旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

土方歳三の墓前で思うこと

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皆さん、こんにちは。向月です。

最近、健康に気を付けなければと思い、腕時計型の万歩計を購入しました。

歩数だけでなく、脈拍やストレスなんかも計ってくれます。初夏の早朝、散歩がてらウォーキングするのが楽しくなってきました。

 

 

さて、今年は幕末の志士、鬼の副長として有名な土方歳三が亡くなって丁度150年目です。

新撰組の小説が好きな私は、東京都日野市にある土方歳三のお墓参りに行ってきました。

多摩都市モノレール万願寺駅近くの石田寺にお墓があります。(菩提寺高幡不動

近くには、土方歳三資料館もあります。この辺りは土方さんが多いようです。万願寺駅から石田寺に向かう途中、ほとんどのお宅の表札が「土方」となっていました。

 

 

土方歳三武蔵国(現在の東京都日野市)に産まれ、新宿区市谷にあった試衛館道場で近藤周助(近藤勇の養父)に師事。後に京都で新撰組の副長となる。

1869年、函館戦争で最期をむかえます。

 

幕末の歴史小説を読んでいると、主人公が佐幕側(幕府側)か倒幕側(新政府側)かによって捉え方が大きく変わっていきます。

燃えよ剣』(司馬遼太郎著)は土方歳三が主人公であり、新撰組と幕府側の正義が書かれています。

一方、『世に棲む日日』は吉田松陰高杉晋作という倒幕側の正義が書かれています。

しかし、どちらも共通することは、日本の行く末を真剣に考えた上での正義ということです。

正義の反対は、もう一つの正義ということですね。

 

 

私たちは「善」と「悪」、「良い」と「悪い」、「正解」と「不正解」など2つに分けて考えがちです。しかし、よくよく見ると実は両者ともに同じ事を言っているのに、極端に考えてしまいどちらかに偏っているだけだと気づきます。

生活の中では、大小様々な対立(偏り)があると思います。一度、立ち止まり相手の話に耳を傾けてみてください。問題解決の道が見えてくるかもしれません。

 

 

また別の旅では「成功と失敗について」考えさせられたのですが、その話はまた今度。

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土方歳三の戒名:歳進院殿誠山義豊大居士)

 

 

最期に見た景色

 こんにちは、慧州です。初夏となり、気持ちの良い日がやってくると思いきや、暑くじめじめした日が続いています。みなさんは体調いかがでしょうか?今日は「死」について感じたことを書きたいと思います。

 

 

 先日、私はあるドキュメンタリー番組を観ました。それは「安楽死」についての番組でした。日本では安楽死は法律上認められておりませんが、海外の一部の国では認められており、近年安楽死を選択するために海外に赴く日本人が増えているそうです。

 

 番組では難病におかされて身動きが出来なくなる前に自ら安楽死を積極的に選択した方と、それを複雑な思いで見守る親族の姿が映し出されていました。自身の尊厳や介護する家族への負担を考え、むしろ前向きに安楽死を望む姿に衝撃を受けました。

 

 患者には自分らしく生きたい、最後まで自分の口から「ありがとう」と言いたい、痛みから解放されたい、様々な思いがあります。一方、家族はどんな姿であっても生きて欲しいと願います。どちらも間違った考えではありません。そこには生死の葛藤がありました。

 

 

 少し話が変わりますが、私はかつて馬の世話をしていたことがあります。ある日、不慮の事故により担当していた馬が転倒した際に開放骨折してしまいました。馬は骨折をしてしまうと基本的には安楽死させます。それは立てなくなることで体がすれ、壊死することで苦しんでしまうからです。 

 倒れた馬は痛みからか、涙を浮かべながら激しく呼吸をしていました。

「本当にこれでいいのだろうか」

当時、私は葛藤しました。痛みをなくすための安楽死ではあるものの、馬自身は本当に望んでいたのか分からないからです。未だにあの光景は目に焼き付いて離れません。

 

 

