旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

自分との約束

こんにちは!光彬です!
各地で桜が開き始め、早い所では
満開を迎えているようですが、朝方はまだ冷えますね*
暖かい春が待ち遠しいです!

さて、もうすぐ新年度を迎えます。
まだ決まっていませんが
いつもこの時期に抱負を考えています。
昨年の抱負は"思い立ったらすぐ行動する!"でした。
何事もルーズな私は、早め早めに動かないと
間に合わないということが多々ありますから
それを目標にして頑張っていました。
(結局出来る時と出来ない時とがありましたが。。)

私は今、東京の修行道場で修行僧の指導をする立場に
ありますが、同時に地方の自分の見ているお寺(自坊)も
やっていかなくてはなりません。月のほとんどを
東京で過ごしているため、家のこと、自坊のことなどを
限られた時間のなかでこなしながらやっていかなくてはなりません。
はじめのうちは常に意識して
やらなくてはいけないこと、
やりたいことが浮かべばすぐに
動けましたが、慣れというのは怖いもので
一度やったことがあれば、
あぁ、前はこれくらい終わるのに掛かったから
もう少し余裕あるからちょっと後にしよう、とか
これだけ時間が取れれば間に合うから
大丈夫だ、とどんどん慢心が出て来てしまいました。

先日、東京のお寺に来てから一年が過ぎました。
色んなことを思い出してこの一年を振り返りました。

そんな中、道場の責任者である監院老師(かんにん)から
こんなお話がありました。
「修行というのは一時一時、今ここにしかない時間を
一生懸命生きて全うすることであって
それがそのまま仏の姿でなくてはならない、
私たちは様々な場面であらゆることを後回しにしたり
後日やればいいやと放ってしまったりしてしまうきらいが
あると思う。それこそ、やる気が起きるまで待つような状態である。けれど、時間は我々のことを待ってはくれない。いたずらに過ごすことなく励んで欲しい。」

このお話を耳にして、私は全て自分に言われていることではないかと、監院老師は自分のことをなにか見抜いてそんなお話をされたのではないかと、驚きと情けなさでいっぱいになりました。
これは禅語の「歳月不待人」という言葉からお話を取ったそうです。

今一度自分の生活を見直し、この限りある時間を
無駄にすることなくがんばろうと
新たに思えた日でした*
f:id:tabisuruzensou:20200326085021j:plain

コロナウイルスが益々広がりを見せておりますが
どうか皆様の身体健全・悪病終息を祈念しています。

サ道

f:id:tabisuruzensou:20200318134704j:plain

走り去る馬

こんにちは、禅信です。

法事を務め終え庭に目を移すと、早咲きの河津桜

明るい桜色が目に入り昼間の温かさと相まってほのぼの

と春を感じる季節になりました。

 

 

テレビをつけますと、新型ウイルスに対しての個人的な見解が

あふれかえっております。
私の住む県内には、まだ発症者が確認されていないそうですが。
と書いているところに、県内初めての感染者のニュースが入ってきました。
新型ウイルスのことばかりあまり騒いでほしくないものです。

 

 

令和も2年になりました、
正月休みにひとりYouTubeを観てるとオススメの欄に

「サウナ」に関する動画が出てきたので何気に見ていました。
人気の芸人さんが、サウナで汗を流し、水風呂で体を引き締め、

外気にあたって体温を戻す。

 


一連の流れの中にそれぞれの良さを伝えていて引き付けられる

内容の動画でした。

 

動画を観る前はスーパー銭湯に行ったときに

お風呂のついでに入る程度でした。

 

暑い暑いサウナに入り、人生の先輩方と汗をかき

5分10分我慢をしてから汗を流す。
お世辞にも気持ちいいものではありませんでした。


水風呂もあんなに冷たい水にいきなり入ったら心臓とまるな…

と敬遠してました。

 

 

一般の人が禅の修行や座禅に対するイメージと似たものがあります・・・

 


動画を観てからサウナについての本を買い、

サウナの入り方を改めて学びました。

 

・サウナに入る際は、満腹時や飲酒時、体調不良時は避ける。
なるほど、サウナに入ると血行が良くなりますから、

食後に入ると内蔵に負担がかかることや飲酒後や体調不良時は

脱水状態になりやすいから危険ですね。

 


