旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

伝えることの難しさ

こんにちは、哲真です。

 

二月も中旬ですね。

暖かくなったり、雪が降ったりと季節も忙しい日々が続いております。

 

昨日と今日は宗務所(県内の曹洞宗の寺院を包括し、布教活動などを支援する事務所のこと)主宰の研修会に参加してきました。

(和尚さんと言われる方々もいろいろなところで勉強しているんです)

 

私は、夜中から朝方にかけて雪が降り積もっていたので、雪かきしてしてから車で一時間ほどかけて会場に向かいました。

 

到着すると、県内の寺院が集まっての研修会でしたので、かなりの人数参加していました。

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内容は、ハラスメントについて、仏祖正伝菩薩戒について、禅語について三部構成でした。

 

雪かきの後でしたので、かなり疲れが出て眠くなってしまうかと思ったのですが、最後まで無事研修を受けることができました。

 

正直、仏祖正伝菩薩戒に関しては私の知識不足、勉強不足があり内容を理解できまではいけませんでした。

 

ハラスメントは社会人経験もあり、いろいろな場面を体験してきたこともあり、また、今はどのようになっているのかも理解することができました。

 

禅語に関しては、「禅語を読む」という本の発刊に当たっての話しでした。

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禅語を読む

発刊に当たって、先ずは

「わかりやすく、伝わりやすく」

を意識したとおっしゃっていました。

 

これは、お坊さんの方々が読むだけでなく、檀家さんや一般の方々に読んでもらえるようにするためだそうです。

 

確かに、難しいことばや聞きなれない言葉を使うと、それらしく聞こえる場合があるそうなのですが、その方がおっしゃるには、

「その言葉を自分のものにしていないと、相手には伝わらない」

ということでした。

 

先人の言葉、受け売りの言葉をそのまま言うのではなく、その意味はどんななのか。どういう状況なのか。意図は何か。など様々な観点から調べて、自分なりの解釈をして、自分の言葉にしてから、その禅語の解説を発信したそうです。

 

そうすると、檀家さんや一般の方々から

「わかりやすい」

との評判を得ることができたそうです。

 

私も、檀家さんとお話しする時に、先人の方々がおっしゃっていた言葉をそのまま話したりしていました。

すると檀家さんたちはあまり理解していなそうな顔を感じることがありました。

 

折角、話しするなら伝えることが大事ですので、先ずは、その言葉を自分に落とし込み、自分のものにしてから相手に伝わる言葉で話すを心がけようと感じた研修会でした。

 

こういった研修会も御縁。様々な御縁に感謝しなければいけませんね。

忘れていること

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こんにちは。向月です。

 立春も過ぎ、時々春らしい暖かい日がありますね。

春物を着て出かけるには、まだまだ早いですが。

 

先日、ある方とお話しをさせていただく機会がありました。

それは、阪神淡路大震災(1995年1月17日)でお兄様を亡くされた方です。

その時、次の歌を教えていただきました。

 

「世の中は何か常なるあすか川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」

 

簡単に意味を書くと、

「この世は、常に同じ状態のモノ(事柄)なんてあるだろうか。(例えば)飛鳥川を見てみると、昨日淵だったところが今日は瀬になっているように」

この歌は、誰が詠んだのかもわかっていません。そこがまた無常観をかき立てるところかもしれません。

 

その方は当時14歳、お兄様は17歳だったそうです。

地震が起こる前日の夜、お兄様とたわいもない喧嘩をしたそうです。

お兄様から借りていた漫画を汚してしまい、そのことを咎められた事がきっかけで喧嘩になってしまった。

その日は、口も聞かずに寝てしまった。次の日の早朝5時46分に地震が起こりました。

家の2階で寝ていたご本人とご両親は奇跡的に助かったが、1階で寝ていたお兄様は逃げる事ができなかったそうです。

お兄様との最後の会話が、口喧嘩だったことにとても悔やんでおられました。

この後悔があるので、今では人と別れる際、笑顔で挨拶をするようにしているそうです。

 

 

多くの方が、いつか死ぬときが来ると頭では分かっていても実感をされていない。

生きているのが当たり前に感じていると、いつか来る「死」のことを忘れてしまいます。

その時が来たとき後悔しない方法があるとすれば、今を一生懸命生きると言うことではないでしょうか。

最初に書いた歌の意味も、常なることなどないという無常観を表しています。

常では無いからこそ成長できるし、常では無いからこそ今を生きることができるのではないでしょうか?