 話は戻り、番組終盤に対照的なシーンがありました。

 安楽死を選択した方は安楽死をする場所に向かう車の中、外の景色をぼんやりとながめていました。その表情は死を恐れるというよりも、どこか穏やかにも見えました。

 安楽死を選ばなかった方もいらっしゃいました。延命措置を受けながら生き続けることを決めた方は、一時帰宅した時に地元の桜を見て、言葉なく泣いていました。それは生きてまた桜を見られた嬉しさと同時に、どこか憂いを帯びた涙にも見えました。そこには想像を超えた感情が垣間見えたような気がします。

  

 

 曹洞宗の教えを日本に伝えた道元禅師(12001253)は亡くなる直前、こんな和歌を残されています。

  

「また見んと思ひしときの秋だにも 今夜の月にねられやはする」『道元禅師和歌集』

(私訳:また見られると思っていた月でさえ美しい。まして今夜の月を見ずに寝ていることができようか、いやできない)

  

 療養のため、故郷である京都に帰ってきた道元禅師が、中秋の名月を見た時の歌です。亡くなる直前、再び見られた見事な月。それは今まで見た中でも一番綺麗で、尊く感じられた月だったから、この歌をよんだのでしょう。私には、道元禅師もどこか感傷的になっているようにも思えました。

 

 私は今まで、僧侶でありながら人の死ばかりを考えていました。しかし、「安楽死」を通して強烈に感じたのは、結局は「自分の生と死」でした。もし自分が難病にかかったらどうするか?自分の生き方、死に方とは何か?それを決められるのは自分自身であり、そこに客観的な正しさを求めることは難しいでしょう。自分が納得するまで悩み続ける、そこにはゴールがないのだと思います。

 

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登る禅僧その4 ~きのこ山での経験~

 こんにちは尚真です。まだ五月だというのに、関東地方でも最高気温30度を超える日が続いております。急な気温の変化に、私も先日体調を崩してしまいました。皆様もお体にはお気を付け下さい。

 

 さて令和になって数ヶ月が過ぎ、すっかり令和時代にも慣れてきた今日この頃かと思います。今回は令和になって初めての記事ですので、気持ちを新たに綴っていきたいと思います。

 

 今回の登る禅僧は先頃、友人たちと山登りをした時のお話です。今まではいつも妻と二人での山登りでしたが、友人夫妻と連れ立って初めてグループで山登りをして来ました。私にとっては初めての山仲間が出来ました。

 

 友人夫妻は、まだ小さな子供たちに自然と触れ合う機会を作りたいと言う事で、二人の子供たちを連れての山登りです。ちびっ子ちゃん達にも挑戦できそうな標高の低い山を選んで登ってきました。その名もキノコ山。子供たちも喜びそうな可愛らしい名前のお山です。

 

 普段の山登りとは異なり、標高も低く平坦で登りやすい山道でした。ですので登る事よりもむしろ、友人達との会話を楽しむ山登りとなりました。子供たちにとっては初めての山登りでしたので、初めて見る植物や生き物を見つけては「これ何~?」「あれ何~?」と初めての経験にとても楽しんでいるようでした。

 

 子供たちにとっても初めての山登り、友人夫妻にとっても初めての子供連れでの山登りと言う事で、初体験づくしの彼らにはとても疲れた一日だったと思います。しかし山登りを十分に満喫できた様で、良い経験になったと思います。こちらも無邪気な子供達の笑顔にとても癒された一日となりました。

 

 友人夫妻のように、子供達に色々な経験をさせてあげたいと多くの親御さんは思っている事でしょう。親御さんは子供達と同じ時間を共有し、色々な経験をさせて、そこから色々なことを彼らに伝えて行くのでしょう。

 

 それは親子の関係だけでなく、例えば職場での仕事上の関係や、学校での友人関係でも同じことが言えると思います。やはり色々なことを人に教えたり、伝えたりするには、自分の経験に照らし合わせた方が伝わりやすいと言う事は、皆さんもご自身でもまさに経験し、感じている事だと思います。

