旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

ヒットの先にみえるもの

 

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 皆さんこんにちは、慧州です。4月は新年度の始まり。そして、5月には改元も控えており、新たな時代を迎えます。始まりがあれば終わりがあるように、先日私にとっても大きな節目を感じた出来事がありました。

 

 それはイチロー選手の引退です。走攻守全てに優れた選手で、多くの記録を残し、メジャーリーグでも殿堂入り間違いないとも言われているイチロー。平成生まれの私にとってはまさにあこがれで、バッティングセンターに行けばいつも右手でバットを立てながら左手を添えるルーティンを真似していました。

 

 引退会見を見ながら「ついにこの時が来たのか・・・・・・」と思うと同時に、イチローの言葉を聞くと改めて自分自身の生き方を考えさせられます。あるインタビューで、イチローはこんな言葉を残しています。

 

 「細かいことを積み重ねることでしか、頂上にはたどり着けない」

 

 肉体や技術的なものは優れていることはもちろんのことですが、なによりも自分をコントロールする力を感じさせる言葉です。どんな日であっても毎日トレーニングを行い、体のケアを怠ることなく、万全の状態を目指す。たとえ調子が悪くても悲観的にならず、次を見据える心の安定。簡単にできることではありません。

 

「日々是好日(にちにちこれこうにち)」という有名な禅語があります。中国僧、雲門文偃(うんもんぶんえん、864949)が残したとされ、「日々過ごしているこの1日1日がすばらしい日だ」という訳がなされることが多い禅語。額面通りとってしまうとお気楽な言葉に思われるかも知れません。しかし、この言葉には別の解釈もあります。

 

 「この日を良い日(好日)にするかどうかはあなた次第」

 

 覚悟を試されている言葉だと思います。今日という時間を生きることが出来るのは自分自身しかいません。他人に代わりに自分の人生を生きてもらうことも出来ません。

 

 イチロー選手にとっての「好日」とは何か?そのヒントが引退会見の時の言葉にあるような気がします。

 

 「今まで残してきた記録はいずれ誰かが抜いていくと思うけど、去年の5月からシーズン最後の日まで、あの日々はひょっとしたら誰にもできないことかもしれないと、ささやかな誇りを生んだ日々であったんですね」

去年5月より球団会長付特別補佐として、試合に出れないことが正式に決定した



 試合に出れなくても次を信じて練習を続けたこと。誰でもない自分自身がそれをなしとげたこと。決して妥協をしなかったからこそ出た言葉ではないでしょうか。

 

 「令和」に変わっても、私たちの人生は続きます。積み重ねるこの毎日を「好日」にしたいと改めて思います。

お疲れ様『平成』、宜しくね『令和』

 皆さんこんにちは尚真です。寒い冬が明け、桜に続いて色とりどりの花々が春の訪れを知らせてくれています。木々の芽も色づき始める新緑のこの時期が、私は一年で一番好きです。新緑の息吹を感じるこの季節は新たな活力が湧いて来る気がします。

 

そんな新緑の息吹に合わせるかのように、平成も残すところあと2週間となりました。新元号の『令和』も発表になり、世間では『令和』グッズを早速販売したり、テレビやネット記事でも平成時代を振り返る企画をよく目にしたりと改元ムードが日増しに高まって来ましたね。来月からは『令和元年』ですので間違わないように気を付けたいですね。

 

 私個人としては平成最後の記事の更新ですので、平成最後の記念に、改元について書き残したいと思います。今回の改元は今までとは異なる点がいくつかあり、まさに新しい時代を反映する出来事だと個人的に感じています。

 

 一つ目は約200年ぶりの生前退位だと言う点です。私は昭和生まれですので昭和から平成に元号が変わる瞬間も経験していました。まだ幼かったのであまり記憶に残っていませんが、昭和天皇崩御されて平成天皇が即位された訳ですから、改元は悲しいニュースとして報道されていたように思います。

 

 しかし今回の平成から令和への改元は、祝福ムードに包まれてとてもポジティブな出来事に捉えられており、これは生前退位ならではのことだと思います。

 

 また天皇陛下生前退位は、まるで会社員の皆さんが定年前に早期退職し、趣味や家族の時間などを増やせるよう第二の人生をスタートさせる姿と重なる部分があるように感じます。『働く』ことへの価値観が変化している現代において、天皇陛下自らが『働き方改革』を実践しているようですね。

 

 二つ目は新元号『令和』の出典元についてです。現在の『平成』まで247の元号があるそうですが、その全ての出典元は中国の書物でした。そもそも元号という制度も中国由来のものですし、元号以外にも私たちに関わりのあるもので仏教や漢字も中国から伝わっていますね(そういえば私たち日本人のルーツも中国大陸ですね)。