 

震災に遭われた方とお話しさせていただいてから、改めてこのことを考えさせられました。あとどれだけ私に時間が残されているのかわかりませんが、何事にも一生懸命に自ら関わっていきたいと思うのです。

 

 

また別の旅では「名も知らぬ友人」ができたのですが、その話はまた今度。

目に見えない利他

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 こんにちは、慧州です。今回は三年前、北欧の中でも北極圏にほど近いアイスランドという国に行った時のお話をしたいと思います。アイスランドは名前の通り、国土の11%が氷河に覆われていますが、200をも超える活火山を有した火山島でもあるため、「氷と火の国」という何ともファンタジーな異名を持つ国です。特にユーラシアプレートと北米プレートの境目にあるアイスランドでは地球の割れ目「ギャウ」を見ることができ、その雄大な自然や、プレートを通じて日本と繋がっている事実には圧倒されるばかりでした。

 

 そんなアイスランドですが、私が首都レイキャヴィークを観光していた時にある光景を目にしました。町中を歩いていると、門扉に多くの手袋が刺さっていたのです。門には「Single Gloves片っぽの手袋達)」と書かれており、そこはまるで手袋の迷子センター。でも、手袋達は迷子になっていても淋しそうには見えず、むしろ賑やかな雰囲気でした。手袋が必要な寒い国だからこその光景ですが、どこか温かく、ぬくもりのようなものをそこから感じました。

 

 手袋を片方無くしてしまうと、もう片方の手袋だけを使うことは出来ません。それを知ってか、アイスランドでは落とし物の手袋をこの門に置いていくのが習わしになっているのです。手袋を届けたところで相手に感謝されるわけではありません。また、おそらく門の所有者も快く門の使用を許可してくれているのでしょう。見返りを求めているわけではなく、ただ困っている人を助けようという思いだけで生まれた場所なのです。 

 

 日本でも落とし物をしても当たり前のように見つかると、観光に来た外国の方から驚かれることがあります。よくニュースでは「平和な国だから」とか、「日本人ならではの集団意識」とか、「落とし物は交番に届ける共通認識がある」とか、「謝礼が法律で決められている」などと、様々な要因が挙げられています。しかし何よりも大きな要因となっているのは、この落とし物がなくて困っているだろう人を想像する力だと私は思います。

 

 仏教では自分ではなく他人の幸せの為に行う行為を「利他」と言い、大事な修行の一つとされています。私たちは何をするにも目にみえる見返りばかり求め、それによって相手を図ったり、自分の価値を確かめようとします。しかし、本当に大事なものは目に見えないものではないでしょうか。アイスランドで見た光景からは、他人に思いを馳せることの大きな功徳と同時に、自分や他人に左右されない揺るぎようがない幸せを実感するのです。

 

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新年を迎えて思う事

  皆さんおはようございます。尚真です。新年を迎え三週間ほど経過し、お正月太りも解消されて来た今日この頃です。本年も宜しくお願い致します。

 

 2019年は皆さんもご存じの通り、五月一日に年号の改正が行われます。また十月には消費税率の10%への引き上げといった、私達の生活に影響を与えるような出来事も予定されています。また翌年の2020年には東京オリンピックも控えています。

 

 そんな時代のターニングポイントとなるような2019年を迎え、年末年始にちょっとしたご縁があった方の影響を受けて今年の抱負を考えてみました。

 

 昨年の年末に千葉県にある温泉に行って来ました。その帰りに成田山新勝寺にお参りして来ました。成田山新勝寺は初詣で有名なお寺ですが、真言宗智山派大本山で、千年以上の歴史を誇ります。

 

 成田山新勝寺といえばうなぎが有名ですが、もう一つ有名なエピソードと言えば、歌舞伎役者の市川團十郎家との繋がりかと思います。

 

 初代市川團十郎は跡継ぎに恵まれなかったため成田山新勝寺で祈願。お陰で待望の長男を授かった初代團十郎は、その感謝を込めて不動明王をテーマにした歌舞伎を演じたところ、これが大ヒット。

 

 そこで成田山新勝寺に大神鏡を奉納し、屋号を「成田屋」に改めました。その「成田屋」の今の当主が、皆さんご存知、市川海老蔵さんです。

 

 年が明けて、海老蔵さんに密着したテレビ番組を放送していました。過去の暴行被害のイメージもあり、特にファンではありませんでしたが、数日前に成田山に行ったばかりだと言う事もあってか、番組を見てみる事にしました。