 

 私達の禅宗の教えの中にも「不立文字」と言う言葉があります。これは「教えの真理は文字にして伝えることが出来ない」、つまり文字に頼らず、実体験の中から真理を見出しなさいという言葉です。きのこ山での山登りは、自ら実践する事の大切さを、可愛い小さな登山家さん達に改めて教えられる良い経験となりました。

 

而今に学ぶ。8

 こんにちは。俊哲です。新しい元号「令和」の時代となってから私が投稿するのはこれが初めてです。新時代となって私の身の回りで起こったことを今回記したく思います。

 

 私の祖母が平成最後の3月に他界をし、元号が変わった5月の連休中に49日の大練忌を執り行いました。祖母は先代住職の妻として寺を支え、突然の事故で連れ合いの先代を亡くしてからは寺を離れ、娘の家で余生を過ごしておりました。寺を離れてから20年程が経っておりましたが、霊前には連日お参りに来てくれる方がおりました。それと同時に私たちは施主家として葬儀の段取りや小練忌、大練忌の準備に追われ、慌ただしく毎日を過ごし、法要の日を迎えました。日々の慌ただしさもありましたから、法要が始まり近隣の和尚様たちの読経の声を聞いて安心し、法要後には少し気が抜けるような気が致しました。

 祖母が他界してこの法要を迎えるまで、忙しく過ごし、泣いている・落ち込んでいる時間が無かったように思います。

 

 さて、つい先日のことですが突然の訃報が届きました。私とご本山での修行時代の同期で、仲の良かった友人のお師匠さんが亡くなられたというものでした。私の友人は在家出身で、お寺の娘さんと結婚する縁があって僧侶となりました。右も左も分からぬままこの世界に入り、多くの苦難を乗り越えての出家となり、その友人を師匠として、義理の父として支え指導された方でした。私もご本山での修行時代、そしてご本山を離れてからも個人的にお世話になっており、仏法に厳しく、それでも周りの者には分け隔てなく温和な方でした。どこでお会いしても気さくに声をかけて下さり、とりとめもない話しをしたことなど思い出も深く、訃報が届いてからはいてもたってもおられず、お参りに行くことにしました。

 

片道4時間の道中、様々なことを思い出し、考えながら車を運転しておりました。元気な頃の姿しか知らない私には現実として理解できず、また弟子である友人やご家族の皆さんがひどく落ち込んではいないかと心配になりながら、気持ちだけが焦っておりました。途中、別の友人と合流し、友人もまた同じようなことを心配しておりました。

 

お寺に着き、本堂の東側に作られた祭壇に手を合わせ、経を詠ませていただき、本当に亡くなられたのだと世の儚さが胸をつきました。

 

祭壇近くでご家族の方、弟子である友人と話しをしていると、想像していたよりも淡々とされており、悲しみに暮れている様子はあまり感じませんでした。

 

ご家族の方が席を外され、弟子であり婿養子である友人だけとなった時、

「奥さんが心配だったんだ。お父さん大好きだったから。でも一番淡々としてる。来月に本葬儀はあるし、すぐお盆もやってくる。忙しくて落ち込んでる暇もないし、ちゃんと送り出さなきゃって気持ちしかないよ」と話しをしてくれました。

 

 私は、昔カンボジアを旅した時のことを思い出しました。

カンボジアの僧侶と、人が亡くなってからの仏教祭事はどのようになっているのかという意見交換をした際、同じく七日ごとに経をあげたり、100日目まで忙しく過ごすことなど似たような慣習があるということを知りました。その他、仏教圏では似たような慣習が日本も含めあるわけですが、そのカンボジア僧が最後に教えてくれたことは「人が亡くなって悲しいでしょ。涙が流れ、悲しいのは自然なこと。だけど、その悲しさに振り回され、余計に悲しむことは苦なんだ。100日目までとにかく忙しいのは、後を追って死のうと思ったり、余計な悲しさに苦しまないためでもあるんだよ」というものでした。

