こんにちは。俊哲です。
前回の旅する禅僧での私の投稿『而今に学ぶ。12』では、アルゼンチンを旅した時のことを記しました。その際にも出てきた日系2世のご兄弟がおります。
今回はそのお兄さんについて記したく思います。
ご兄弟とは私のいる寺が、彼らのお父様の実家の菩提寺だったという縁で出会いました。
初めてそのお兄さんにお会いしたのは私が当時大学生の時で、日本にある実家のご主人(ご兄弟からみて叔父にあたる方)が亡くなられ、その年の8月に初盆を迎えられた棚経参り(精霊棚の前でのご供養)に伺った際です。
さっきアルゼンチンから着きまして…と紹介を受けたことを記憶しています。その際は遠いところから…という話をしたぐらいでした。
大学を卒業し、ご本山での修行を終えた時、南米へと行く機会がありました。その際に、日本にいる親戚の方より「せっかく向こうへ行くなら、ぜひ親戚のところを訪ねてください」と話をいただきました。
南米は英語がなかなか通じない地域として旅人たちの中では言われています。また、初めての南米大陸行きに際し事前情報で治安への不安もあったので、お言葉に甘えお世話になることとなりました。
チリのサンティアゴよりバスでアンデスを超え、陸路でアルゼンチンへの入国を果たし、メンドーサという街で一泊しブエノスアイレスを目指しました。当時は今ほど携帯電話のネット回線も安定しておらず、宿の不安定なWi-Fiを使ってメールを送りました。しかしそれ自体がちゃんと届いたのかも確認できず、この時ブエノスアイレスで私の到着を待つお兄さんには大変に迷惑をかけました。
ブエノスアイレスのバスターミナルに着き、辺りをウロウロしているとお兄さんに見つけてもらいました。迷惑をかけたことを彼に詫びると「なーに、気にしないで。今日メンドーサから来るって分かってるんだから楽なもんですよ。昔日本の親戚が来た時はペルーから来るはずが、電報が届かずなかなか出会えませんでしたから」と笑っておりました。
弟さんのご自宅で法事を行い、集まった皆さんと食事をご馳走になりながらお話をし、歴史や宗教、経済の話を聞かせてもらいました。アルゼンチンに暮らすということや、日系人から見た日本の話もしてくれました。そのほとんどを面白おかしく、冗談を飛ばし笑いあいながら。
別れ際、お兄さんから遠くアルゼンチンの地へ自分のルーツの菩提寺から僧侶が来て、両親の供養をしてくれたことへの感動と感謝を告げられました。
また会いましょう。
その後、日本でも何度か会うことができ、私のいる寺に来られ共に坐禅をしたこともありました。
そして昨年末、再びアルゼンチンへ伺いお会いしたのですが、そのアルゼンチン再訪にも理由がありました。昨年初旬、彼に癌が見つかり治療を頑張られていて、顔を見て励ましてこなくてはと思いたったためです。日程を調整して再訪、再会を果たしました。
闘病中にもかかわらず、その日は時間が過ぎるのを忘れ集まった皆で笑い、語らい会いました。
「明日からまた治療ですけどね。医者でしたから一番自分の体はよくわかってます。頑張りますよ。また日本に行きたいですから。」そう話してから互いに強く握手をし、抱擁を交わして別れました。
「また会いましょう」
彼と交わした最後の会話となってしまいました。
日本にいる親戚の方から訃報が届き、寂しさでいっぱいの中、今この原稿と向かっています。
アメリカの元バスケットボール選手、コービー・ブライアント氏が突然の事故でこの世を去りました。いつ何時、私たちの周りの人と別れを迎えるかわからないと、各方面で追悼のコメントが発表されております。
病であれ、事故であれ、別れは突然にやってくるものです。
世界がグローバルになっても、南米にいる友人たちとの再会はやはり容易ではありません。こうして訃報を聞いて言葉の重さと、人生はまさに一期一会なんだと痛感させられております。
彼も多分あの時は、これが最後の別れになるかもしれないという思いで、私の手を握ってくれたのかもしれません。
今、お亡くなりになられ、もうお姿を見ることも、話しかけて返ってくる言葉もありません。縁が深くなり、お互いによく知った仲になると、この別れの辛さは言葉にならないものです。ですが”出会うこと”に臆病になるのではなく、出会えたことや、記憶にとどめる思い出があることに、今はただただ感謝をしております。
折々に触れ思い出すであろう彼の笑い声。草葉の影から見られていて、恥ずかしくない生き方をしようと静かに誓いました。