・サウナに入る前には、身体を洗い汗を流す。

・汗を流した後には、タオルで身体中の水気をふき取ります。
これは、サウナ内に敷いてあるタオルマットが濡れるのを防ぐためです

 


この二つは、公衆の場を利用するときにはもちろん

自分以外の利用者に配慮しなくてはいけませんので特に大切なことです。

 


・いよいよ、サウナに入ります。
サウナは場所によって温度も違うので一概には言えませんが

10分から12分発汗を楽しみながら暑さに耐えます。

 

・サウナから上がって、水風呂に入ります。
はじめは冷たい水を恐れていましたが、身体をしっかり温めて

息を吐きながら水につかると何とか入る事が出来ました。
水に入りしばらくすると冷たさにも慣れてきます。

 

サウナに入って暑さに耐えているときも、水風呂に入って寒さに

耐えているときにも。このまま入り続けたら倒れて死んでしまいます

ので発汗したり肌を引き締めたりと体は交感神経を優位に働かせて命

を守ろうとします。


・水から上がって、外気にあたり水風呂で冷たくなった

体温を徐々に戻していきます。この時に初めて交感神経優位

な緊張状態から、副交感神経優位なリラックスした状態に入ります…

 

これを繰り返すことで「ととのう」漢字にすると「調のう」ですかね?
といった状態になります。

 

 

身も心も安定して、頭はすっきり感情は穏やかな状態になります。

お寺で行う座禅会の時にも同じことが言えますね。

参禅に向かうときには、節度を持った食事に努め、

体調と相談しながら行います。

 

お寺に行けば、10人20人の参禅の仲間と共に座禅を務めまので、
時間前に座禅堂に向かい坐り、もし遅れて参加する際には

 

先に坐っている人に配慮して足音や物音に注意を払います。

 


坐ってしまえば日々の忙しさから離れ、「調身・調息・調心」の教えの様に身を調え、呼吸を調え、心を穏やかに整える事が出来ます。

 

何かと交感神経優位になりがちな日常ですが、「調う」じかんを作って。
体調万全に生活を修行したいものです。

3.11

皆さん、こんにちは。哲真です。

 

今日は、東日本大震災の発生から9年となります。

被害に遭われた地域だけでなく様々な場所で、追悼式や法要が行われる予定でしたが、新型コロナウイルスの影響で多くが中止となりました。

 

東日本大震災が発生した当時、私は長野県に住んでおりました。実家は東北でしたので、発生当時実家に連絡しても全く繋がらず大変心配した記憶が残っています。

 

そんな私が、縁があり現在は宮城県に住んでおります。

海沿いの地域は甚大な被害を受けました。あれから9年が経ち復興も進んでいますが、道路などの工事はまだまだという感じです。それにまだ行方不明者も多くいます。

私がここにいる意味、そしてこの縁とは何なのか考えさせられます。

 

先日、安居時代の仲間が私の元を訪れてくれました。せっかくなので、南三陸を案内させていただいた際、

「復興が進んでほとんど終わっているのかと思っていたけど、まだまだこれからなんだね。」

とおっしゃっておりました。

 

東日本大震災の発生以後、毎年3月11日に法要を行っていた寺院も今回は新型コロナウイルスの影響で中止、もしくは規模を小さくしたところが多いそうです。そんな中でも決して風化させてはならないもので、同じような地震津波の被害にあわない為に、語りつなげていかなければなりません。

 

新型コロナウイルスは、マスク不足、トイレットペーパーやティッシュまでなくなる事態となりました。それらが店先に並ぶと我先にと買い求める客。本当に必要としている方に行き渡らないという事態。

その一方でマスクを無料配布している方もいたようです。人と人とのつながり、助け合いが大事なのだと気づかされます。

できるだけ早く、事態が収束することを願います。皆様方もくれぐれも.ご注意、ご自愛くださいますようにお願いいたします。

 

こんな時だからこそ、皆様ができることをしていきましょう。手を合わせていただくだけでも供養になります。

 

東日本大震災の発生から9年。ご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

合掌

気づかせてくれる師匠の存在

みなさん、こんにちは。向月です。

1月は「行く」、2月は「逃げる」、3月は「去る」と言われますが、

早いもので今年も3月になってしまいました。

私は昨年末から2月半ばごろまで仕事や引越しなどでバタバタとしておりました。

本当に2月は「逃げる」ように終わってしまいました。

 