 

 私が祖母を亡くしてから過ごした幾日かの経験とカンボジア僧にそのように教えてもらったことを重ねながら友人に話しをすると、「本当にそのようだ。いい言葉だね。」と一言呟き、祭壇に向かい合掌し一礼を供えました。

 

 

 生きているものは必ず別れの時がやってきます。どんなに大事にしていた財産も、友人も、愛した家族も、さらにはこの肉体すらも死ぬ時には置いていかねばなりません。

 

行持を営むことは、別れを惜しむというだけの決して一方向のものではなく、実際は思いが届く範囲内では収まらない意義を伴うことを改めて実感いたしました。

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想いを込めて

f:id:tabisuruzensou:20190515220257j:plainこんにちは!光彬です!
回りの友人が揃って末期の五月病だぁ~と
言っておりますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか?
新緑が芽吹き命の萌える五月であるはすが、
このような使われ方をされて不憫でなりません( ´`)

さて、只今私は、
東京都西麻布にありますお寺で
典座(てんぞ)という、食事を司る部署におりまして、
看糧(かんりょう)という、食料庫の在庫管理や調理、食費管理をするお役目を頂いて日夜、上司・修行僧と共に美味しい精進料理を作れるよう修行させて頂いております。
毎日三食、約四十人分の食事を用意し、献立を決めたり書き出しに行ったりと、バタバタした日々を送っています。
このお役目を頂いて、約二か月半が経ちましたが、
まだまだ要領も悪くあたふたしております。

そんな先々週のことです。
そのお寺での少し大きな行持が終わり、
ホッとするのも束の間。また次の日の食事の
切り込みや仕込みに勤しんでおりました。

次の日の朝のお漬物の沢庵を切っておりました私は、
疲れからか、なるべく薄く、切ったときに向こう側が見えるくらい薄く切らなくてはならない沢庵を、普段よりも厚く切ってしまいました。僧堂という静かな場所で食事を頂く我々僧侶にとって、大きな音がしてしまうものは避けなくてはなりませんが、その日は、まぁこのくらい変わらないだろうと、そのまま出してしまいました。

すると、僧堂の中ではボリボリ、ボリボリと
大きな音が鳴ってしまいました。どれだけ音を殺そうと
すりつぶそうとしても音が止まりません。

朝の食事が終わった後、今日のお漬物は食べにくかったと言われてしまいました。

典座の料理に対する心持ちを記した本がありますが、
その中に、老心(ろうしん)というものが出て参ります。
老婆親切の心のことで、相手が食べやすいように、美味しく食べられるように、、相手を第一に考えて料理に当たりなさいとのお示しがあります。私は自分が疲れていたからと、食べる人の事を蔑ろにして気持ちを込めて料理を出すことが出来ませんでした。


気持ちがこもっているか、暖かさを感じるか
というのは、私がいくら思っていてもそれは
相手や第三者が感じ、決めることです。
想い遣るとは、自分の事よりも相手をと、
一生懸命務める事でした。


この失敗を生かし、私はもう手を抜かず
料理に務め精進すると今一度心を改めました。

今日、皆様はどんなお食事を
召し上がりますか*?

どうすれば・・・

みなさま、おはようございます。哲真です。

 

令和になり、10連休も明け、仕事がバタバタとしているころでしょうか。

10連休もあったのですが、お寺にはあまり関係のない休みでした。

観光客の多い寺院では、御朱印がすごいことになっていたみたいですね。

皆様は、平成の終わりの御朱印と令和最初の御朱印を集めて連休を終えられた方もいるかもしれませんね。

 

さて先月のことですが、会議に出席する機会がありました。

様々な議論を交わし、今後どうやって行くのかを話し合った後、食事を一緒にさせていただきました。

そこに遠くから来られた方がいて、「今日は会議も長引いたし泊まっていこう」という話しになりました。

そこで、別の方が「じゃー、オレがホテル予約しておくよ」とスマホを操作し始めました。その後、「ホテルとったよ。レディースプランなら安かったんだけど。」と一言。

「まっ、それは仕方ないね」

 