 

 番組の中で海老蔵さんは、成田屋お家芸歌舞伎十八番」のうち、現在ではあまり上演されなくなった演目の復活上演を積極的に行ったり、プロジェクションマッピングなど新しい要素を取り入れたりと様々な取り組みで歌舞伎の発展に尽力しています。

 

 また本職の歌舞伎の活動だけで無く、現代劇への挑戦やテレビ出演、植樹などの社会活動と様々な分野に挑戦していました。

 

 そんな海老蔵さんに倣い、私も仏道により一層励みつつ、様々な分野で何か自分にできることを見つけ、挑戦して行く事を今年の抱負とする事にしました。

 

 海老蔵さんは来年の2020年に十三代目市川團十郎を襲名する事を発表しましたね。2019年は皆さんにとっても大きな変革の一年となると思いますが、私にとっても良い方向に変化が起きるような一年にしたいと思います。

 

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市原ぞうの国には鼻を使って絵を描く象がいます!!

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成田山は雲一つない青空でした。

 

而今に学ぶ。5

 こんにちは。俊哲です。本年もよろしくお付き合いください。

 

 さて、私は以前にもこちらで記しましたが、色んな国や地域を旅するようになったのは、宗教とは、祈りとは何なのだろうかと疑問に思い、異国ではどうなんだろうかと思ったことに始まります。異国の文化に触れる中で、現在副住職としてお寺で暮らしておりますから、お寺の在り方、僧侶の在り方を考える日々を過ごしております。

 

 旅を通し、様々な祈りの姿を見てきました。時に亡き人の新たな生まれ変わりを良きものであることを願い、今生かされていることに感謝するものであり、新たな生命の祝福であったりと。仏様や神様に、時には亡き人や圧倒的な自然の力を神として、人々は祈るのです。そしてその時、祈りも多様でありながら、相対している仏様や神様が、祈っている人それぞれにおられるように私の目には写ります。

お経や、自分の願い、過ちを口に唱える者もいる。ただ静かに手を合わせている者もいる。嘘・偽ることのできない。否、嘘・偽っても仕方のない存在と相対する。祈りとは、祈る先におられる仏様や神様とご縁を結ぶ行でもあるのだと感じるのです。その時流れる時間は測ることができない神聖な時間で、またそういった場所はまた聖地となりうるのだと感じています。

 

そしてお寺とは、その“そういった場所”なのだと感じています。

 

 

 私の暮らすお寺は観光でお参りに来られるような方があるお寺ではなく、地域の方が昔から守ってきた、いわゆる一般的な田舎のお寺です。そんなお寺で日々を過ごしていると、やはり多くの祈る姿に出会います。

 

ある日の早朝、お墓参りに来られた方と話をすることがありました。

その日は戦争で亡くなられた顔を知らないお父さんのご命日だったそうです。ご自身はお孫さんも生まれ、幸せに暮らしていることを改めて報告に来たということでした。門前すぐにあるその方のご家族のお墓。お参りを終えたら門前よりお寺の本堂に向かって、ありがとうの言葉では足りない思いを込めて手を合わせるのだそうです。お寺に、お墓に来た時には必ず。 

 その男性のように、静かに手を合わせられる場であること。これがお寺のあるべき姿なのだと感じています。また、その場に暮らす“住職”、つまりは住むことが職となる私たちは、その場を提供するためにお寺を守る縁にあるのだとつくづく感じるのです。

 

 昨今、SNSを中心にメディアでも取り上げられた、僧衣を着てあんなことや、こんなことができるといった僧侶による動画の投稿が注目を浴びております。面白いと見た方や、親近感を抱かれた方もおられたでしょう。でも、僧衣を着て大道芸を披露することや、お寺の本堂でドラム演奏をすることが果たしてその静かな祈りを捧げる場に、守る者にふさわしいのでしょうか。僧衣でできることより、僧衣を着るのだから出来ないことがあるのではないか、私はそんな疑問をこのところ感じております。

 

 新年早々、僧侶界隈のニュースに違和感を覚えたので今回はそのようなことを書かせていただきました。

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夕暮れ時、静かなお寺に地元の若い女性がお参りに来られていた。ラオス・ルアンプラバン

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閉じられた教会の扉の前で祈りを捧げる参拝者。ペルー・リマ

 

