旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

最期に見た景色

 こんにちは、慧州です。初夏となり、気持ちの良い日がやってくると思いきや、暑くじめじめした日が続いています。みなさんは体調いかがでしょうか?今日は「死」について感じたことを書きたいと思います。

 

 

 先日、私はあるドキュメンタリー番組を観ました。それは「安楽死」についての番組でした。日本では安楽死は法律上認められておりませんが、海外の一部の国では認められており、近年安楽死を選択するために海外に赴く日本人が増えているそうです。

 

 番組では難病におかされて身動きが出来なくなる前に自ら安楽死を積極的に選択した方と、それを複雑な思いで見守る親族の姿が映し出されていました。自身の尊厳や介護する家族への負担を考え、むしろ前向きに安楽死を望む姿に衝撃を受けました。

 

 患者には自分らしく生きたい、最後まで自分の口から「ありがとう」と言いたい、痛みから解放されたい、様々な思いがあります。一方、家族はどんな姿であっても生きて欲しいと願います。どちらも間違った考えではありません。そこには生死の葛藤がありました。

 

 

 少し話が変わりますが、私はかつて馬の世話をしていたことがあります。ある日、不慮の事故により担当していた馬が転倒した際に開放骨折してしまいました。馬は骨折をしてしまうと基本的には安楽死させます。それは立てなくなることで体がすれ、壊死することで苦しんでしまうからです。 

 倒れた馬は痛みからか、涙を浮かべながら激しく呼吸をしていました。

「本当にこれでいいのだろうか」

当時、私は葛藤しました。痛みをなくすための安楽死ではあるものの、馬自身は本当に望んでいたのか分からないからです。未だにあの光景は目に焼き付いて離れません。

 

 

 話は戻り、番組終盤に対照的なシーンがありました。

 安楽死を選択した方は安楽死をする場所に向かう車の中、外の景色をぼんやりとながめていました。その表情は死を恐れるというよりも、どこか穏やかにも見えました。

 安楽死を選ばなかった方もいらっしゃいました。延命措置を受けながら生き続けることを決めた方は、一時帰宅した時に地元の桜を見て、言葉なく泣いていました。それは生きてまた桜を見られた嬉しさと同時に、どこか憂いを帯びた涙にも見えました。そこには想像を超えた感情が垣間見えたような気がします。

  

 

 曹洞宗の教えを日本に伝えた道元禅師(12001253)は亡くなる直前、こんな和歌を残されています。

  

「また見んと思ひしときの秋だにも 今夜の月にねられやはする」『道元禅師和歌集』

(私訳:また見られると思っていた月でさえ美しい。まして今夜の月を見ずに寝ていることができようか、いやできない)

  

 療養のため、故郷である京都に帰ってきた道元禅師が、中秋の名月を見た時の歌です。亡くなる直前、再び見られた見事な月。それは今まで見た中でも一番綺麗で、尊く感じられた月だったから、この歌をよんだのでしょう。私には、道元禅師もどこか感傷的になっているようにも思えました。

 

 私は今まで、僧侶でありながら人の死ばかりを考えていました。しかし、「安楽死」を通して強烈に感じたのは、結局は「自分の生と死」でした。もし自分が難病にかかったらどうするか?自分の生き方、死に方とは何か?それを決められるのは自分自身であり、そこに客観的な正しさを求めることは難しいでしょう。自分が納得するまで悩み続ける、そこにはゴールがないのだと思います。

 

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