 

私は、

「フロントでは、男性がレディースプランで申し込んだら断るのだろうか?」

「そもそも、男性と女性を見分ける基準は?」

と疑問に思いました。

 

そんなことがあった後、帰宅すると

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こんな本が曹洞宗から届いていました。

 

早速読んでみると、現代社会では、周りの人の様々な思い込みや勘違い、知識不足で傷ついて、悩んでいる人がいるのだな。

寺院では、亡くなった方々に戒名を差し上げるということをしますが、それには、男性なら信士、女性なら信女という文字が入ることあります。

この場合、どの部分で男性、女性をわけたら良いのか。そもそもわける必要があるのか。

そして、私自身も何も知らなすぎるのだなと痛感させれました。

 

一般的に僧侶と言われる人たちは、このような相談を受ける機会があったりします。

そこで言った一言が、相手の心を閉ざしてしまうことも、また開いてくれることもあります。

 常にそういった部分を気を付けていかなければいけないと感じさせてくれる事柄でした。

 

日々精進していかなければなりませんね。

そういったことを気づかせてくれたのも御縁、御縁に感謝です。

名前も知らない友人

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みなさん、こんにちは。向月です。

令和元年初日ですね。「平成最後の○○」というイベントが多くありましたが、私はなんだか年越しみたいだなと思っていました。それで、昨夜の夕食はお蕎麦にしました。

 

さて、今回は中国で出会った家族の話です。

5年前、駒澤大学の先生方と中国の禅宗寺院を巡る旅に同行させていただいたことがあります。日程は10日間。湖南省湖北省(ちょっとだけ江西省)の禅宗寺院をバスでまわるものでした。

思いのほか過酷でしたね。乗り心地の良いとは言えないバス、長距離移動に夏の暑さと道路状況の悪さ、山奥の寺院では約4㎞を徒歩で登山。

 

この旅の中で立ち寄った湖南省のお寺に、欽山寺と言うところがありました。

山奥に突然現れる大きなお寺です。

赤い壁に囲まれた伽藍に、目の前には大きな方丈池。これぞ中国の名古刹という雰囲気のお寺です。

そのお寺を守る方々が暮らす寮のようなアパートがすぐ隣にあります。

一般の観光客のように風景やお寺仏様などをデジカメで撮っていましたが、お寺を守る家族と目が合いました。デジカメではなくポラロイドのカメラでその家族の写真を撮らせていただきました。私もくわわり一緒に記念写真です。

その写真をその家族に差し上げると、とても喜んでくれました。

 

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そこの旦那さんが私の手を引いて、お寺の裏に連れて行ってくれました。

中国語を話せないので何を言っていたのか分からないのですが、古い井戸や出土した食器を見せてくれます。この旅に参加していた中国出身の先生が通訳してくれました。

 

「これは1000年前からある井戸で、この食器はそこから出土したものだ。」

 

それに感心して見入っていると、さらに山奥に案内されます。そこには何かの畑が広がっていました。

 

「ここは、自慢の茶畑だ。私の家系は代々、ここでお茶お作り、それを売って欽山寺を守ってきた。観光に来る方は、みんな建物を撮る。でもそれを守っている私たちを撮ってくれたのは君が初めてだ。とても嬉しい。写真は宝物にするよ。」

 

帰り際には

「君はもう私の友達だ、いつでも遊びに来てくれ」

そう言って、自慢のお茶をくれました。

 

 

広い大地の上に人間が勝手に引いた国境がある。でも、人間同士にはそんなモノはなくて、言葉が分からなくてもわかり合えることが沢山有ると感じた旅でした。

彼と私は、境界線のない真っ平らな関係になれたと感じました。

この世界は、境目のない一つの世界なんだと。名前も知らない友人が、私に教えてくれた事でした。

 

 

また別の旅では「物理と仏教について」話すことがあったのですが、それはまた今度。