最近の私は毎日前日の夜に次の日のスケジュールを決めて動いています。

何時に起きて、何時から何時までに洗面を済ませ、何時までに準備して家を出るという具合に細かく予定を決めています。

その予定が思わぬ急用が入ってしまい、やりたかったことの半分もできない日が続くとイライラとしてしまうことがあります。

 

ある時は「今日は、引越しのために一日片付けをしよう!」と決めていたのに、急に予定が入ってしまい外出しなければいけなくなったり。

またある時は、待ち合わせ場所に予定時間になっても相手が日にちを間違えていて来なかったり。

そんな時は「この時間があれば他のことができたのに!!」や「時間を返してくれ~」と思ってしまいます。

だれにでもよくある事なのですが、心に余裕がなくなってしまうと途端に周りが見えなくなってしまいます。

 

こんな日が続いた時、師匠から手1通の手紙が届きました。

手紙といっても、封筒の中には1冊のパンフレットが入っているだけのものでした。

お寺の坐禅会でお配りする、初心者向けの『坐禅のいろは』というものです。

そのパンフレット以外は何も入っていません。

しかし、このパンフレットを見た途端、ハッと思いました。

大きな声で怒鳴られた感じがしました。

ここ最近、時間に追われていて自分を見失い他人のせいにしていたと。

周囲に合わせたり、他人と比較したり、そんなことばかりしていたと気づかされました。

 

f:id:tabisuruzensou:20200116183933j:plain

 

この『坐禅のいろは』というパンフレットは、初めて坐禅をする方にお配りしているものです。お作法や坐禅中の姿勢、呼吸などが絵付きで紹介してあります。

初心者向けのパンフレットです。

師匠はこのパンフレット1冊だけ送ってきて、私に何かを気づかせようとしたのです。

 

周囲に振り回されて、自分を見失っている私に「この愚か者が!!修行が足りん!!坐禅の心を思い出せ!!」と言われているようでした。

口には出さず、言葉でも書かず、パンフレット1冊で気づかせる師匠の力(テクニック?)に感動してしまいました。

まだまだ、師匠を超えることなんてできないんだと思い知らされた出来事でした。

 

珍しく温かかった2月も終わり、なお温かい3月です。今年は足早に春が訪れそうですね。

穏やかな心で生きていきたいと思います。

  

さて別の旅では「2択で迷ったときどうするか」についてある方と話したのですが、その話はまた今度。

消える風景、気づく今

f:id:tabisuruzensou:20200226094600j:plain

 

みなさん、こんにちは。慧州です。先日、少し悲しい別れがありました。地元を歩いていた時、近所の商店街にあるスーパーがなんと閉店していたのです。外には在庫処分しきれなかった大量の段ボール箱が積まれていて、スーパーの扉は少しだけ半開きでした。中を少しだけ覗いて見ると、すでに陳列棚には何もなく、ガランとしていました。

 

何の前触れもない閉店でしたのでとても驚きました。ただ、よくよく考えてみれば最近は新しい大型スーパーが近くで開店した影響で価格競争が激しくなっていましたし、私自身もスーパーに行かなくてもよい買い物はネット通販で済ませることが多くなっていました。さまざまな事情が重なっての閉店だったのかもしれません。

 

40年以上ずっと続いていたそのスーパーは、この町で住民の生活を支えてくれました。私もよく子供の頃は親と一緒に買い物にきました。レジ前にあるお菓子売り場で好きなお菓子を勝手に取ってきて、親にねだった思い出が懐かしく感じます。そんな当たり前の風景がこうも簡単になくなってしまうなんて、もっとスーパーを利用していれば良かったと少し後悔もしています。

 

諸行無常(しょぎょうむじょう)」という仏教の教えがあります。「全ての存在は常に変わりうるもの」と説かれたこの教えは、頭では分かっていても実感しづらいものだと思います。近所の風景であっても、過去の栄光であっても、大切な人であっても、いずれは目の前から消えてしまう。そして、自分自身ですら、いずれは変わって消えてしまうことを私たちは忘れがちなのかもしれません。

 

仏教を説いた釈尊はこんな言葉を残されています。

 

