紅葉を見にがてらドライブに行ってきました。現地に着くと、天気が良かった事もあり駐車場周辺は多くの人が見受けられました。本来ならば車を止めて周囲を散策したり、記念写真を撮ったりしたい所ですが、人との接触を避けるため、車の中から眺めると言う何とも味気ない紅葉狩りとなってしまいました。

 

 折角来たのに車からも降りずに、ただ来た道を引き返してはあまりにつまらないので、帰り道は登ってきた道とは別の、山の反対側の車通りの少ないルートから降りることにしました。

 

 そちらのルートは山の北側を降りるルートで、日当たりが悪くいつ通っても薄暗い道です。また降りた先の交通の便が悪い為かそちらのルートを通る人は地元の人でもあまりいません。そんな道なので昼間でも少し不気味な感じすらします。

 

 しかし山道を下り出してすぐに、助手席の妻が行きのルートと帰りのルートでは紅葉具合が全く違うと言うのです。運転している私はじっくり見る訳にはいきませんので、安全そうなタイミングで見てみると、パッと見でも分かるくらい、確かにこちら側の方が綺麗に色付いているようです。

 

 不思議に思い家に帰ってから調べてみると、紅葉は気温が下がり日照時間が短くなると葉が色付いてくるとの事。なるほど山の北側の方が日当たりが悪くて薄暗い分、気温も低く日照時間も短いので、より紅葉が綺麗に色付いていたのでした。

 

 毎年私達の目を楽しませ、四季を代表する風景である紅葉ですが、実は寒さに耐えながら懸命に色付いているという事が分かりました。私は寒いのが苦手ですので、寒さに耐えるどころかすぐに背中を丸め、ポケットに手を入れて縮こまってしまいます。紅葉している木々を見習いたいところです。

 

 車から降りるのを我慢した分、みんなが見ている紅葉よりもより鮮やかに色付いているものを見る事が出来て、ちょっと得した気分になりました。冬も本格化し、コロナもますます厳しい時期となりますが、無事に新年を迎えらるように、健康には十分注意して寒さを乗り切りましょう。

而今に学ぶ。18

 こんにちは。俊哲です。

秋も深まり、冬の足音が身近に迫ってまいりました。記事の執筆中、世間では新型コロナの感染者も第3波と呼ばれる増加傾向にあります。そんな最中ですが、皆様はどんな日々を過ごされておりますでしょうか。

 

 

 今回は東南アジアの国、ラオスを旅した時のことを記そうと思います。私がラオスを訪れたことは2度あり、初めは日本人僧侶の友人と、2度目はラオス人僧侶の友人と旅をしました。


ラオスの首都はビエンチャンという町で、第2の都市はルアンパバーンという町です。

この第2の都市、ルアンパバーンユネスコ世界文化遺産に登録されております。メコン川とナムカン川の合流点にあるこの町は、かつてラーンサーン王国という国がありました。その時代の建物や文化と、またフランスの植民地時代のコロニアル文化が融合した町として世界遺産になりました。

 

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ルアンパバーンの街並み

 

この町で有名なのは、多くの僧侶達による托鉢です。まだ、朝日が昇る前、オレンジの袈裟を纏った僧侶達が列になり、通りを托鉢して町を歩きます。

 

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朝の托鉢風景

特に、ルアンパバーン旧市街には多くの僧院があり、明け方、寺院から鳴り響く太鼓の音を合図に僧侶達が姿を表します。通りの数も少ないため、大通りではいくつもの僧侶の隊列が合流し、長い列となります。

 

数年前、日本人僧侶と旅をした時には、通りに茣蓙を敷き、膝をついて食べ物を供養する人の姿を見て感動しました。

 

再訪した際は、大通りに近いところに泊まっていたこともあってか、観光客の姿も以前より多く見受けられました。その折、前回と全く違ったのは中国からの観光客の増加によって、托鉢のセットや場所を売る人達の姿がとても増えていたことです。

托鉢を観にくる観光客を乗せたバンが乗り入れないようにと車止めが置かれ、観光客には明け方暗いことから、僧侶に向けフラッシュを用いた写真撮影の禁止が訴えられます。また、寺院には、以前にはなかった寺院の参拝時の注意点や衣服に関する決まりを告示した看板が見受けられるようになりました。

 

時代の流れとはいえ、わずか数年で大きく変化した光景に驚きました。

 

托鉢が始まると、多くの観光客から食べ物等のお布施を受け、僧侶達は肩から下げた鉢に供物を入れ通り過ぎて行きます。

 

このルアンパバーンの僧院の特徴に、地方出身の子供の僧侶が多いことがあげられます。それは、僧侶となれば、こうして托鉢などにより僧院にて衣食住が保障され、また第2の都市ルアンパバーンには若い僧侶達のための無償の学校が多くあることから、教育を受けさせるため僧院に預けられる子供達が多いのです。