 

 ですので、これまでの元号は中国の書物からの引用でしたが、今回の元号『令和』は初めて日本の書物からの引用となりました。出典元は昔歴史の授業で習った『万葉集』です。日本の元号ですから日本の書物からの出典は非常に良い事だと思いますし、これも新しい時代を反映するトピックスだと思います。

 

 以前から女性の皇位継承の話題もありましたが、今回の改元に伴って日本の皇室は少し変革期を迎えているように感じます。変わらぬ伝統と時代のニーズに合わせた改革を行って、英国王室のように『開かれた皇室』となるよう期待したいです。

 

 私たち僧侶や寺院も同じことが言えると思います。仏様の教えは不変的な真理を説かれていますが、それを実践する私たちが生きる社会は時代と共に移ろいで行きます。変わることない部分と変わらなきゃいけない部分を良く見極め、来月からくる『令和』の時代を生きていきたいと思います。

 

 また残り2週間の『平成』も、これまで30年の感謝の気持ちを込めて、最後まで後悔の無い様に過ごしたいと思います。

而今に学ぶ。7

 こんにちは。俊哲です。私の投稿するこの週は4月8日の花祭りを迎える週でした。この花祭りというのはお釈迦様が誕生されたことをお祝いする日のことです。日本では4月8日、または地域によって5月8日を花祭りとしてお祝いしてまいりました。

日本以外のアジア各国、仏教圏ではVesakと呼ばれるお釈迦様の誕生を祝う行事があり、そちらもだいたい4月や5月の満月の日に行われております。“誕生した”ということを祝うこの仏教行事を私の住む地域では4月8日に行いますので、今日はお釈迦様がお生まれになられた地、ルンビニを旅した時のことを書きたいと思います。

 

 お釈迦様がお生まれになられた場所は現在のネパールのルンビニという場所です。ネパールとインド北東部の国境近くにあるその場所にはマヤ聖堂というお釈迦様のお母様の名を冠した建物があり、その施設の中にマークストーンがあります。

マヤ聖堂の周りにはお釈迦様の産湯に使われた池の遺跡や菩提樹が植えられており、各国の仏教徒の巡礼者が多く訪れております。また、周辺には各国の寺院が建立され、現在仏教の聖地として整備が進められております。

 

 

 ルンビニ周辺はお釈迦様が出家前、シッダールタ王子として過ごされたカピラ城や、ご両親の浄飯王・マヤ夫人の荼毘塔など、お釈迦様にまつわる遺跡がいくつもあります。またそれらは周りの住人の生活の中にありました。

 

したがって、現地の方達の生活を見ることができたのですが、それらはお釈迦様在世時とそれほど大きな変化はなかったのではないかと感じました。近代化しているとはいえ、水牛が歩く田園風景、人力でもみ殻を飛ばす農夫。お釈迦様が出家を決意されカピラ城から出て行った東門から眺める景色に、お釈迦様もこのような景色を見たのではないだろうかと思わされました。

すると、それまで抱いていた”お釈迦様”という遠く離れた崇高存在から、崇高な存在なのだけれどもお釈迦様も一人の人間として生きられた人間だったのだと改めて感じることができ、ものすごくリアルにお釈迦様の姿を思うようになりました。

 

 何を思い、何を心に抱き出家の道へ進まれたのだろうか。


仏教では、原因があって結果があると説いています。お釈迦様が出家を決意される四門出遊の話も直接の大きなきっかけであれ、それまでの生い立ちの中での経験すべてが因となって出家されたのです。お釈迦様がお生まれになられて七日後にお母様(マヤ夫人)が自分の出産を原因に亡くなられたこともその一つだったでしょう。そんな若き日のシッダールタ王子に思いを馳せ眺めた景色を、花祭りを迎えると毎年思い返しております。

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ルンビニ菩提樹とマヤ聖堂

 

豊かな国、日本🎌

こんにちは!光彬です!
とうとう、元号が変わりましたね!
平成に未練は残しておりませんでしょうか?
令和(れいわ)
きっと予想されていた方は少ないのではないかと推察致します(°Д°)
少し意味を調べましたら、
令・・天子からの命令、みことのり
和・・なごむ、やわらぐ、
とのことでしたので、一見してみれば
"和を保ちなさい"といったところでしょうか?