 過去を追うな。未来を願うな。過去はすでに捨てられ、未来はいまだ来ていない。

 ただ、今おこっている事象をその時その時に観察し、ゆらぐことなく、動ずること 

 なく、よく見つめて、それを修すべきである。今日なすべきことのみを熱心になせ。

 死は明日にも来るかもしれないのに、誰もこれを知る者はいない (『中部経典』)

 

いつどうなるかなんて誰もわからない。だからこそ今を生きなさいと説かれたこの教えは、とても大事な言葉だと思います。今なすべきことは人それぞれで、これだというものはなかなかわからないでしょう。私自身もスーパーひとつなくなるだけで動揺をしているように、不安の中に生きていると思います。

 

だからこそ、忙しなく不安な毎日だからこそ、時には立ち止まって目の前のことに気づき、時間をかけて受け入れることが必要なのでしょう。当たり前と思っている存在は当たり前ではないと気づいて生きること。そして、今を生きているこの自分を含めた全ての存在が「有り難い」存在と感謝することが私が今なすべきことだと改めて思います。

形と心

こんにちは。拓光です。立春とは一年で一番寒い時期とは言いますが、今年は一度も車の窓ガラスが氷ることなく日々暖冬を感じています。

 

先日、法事に行った時のことです。一人で法事の準備をしていると小学校低学年生くらいの女の子が突然私の後ろに現れポツンと立っていました。

私が挨拶をすると、ニコニコとした顔でこんなことを聞かれました。

 

「ねぇねぇお坊さん、お焼香っていうのは何回したらいいの?何回するのが正解なの?」

 

私は小さい子どもの突然の質問に思わず固まってしまいました。

もし皆さんが小学生の子どもにこのようなことを聞かれたらなんとお答えしますか。

 

 

皆さんも法事や葬儀などに参列したとき一度は行った経験があるかと思いますが、お焼香とは仏前において炭の入った香炉に抹香を供えることをいいます。

またお焼香を供えることを供香(ぐこう)ともいいます。

 

焼香は何回するかによって行為そのものの意味が変わると私は師匠より教わりました。諸説あるとは思いますが、私は師匠に教わったことを簡単にその女の子にも教えました。

 

1回行う作法:故人が迷うことなく一途に成仏してほしいという気持ちを込めます。

 

2回行う作法:1回目(主香)に故人を思う気持ちを込めます。2回目はその気持ち(主香)が消えないようにという意味で香を供えます。

 

3回行う作法:仏法僧を大切にするという意味があり、仏とはお釈迦様、故人様である仏を指します。法とは仏法、つまり仏の教えのことをいいます。僧とは僧侶という意味ではなく仏法を求める全ての人のことをいいます。ご先祖様や、恩恵を受けた生命・人々に対する感謝の気持ちを込めて供香します。

 

 

中には気持ちさえこもっていれば何回お焼香をしても同じなのではと思われる方もいらっしゃるかと思います。

私も以前、檀家さんより「大切なのは形より心でしょう、お坊さん。たとえ作法(形)が立派であってもそこにしっかりと故人を思う気持ち(心)がなければ意味がないでしょう」と言われた経験があります。

 

確かにその通りかもしれません。お釈迦様も生前は形である作法等よりも、心に重きを置き私達の心の在り方について多くを説いています。しかしそれは心がしっかり整っていれば形はどうでもよいと言っているわけではありません。

 

極端な例えになってしまいますが、僧侶が法事をするときのことで考えてみたいと思います。もし法事をする際に僧侶が供養をする気持ち(心)があるからといってジャージ姿(形)で勤められたら皆さんはどのように感じるでしょうか。 例え僧侶が真剣にお経を読んでいたとしても、それはおかしいと疑問に思うのではないでしょうか。

 

私達は人の心をどのようにして見る・知ることが出来るでしょうか。それは形である姿を通して知ることが多いのではないかと思います。形というものは私達が目に見えない心を表すものです。そして形を通して見えない心が伝えられていくのです。

仏教には身心一如という言葉があります。

身心一如とは、曹洞宗の教えを伝えられた道元禅師様が説いた言葉で、心と身体は一つであるということを意味する禅語です。

供養、お焼香をすることで言えば心と身体、つまり心と形の両方が整って初めて真の供養が出来るのではないでしょうか。

 