 

そんな若い僧侶達が、観光客で溢れたこの町で托鉢をすると、僧侶達の需要より観光客からのお布施が多く、供物が供給過多となり、持っている鉢がすぐいっぱいになってしまうということが起きていました。

 

托鉢をする僧侶達を見ていると、通りに置かれている籠や箱に、いただいた食事を掻き出している若い僧侶の姿がありました。その光景が、まるでゴミ箱に捨てているように見え、私は非常にショックを受けました。

お布施を受けるという修行のために、観光資源として消費されることに胸が痛みました。この町も変わってしまったなぁと思い、少し寂しく裏の通りに引き上げると、そこには痩せ細った子供や身体に不自由があると見受けられる老人達が路に座る姿がありました。しばらくすると、先ほど大通りを歩いていた僧侶達の列が通りかかり、僧侶達は自分の鉢からその子供や老人達にいただいた供物を分け与えて通り過ぎて行きました。

 

大通りに戻ると、そこに置かれた先ほど供物を掻き出した籠や箱を回収する人が現れました。聞けば彼らは僧院の関係者で、いただいた供物を貧しい家庭や労働ができない家庭に届けに行くとのことでした。

 

“もらい過ぎて捨てた”というのは誤解で、自分の必要以上には持ち帰らず、困っている人たちに分け与えるというということだったのです。

 

一度は、「これが世界遺産の町なのか」と失望しかかっておりました。しかしそれは私の思い違いで、実際は仏教の教えが生きている町なのだと知り、改めて感動する出来事でした。

 

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もらい過ぎた供物を分け与える僧侶達

社会の動きと共に慣習を維持してゆくことはとても難しく、取り巻く環境の変化によってルアンパバーンの托鉢のように少しずつ変化してゆかねばなりません。旅をして、見てきた景色が時間の経過と共に失われてゆくことは残念でありながらも、それこそが人の営みであり、それこそが仏教の説くところの諸行無常なのでもあります。

 

「時代の流れ」という言葉は便利ですが、自分の都合よく言い訳にして使うのではなく、時代の流れと共に私がどう生きて行くのかということを、立ち止まり、今一度考えてみる機会になりました。

 

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ルアンパバーンを流れるメコン川。この流れが、いつの時代も多くの人を潤している。

 

喫茶去

皆様こんにちは!光彬です!
朝晩の冷え込みが強くなって参りました。
いかがお過ごしでしょうか?
暖かいものがより一層美味しく感じる季節ですね♪

暖かいものは、身体に入ってくると
心まで満たされて、どこかじんわり
満足感、安心感などが湧いてきませんか?
寒い所から部屋に入り、暖かいお茶なんか出てきて
ズーっとすすると、ホットしますね*

仏教には『喫茶去(きっさこ)』という言葉があります。
簡単に言うと、お茶でもお召し上がりください
ということです。

以前うちのお寺に石材屋さんが来ました。
いつも色々なことをお願いしている、お互いに気の知れた間柄です。その石材屋さんは、少しお年を召した社長とその息子さん、そして何名かの職人社員さんで営んでいました。面倒事も二つ返事でOKしてくれる、とても頼れる石材屋さんです。
今回もお願い事がありお寺に来てもらって話をしていました。話を進めていると、社長さんと息子さんの意見が少し合わなかったようで言い争いが始まりました。
細かいことではありましたが、二人にとっては職人仕事をする上で大切なことです。
年が一回りも二回りも違う二人に、私はなかなか仲裁に入ることも出来ませんでした。そんな私をよそに祖母がお茶をもってやって来ました。私は、え?!今?!とすら思いましたが、祖母は「まぁお茶でも召し上がってから考えたら」と笑顔でお茶を勧めました。
祖母は亡くなった先代の妻で、私よりも深い仲だったので、それでなのか、二人は少しばつが悪そうながらも
湯呑みの中のお茶を飲みました。

少しすると、社長さんが、
これからのことに関わるし今から若いやつに託していかなきゃかな。と、折れたようでした。
すると息子さんも落ち着いた社長さんを見て自分も落ち着いたのか、お寺さんと話し合いながら上手く決めていこう。と、二人ともさき程の言い争いが嘘のように
穏やかなものになりました。

喫茶去は、中国唐代の趙州禅師という方のお話からきています。この方は、初めてそのお寺を訪ねてきた人にも、以前来たことがある人にも、どんな方にもまずは
お茶をひとつ召し上がってと勧めたそうです。
一見、お客にはお茶だしをするなんて当然でしょ?と
思うかも知れません。しかし、たとえ粗末なお椀であっても、高級なお菓子ひと欠片が無くても、
精一杯のもてなしと丁寧な心で淹れたお茶には
相手を安堵させ心を打ち解けさせ素直な姿を
現してくれる優しい力があります。