知っている方がほとんどでしょうが、
暦に西暦ではなく元号を用いているのは
世界でも日本だけです*
2019年でありながら平成31年、など、
日々の生活で年号を書く機会が多い我々日本人は
あれ?2031年だっけ?2019年だけど平成何年だっけ?と、考えさせられた人も多いのではないでしょうか(^^)?
では何故、日本は両陛下が代わる際に
元号を変更し、用いるのでしょうか?

私なりの解釈ではありますが、
これは学校の生徒会などが掲げる
1年のスローガンと同じではないかと
考えています*
その年の生徒会によって細かな考え方は違えど、
大まかにみんなで守っていく、育んでいく、
受け継いでいく、
心に留めていく目標を決めよう!
というものです*
1つのシンプルな目標や理念、教えや願いなどは
多くの人に浸透しやすいそうです。

私が修行していたお寺では、監院(かんにん)老師という修行僧からお寺の管理維持までを指揮する方がおりました。その方は普段は気さくで面白く、時には厳しく時には優しい物言いで、修行道場をもり立てて下さっていました。
そんな、監院老師が何かにつけて仰る言葉がありました。

「お互いに、不快の念を抱かせないよう心掛けて生活するように」と。

難しい言葉など一切ありません。ですが、
これを生かして生活するにはどうしたら良いのかは
よく自分のなかで考えなくてはなりません。
自分がされたら嬉しいけれど、相手にとってはどう取られるだろうか?
自分はされたら嫌だけど、相手はもしかしたら
喜ぶかもしれない、
これらを確かなものにするには、コミュニケーションが必要です。そうして、相手のことを徐々に理解していくと、相手にとって何が不快か、そうではないかが見えてきます。
私はこの言葉がとても好きで、及ばずながら
いつでもこの言葉を胸に置いて物事に取り組んでいるつもりです*

平成から令和へ、
今一度我々は気持ちをリセットし、
和を保つべく他を想いやり言葉を交わして
豊かな国を創るよう動くべきではないでしょうか*
共に行持て参りましょう*

訪問者現る!!

こんにちは。哲真です。

  

三月ももう少しで終わりですね。

それに新年号の発表もそろそろです。

新たな始まりが迫ってきています。

 

皆様は花粉症は大丈夫でしょうか?

この時期は、外に出るのがつらいです。それに私のいるお寺の本堂は隙間が多く、花粉が入り放題なんです。その為、本堂にいると鼻水と目のかゆみで大変です。

 

 

 

最近はお彼岸があり、檀家さんなど多くの方々に御来山いただきました。

加えて、珍しいというか、私のいるお寺では当たり前の客という方々にも来ていただきました。そして、来たという痕跡まで残していってくれました。

 

何と、山門に

 

 

 

 

 

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鹿の角です。

 

そう、鹿にも来ていただいたのです。動物がそこら中にいるので、珍しい客ではないんですが・・・、今回は角を落としていったのです。

 

ネットなどで調べてみると、鹿は昔から神聖視されてきた由緒ある動物との記載がありました。それに、風水の観点では「財運を招くラッキーアニマル」とのこと。

鹿の角には「財運力」「勝負運」「水難除けのお守り」「豊穣のシンボル」などのパワーがあるようです。

それに、龍の角は鹿の角だそうです。

そういえば、本堂の天井に龍が描かれているお寺さんもあります。

 

いろいろな珍客はくることが多いお寺ですが、このような落とし物は初めてでした。

折角なので、もう一本ないかと探したのですが、見つかりませんでした。

鹿の角は毎年春に生え変わるようなのですが、山を歩いても滅多に見つけることができない代物だそうです。

 

鹿って神聖視されてきた動物だったなんて今回の訪問で初めて知ることができました。

 

このような機会でもなければ鹿について調べることもなかったので、良い出来事でした。

 

 

 

お彼岸にまた新たな御縁をいただきました。

 

 

 

友人への手紙

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みなさん、こんにちは。向月です。

以前このブログで『友人へ向けて』という記事を書きました。

その友人が2月に他界致しました。

以下、私事ながらその友人への手紙を書きたいとおもいます。

 

Tさんへ。

長い間、闘病生活お疲れ様でした。

1月に誕生日お見舞いした時は、時々眼を開けて何か話そうとしてくれたよね。

懸命に生きようとしていることが伝わったよ。

 

Tさんとの出会いはいつだったでしょうか?
スタジアムでサッカーを見たときでしょうか?