私達は形がないものに対してもしっかりと心を込める必要があります。またそれと同時に自分の気持ちを他者に理解してもらうために、言葉や態度などの形として表し伝えていかなければなりません。 

この心と形の両方を調えることの大切さを再認識して日々の生活に取り入れていただければ幸いです。

 

f:id:tabisuruzensou:20200219163111j:plain

 

隣人、中国について

 皆さんこんにちは尚真です。今年は暖冬と言う事もあってもうすぐそこまで春が来ているような暖かい日が続いています。例年ですとインフルエンザが流行っているなんてニュースが世を騒がす時期ですが、今年はインフルエンザの発生が例年に比べて少ないそうです。その理由として挙げられるのは、中国を始め各国で猛威を振るう新型コロナウイルスの予防対策のお陰だそうです。

 

 新型肺炎であるコロナウイルスは、発生源となった中国を中心に、感染者数は4万人を超え、死亡者数は千人以上となっています。犠牲になった方々のご冥福をお祈りすると共に、早期の感染者の方の回復と混乱の収束を祈るばかりです。

 

 コロナウイルスの発症が確認された当初は対岸の火事の様な報道のされ方でしたが、感染が拡大するにつれて日増しにTVやネットで多くの報道がされています。報道が過熱するのに合わせてマスクや消毒液のまとめ買いなども起こり、私たちの生活にも大きな影響を及ぼしています。 

 

 そんな大変な事になっている中国ですが、私の妻は数年前まで中国の上海に住んでいました。三年間暮らしていたので、現地には日本人・中国人問わず多くの友人がいるとの事です。SNSの発展している現代では、遠く離れても近況を知ることが出来、現地の最新の情報も友人を通して知ることが出来ています。

 

 つい先日、妻が上海の友人のSNSの投稿を見せてくれました。感染源とされる武漢から遠く離れた上海でも外出禁止令が出ていて、街は誰一人として歩いていません。私も上海に行きましたが、普段の上海の人の多さと言ったら東京とは比べ物にならない程です。そもそも中国の人口は日本の約10倍ですから基本的に人が多いのですが、大都市で誰一人外を歩いていない状況は、日本ではなかなか有り得ない事では無いでしょうか。

 

 中国人に対して、日本に来て爆買いしたり、観光地へ大挙してやってきて迷惑を掛けたりするといった、普段報道で目にするようなネガティブなイメージを持つ方もいるかと思います。しかし今回の新型肺炎による中国人観光客の減少の影響で、日本国内でも、売り上げが大幅に減少した百貨店や、客足が遠のいてしまった観光地の商店や宿泊施設が存在しているのも事実です。

 

 我々の住む日本は島国、対する中国は大陸の国ですからやはり考え方などが異なり相容れない部分も当然あると思います。私たちが守り伝えていく仏様の教えも中国経由で日本に伝わっていますし、中国は歴史的にも、現代においてもやはり密接な関係のある大切な隣国です。

 

 私たちがお檀家さんのご法事や施食会などのご先祖供養の際にお唱えする「修証義」というお経の中に「同事」と言う言葉が出てきます。これは私たちが、皆さんをお救いする菩薩となるためにするべき、4つの行いの一つとされています。「同事」とは自分もそれ以外の人も、同じように分け隔て無く考えるという事だと私は捉えています。

 

 その為には相手の事を正しく理解、認識することが必要だと思います。妻が言うには、中国人は良く言えば面倒見が良く、おせっかいな人が多いそうです。若者はお年寄りや子どもにとても親切で、地下鉄などでも必ず席を譲ったりするそうです。また困っている人には周囲の人みんなで声をかけて助けてくれるそうです。

 

 また意外な事に、日本より中国の方がスマホの普及率は高く、都市部に限っては90%以上のスマホ普及率で、キャッシュレス決済もほとんどのお店で対応しているそうです。そのような意外な一面も中国にはあるようです。相手の事を知れば知るほど親近感が湧いてくると言うのは、普段の生活の中でもある事だと思います。先入観や固定概念に囚われずに、共に寄り添っていければ良いと思います。

 

f:id:tabisuruzensou:20200212231939j:plain

上海の静安寺(ジンアンスー)は三国志孫権の命で建てられました