普段から仕事、仕事で飛び回っている石材屋さんを労う気持ちをもって出された一椀は二人の張り詰めた心の緊張を少し緩めたのでしょう。

コロナウイルス、政治問題、犯罪、環境問題、家庭問題、、、数えればキリがないほど、
私たちの心を掻き乱す話題が後を絶ちません。
時短や効率、損得勘定が第一に考えられホッと一息何かを考える時間もないくらい忙しない現代です。そんな私たちの緊張の糸を少し和らげてくれるものは何か。

私は祖母から教えてもらいました。

この記事を読んでくださった方がいましたら、
是非、簡単で結構です。
暖かいもの何か飲んで15分でも良いので
ゆっくりしていただけたらと願います*

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ボクシング

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グローブ


こんばんは禅信です。

 

 

食欲の秋、スポーツの秋、この季節は気温も気候も落ち着いていて

なにをするにも身体が良く動く季節だと思います。

 

 

昨年の今頃、私はボクシングを再開しました。

大学時代に下宿の近くにあったボクシングジムに通っていましたが

その時は1年ほどでやめてしまいました。

情けない限りです・・・

 

ボクシングの練習は自分にはとてもハードで、タイマーが鳴ると3分間必死に動きますが・・

 

 

サンドバックを叩きながらタイマーを確認するも、「2:00」

まだ1分しかたってない・・・

 

しばらく夢中で叩いてもう一度ちらりと確認すると「0:40」

あと40秒…

 

すでに息は上がり酸欠状態です、最後の15秒は心臓が口から飛び出そうになります。 

 

サンドバッグを3ラウンド必死に叩き、続けてミット打ちを2ラウンド

 

ミット打ちはサンドバッグと違いリングに上がって、トレーナーの持つ

ミットめがけて指示の通りにコンビネーションを打ち込みます。

 

ミットを追いかけ動き回るのでサンドバック以上に呼吸が荒くなります。

 

 

この二つのメニューを終えると、マラソン大会のゴール直後の

様な状態になりしばらく休まないと次のメニューに進めません。

 

 

そんな辛い練習なので。

ジムに向かう前には一度覚悟を決めて家を出ます。

ジムの扉を開けて「挨拶にスランプ無し!」

「よろしくお願いします」大きな声で挨拶をして。

練習に入ります。

 

 

日本国内でもプロで活躍する選手が沢山いますが、

そんなプロの選手はジムでの練習の他にロードワークもこなし。

ジムでの練習も私が行う何倍ものラウンド、質のトレーニングをして

試合に臨んでいます。

 

 

私が最も好きなボクサーに、フロイド・メイウェザーという選手がいます。

2017年に引退していますが、50戦無敗で5階級を制覇した

スーパーチャンピオンです。

ファイトマネーも破格で派手な暮らしぶりから

「MONEY」と評され悪役の様に扱われることもありました。

 

そんなメイウェザーは試合前のインタビューで数々の名言を残しています。

 

有名な言葉に、

「お前が遊んでいる時、俺は練習している。お前が寝ている時も、俺は練習している。

 お前が練習している時、もちろん俺も練習している。・・負けるはずがない。」

 

試合前日に会場のヤジに包まれた時に、

「俺は自分の技術を信じる、俺は自分の才能を信じる、もし誰も俺を信じなかったとしても自分で自分を信じる。」

 

といった言葉があります。

メイウェザーの発する言葉には常人には理解できないような物が沢山ありますが、

リングで勝ち続ける姿、強さには。

そんな嘘のような言葉を自分の心に信じさせて世界王者として試合に勝ち続ける。

とんでもない犠牲や練習が試合に勝つ姿の中に現れていると観て取ることができます。

 

 

自分の目標に向かって自分の心を律して努力する。

 

 

そんな彼の姿を思い出し、今日も練習を務めてきました。

世界で一番になる人たちの姿は日頃の練習はもちろんの事、

生活のすべてが競技に現れているので本当に感動を覚えます。

 

一年延期になったオリンピックも来年無事開催されることを願います。

 

スポーツの秋、身体を動かすにはとてもいい季節ですね^^

 

紅葉で我おもう

こんにちは、哲真です。

 

寒さが一層厳しくなってきました。皆様、体調を崩さないようにしてください。

 

11月は、文化の日勤労感謝の日など祝日があったり、アメリカ大統領選挙、またボジョレーヌーボーが解禁になる月でもあります。

 