「息子がいつもお世話になってます」って言われたのを覚えています。

出会った時はもう病気を患っていて、それでも満面の笑顔で挨拶してくれました。

ご家族もみんな仲良しで、手を取り合いながら助け合っていたよね。

 

液晶のエンジニアだったTさん。一緒にご飯を食べに行ったとき「新しいテレビを考えてるんです」と話し始めた事あったよね。

「昔は一方的に流れてくる情報を視聴者が受け取るだけだった。今のテレビはリモコンでクイズに答えたり、アンケートに参加したりできる完全な双方向とまでは言えないが視聴者が参加することができるようになった。これからは、匂いや味まで伝えられるようなテレビができると面白いよね」と。

それを聞いた私は「テレビの向こうでオナラをしたら、その匂いが部屋中に充満するの?」と言い、2人で馬鹿笑いしたよね。

 

私が僧侶になろうと思うと言ったとき「僕はキリスト教徒だから仏教のことはよく分からない。だけど凄いね。頑張ってね」って応援してくれたね。とても嬉しかった。修行に行く前も、身体に気を付けて程ほどに頑張れって言ってくれた。

 

去年、私が大腸や胃の検査をしたときも「闘病10年の私がついている。きっと大丈夫!」とメールくれたね。とても心強かった。Tさんの家族からもメールやメッセージをもらったよ。本当に良い家族だなと思った。こんな家族になれたらと思ったよ。

 

いくら書いても足りないくらい思い出があります。

TさんやTさんの家族に生きる事の大変さや強さを教えていただきました。

今は、まだTさんを失った辛い気持ちで一杯です。一杯というより、心がポッカリと穴が開いた感じです。

僧侶として「覚」も「悟」も未だによくわからずにいる私です。お葬儀の時も言葉が出てこなくて、息子さんをただ抱きしめることしかできませんでした。

でも、これから先、私の目に映る人くらいはTさんのように強く明るくなってもらえるよう頑張ります。私の目に映る人が、少し幸せになるように。

私がいつまで生きられるか分かりませんが、次にTさんと会ったときはまた一緒にラーメンでも食べに行きましょう。

生きる事の強さと別れることの辛さを教えてくれたTさんに感謝しています。

TさんとTさんの家族に出会えたことに感謝しています。

本当にありがとうございました。どうぞ、安らかに。

 

萩野慈隆

実感のある生き方

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 みなさんこんにちは!慧州です。お彼岸を直前に控え、春を告げる陽気に包まれていますが、花粉症の私にとってはなんとも悩ましい季節でもあります。今回は先日行った鎌倉で感じたお話をしたいと思います。

 

 鎌倉といえば、長谷の大仏や臨済宗円覚寺建長寺など、お寺が多い観光地として知られています。私が行った日は快晴に恵まれ、北鎌倉駅から歩きながらついついカメラのシャッターを切ってしまうほど、どこを撮っても絶景になるような一日でした。

 

 今回訪れたのは臨済宗円覚寺でした。1282年に中国からやってきた無学祖元(12261286)によって創建されたこのお寺は、道や伽藍は整備されてはいるものの、どこか時代を感じさせる雰囲気をまとっていました。案内をしてくださった円覚寺の師家(指導役の僧侶)の方がこうおっしゃいました。

 

 「ここでは未だに薪割りをして、ご飯の釜を焚いたり、五右衛門風呂を沸かしたりするんです。確かに不便ではありますし、私も修行していた時は大変でした。でも、今振り返ってみると、あの修行はとてもありがたかったと思えるんです」

 

 有難い(ありがたい)とは「有ることが難い」と書きます。文字通り、その存在そのものが貴重であることを指しています。この感覚というものは現代社会においては中々得づらいものだと思います。

 

 例えば、現代の私たちはエアコンのスイッチ一つで簡単に暖を取ることができ、円覚寺で行われている薪割りは非効率的で前時代的な存在と思われるかも知れません。しかし、同じ暖かさでも、エアコンで得られる感覚と薪で得られる感覚は全く異なるでしょう。そこには「実感」があるかどうかという大きな違いがあるからです。想像を膨らませば、冬の寒い日にかじかむ手で懸命に薪割りをして得られた暖かさは何にも代えがたいものだと感じるのではないでしょうか。

 

 矛盾するようではありますが、この「実感」というものは言葉で説明したり数値で表われるものはありません。円覚寺で修行していない私が薪割りについていくら説明しても、その言葉には実感は伴っていないように。でも、この「実感」を得られるのはお寺での修行に限った話ではありません。

 

 この世界に生きている私たちが、今直面しているこの現実の中に「実感」は見え隠れしています。でも、それをつい見過ごしてしまっているのではないでしょうか。そして、その「実感」は人それぞれであり、自分自身にしか分かりません。

ふと、映画『燃えよドラゴン』でブルース・リーが放った言葉が心に思い浮かびます。

 

「考えるな。感じろ」

 

 頭ではなく、感じること。おろそかにしてはいけない教えだと思います。