旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

而今に学ぶ。5

 こんにちは。俊哲です。本年もよろしくお付き合いください。

 

 さて、私は以前にもこちらで記しましたが、色んな国や地域を旅するようになったのは、宗教とは、祈りとは何なのだろうかと疑問に思い、異国ではどうなんだろうかと思ったことに始まります。異国の文化に触れる中で、現在副住職としてお寺で暮らしておりますから、お寺の在り方、僧侶の在り方を考える日々を過ごしております。

 

 旅を通し、様々な祈りの姿を見てきました。時に亡き人の新たな生まれ変わりを良きものであることを願い、今生かされていることに感謝するものであり、新たな生命の祝福であったりと。仏様や神様に、時には亡き人や圧倒的な自然の力を神として、人々は祈るのです。そしてその時、祈りも多様でありながら、相対している仏様や神様が、祈っている人それぞれにおられるように私の目には写ります。

お経や、自分の願い、過ちを口に唱える者もいる。ただ静かに手を合わせている者もいる。嘘・偽ることのできない。否、嘘・偽っても仕方のない存在と相対する。祈りとは、祈る先におられる仏様や神様とご縁を結ぶ行でもあるのだと感じるのです。その時流れる時間は測ることができない神聖な時間で、またそういった場所はまた聖地となりうるのだと感じています。

 

そしてお寺とは、その“そういった場所”なのだと感じています。

 

 

 私の暮らすお寺は観光でお参りに来られるような方があるお寺ではなく、地域の方が昔から守ってきた、いわゆる一般的な田舎のお寺です。そんなお寺で日々を過ごしていると、やはり多くの祈る姿に出会います。

 

ある日の早朝、お墓参りに来られた方と話をすることがありました。

その日は戦争で亡くなられた顔を知らないお父さんのご命日だったそうです。ご自身はお孫さんも生まれ、幸せに暮らしていることを改めて報告に来たということでした。門前すぐにあるその方のご家族のお墓。お参りを終えたら門前よりお寺の本堂に向かって、ありがとうの言葉では足りない思いを込めて手を合わせるのだそうです。お寺に、お墓に来た時には必ず。 

 その男性のように、静かに手を合わせられる場であること。これがお寺のあるべき姿なのだと感じています。また、その場に暮らす“住職”、つまりは住むことが職となる私たちは、その場を提供するためにお寺を守る縁にあるのだとつくづく感じるのです。

 

 昨今、SNSを中心にメディアでも取り上げられた、僧衣を着てあんなことや、こんなことができるといった僧侶による動画の投稿が注目を浴びております。面白いと見た方や、親近感を抱かれた方もおられたでしょう。でも、僧衣を着て大道芸を披露することや、お寺の本堂でドラム演奏をすることが果たしてその静かな祈りを捧げる場に、守る者にふさわしいのでしょうか。僧衣でできることより、僧衣を着るのだから出来ないことがあるのではないか、私はそんな疑問をこのところ感じております。

 

 新年早々、僧侶界隈のニュースに違和感を覚えたので今回はそのようなことを書かせていただきました。

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夕暮れ時、静かなお寺に地元の若い女性がお参りに来られていた。ラオス・ルアンプラバン

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閉じられた教会の扉の前で祈りを捧げる参拝者。ペルー・リマ