そんな中境内を散策していると、紅葉が大分進んできていました。境内には扇型の葉が特徴のイチョウの木があります。それはかなり大きなイチョウの木です。大分黄色く色づいてきていました。

 

イチョウを調べてみると「生きた化石」と呼ばれているようでした。新生代の氷河期などで様々な種類のイチョウは衰退し、約170万年前には現在のイチョウ一種のみを残して他の種は絶滅したともいわれているからだそうです。そう考えるとかなり趣深いものがありますね。このイチョウ生きた化石なのかとしばらく触れておりました。

 

樹木は、枝葉を広げ種を落とし、その種が成長してまた種を落とす。ゆっくりでありますが、着実に広がっていくものです。少しずつを繰り返し繰り返し行うことはたやすいことではありません。多くの時間を必要とします。これは功徳を積むことと似ているかもしれません。

 

東日本大震災の復興計画で樹木を植えるということが盛んに行われました。樹木があった元の姿に戻す為であったり、津波到達地点の目印にしたりと目的は様々だったようです。樹木は人々の目標にもなり、励みにもなっているのかもしれません。

 

樹々は、目標や励みにもなりますが、災害時には倒木などにより人々に怪我を負わせることがあります。私も落ち葉が溜まっているところを歩いていたら、足を滑らせ転んで怪我をしてしまったこともあります。様々な側面を持っています。

 

紅葉で黄色に色づいたイチョウの木を見ながら、いろいろな事を感じさせられたと同時に、イチョウが色づいた後は落ち葉となるため掃き掃除が待っていることも思い出し、皆様の足元に影響がでないよう綺麗にしなければ!と目標も持たせていただきました。

 

やはり、自然は良いものです。皆様も時間がある時は自然に触れてみてくださいね。

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「この目で」感を大切に

みなさん、こんにちは。向月です。

ずいぶん秋も深まってきました。

秋といえば何を思い出しますか?

食欲、芸術、スポーツ、お月見などなど沢山ありますね。

最近のテレビやインターネットでは、満月の度に「○○ムーン」と名前が紹介されます。

 

ある満月に日、私は兄と2人で綺麗な月を見たいという話をしました。
夜になったら、望遠鏡をお寺の境内に引っ張り出しお月見をしよう
ということになりました。

しばらく使っていなかった望遠鏡は埃をかぶっていたので、

昼間のうちにキレイに掃除して夜を待ちます。

 

その日は所々に雲が出ているものの月はしっかりと出ており

綺麗な満月の夜となりました。

望遠鏡を満月に向けてセット。覗くとまん丸の満月です。

肉眼で見ると暗闇に浮かぶ「光の玉」ですが、望遠鏡でみると

くっきりとした月です。

クレーターもしっかり見えます。

私はこの満月を写真に残したいと思いました。

 

月の写真はプロが撮った綺麗なものがネットなどでも見ることができます。

それなのに、自分で撮って見たくなったのです。

本当にみんなの撮っている満月が、今私の見ている満月なのかを

この目で確かめたかったのです。

(普通に考えれば当たり前なのですが・・・)

 

しかし、私の手元には携帯のカメラしか撮影機材がありません。

携帯をそのまま満月に向けても「光の玉」がぼんやりと映るだけで、

私の撮りたい輪郭やクレーターがハッキリとした満月は撮ることができません。

そこで、望遠鏡の目を当てる部分に携帯のカメラをくっ付けて

撮ってみることにしました。

これが半分成功で、半分失敗の結果となりました。

携帯と望遠鏡がしっかり固定できないため、何回とってもブレてしまいます。

ブレずにとれたとしても満月には見えません。

綺麗な満月を撮りたくて2時間くらいアレコレと試したのですが

やはりうまくいきませんでした。

 

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(携帯電話のカメラでは、これが限界でした・・・。)

 

満月を綺麗に撮ることを諦め夜空を見上げたら、満月は西に傾き

少し雲に隠れ始めていました。

隠れ始めた満月を見たとき龍樹菩薩の「指月の譬」(『大智度論』)の

話を思い出しました。

これは、

 

「月をさす指を見るのではなく、月そのものを見なさい」

 

というものです。

仏様の教えを月に、教えを表現した経典や論書などの言葉を指に例えた話です。

大切なのは教え(真理)そのものであって、それをさす指(言葉)は

道具でしかないといえます。

 

写真を撮ることを諦めて夜空を見上げたとき、それまでは望遠鏡や

携帯のカメラばかり見ていた自分に気がつきました。

本当は、自分の「この目で」見上げた月こそが一番綺麗だということ

がわかったのです。

自分自身で体験したこと、自分の目で見たもの、そういうことから

得られる感情を大切にしていきたいと思いました。

 

 

また別の旅では「お肉は食べていいの??」と聞かれたのですが、その話はまたいずれ。