只一人

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2019年を迎え、はや1週間と2日を経ちました。
今年もあと356日しかありません😞
光彬です。本年もよろしくお願い致します。

例年より比較的に暖かい冬を過ごしている山梨県ですが、徐々に雪が降る県がでてきました。
災害等なく此の冬を越せることを願います*


年末バタバタしていた私ですが、
年が明けて5日目位に少し落ち着きました🍵
このタイミングで、いとことその子供(4歳)が
遊びに来ることになりました。せっかくなので
パソコンでディズニーの「シュガー・ラッシュ
という映画を流して見せてあげました。

私もディズニーの映画なんて久しぶりだったので、つい姪っ子と見入ってしまいました(笑)

ゲームの世界でいつも悪役をしているラルフは、
正義の味方のキャラクターが貰えるメダルに憧れていました。ある日、自分がいるゲームの中で記念パーティーが行われますが、ラルフはそこに呼ばれませんでした。抗議しにいくと、メダルを取ってきたらパーティーに呼んでやる、と言われます。悪役はメダルを貰うことは出来ませんが、そこで、自分がいる世界から違うゲームの世界へ、メダルを獲りに飛び出してしまいます。
すると、ラルフが居なくなってしまってからゲームセンターが開き、1人の女の子がそのゲームをしようとコインを入れ始めました。ラルフがビルを壊し、それを正義の味方がどんどん直して得点を重ねるというゲームでしたが、壊す悪役がいないので何も直せず得点が取れません。女の子はその場を立ち去ります。ラルフを嫌っていたゲームの中の住人は
、悪役だからと嫌っていたラルフが実は必要不可欠な人物だったことに気が付きます。
(映画詳細以下略 ※ラルフ最終的には元のゲームに戻ります。)
又、悪役を辞めようと違うゲームに飛び出していったラルフも、1人1人が大切な役を担っていることに気が付きます。


この世界には一切ムダなものはありません。
逆に、一見ムダに見えるものも、自分と関わっていない見えないところで大切な役割を担い、歯車となって他との調和を保っています。そこに生があり意味を成すと私は感じています。

この元号が変わる新たな1年、
私も、私にしか出来ないことを見つけ
それに向かって研鑽、進歩できるよう務めたく思いました*
みなさん、今年の抱負はお決まりですか?





追記~
姪っ子は途中で寝ていました😪💤

今年もお願いいたします

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

 

こんにちは、哲真です。

とうとう新年になりました。

これからも本当にお願いいたします。

 

年末年始は何故かバタバタしますね。

そんな年末に入る前に、久しぶりに故郷の福島に行きました。

(私は、今は宮城県に住んでいるのですが、もともとは福島県の出身なんです。)

福島に住んでいたのは高校生までなので、実はかなり福島のことをわかっていない。

福島を運転していると、この道はあそこにでるハズが・・・でない。

ここに昔いった食べ物屋さんがあるハズが・・・ない。

ということがかなりあります。

それに、震災の影響で店や道が大幅に変わってしまったということが多くあります。

 

それ故に、福島に行っても「なつかしさ」よりも「新鮮さ」と感じます。

新たな発見という感じでしょうか。

様々なことが始めてのように感じてしまうんです。

年月が経てば、もっとそれを感じるんだろうな感じました。

 

 

福島では、浜通りに行きました。

福島は「浜通り」「中通り」「会津地方」と三つにわけて呼ばれます。

それは、奧羽山脈と阿武隈山地という山を区切りにわかれています。

その浜通りいわき市に行って、石炭化石館で、恐竜の化石や石炭を掘っていたときの歴史を展示しているところを見て、そして、あぶくま鍾乳洞もみてきました。

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そこはなんと、イルミネーションをしているではないですか!!!

鍾乳洞でイルミネーションを見れるとは思わず、びっくりしました。

これは、二月末までやっているようなで、福島に行く際は是非よってみてください。

イルミネーションは毎年テーマが変わるようです。今年は「イルカ」がテーマでした。

(このイルカが宮城県人ならみたことがあるハズ、某CMとそっくりで、それがツボにはいりました。)

 

福島に行ったのは、大きな儀式をしたので、ご先祖様に報告しに墓参りに行ったのが目的でした。福島はいろいろ変わっていたのですが、お墓のある場所あたりはあまり変化がないようでした。

そのように変化のないところにでるとホッとしました。

 

 

今回の福島では、新しいものと今までのものの両方の良さと感じることができました。