旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

旅する中で忘れてはいけないこと

こんにちは。向月です。

みなさん、自粛生活お疲れ様です。ずいぶん、感染者数は減ってきたように感じます。

コロナ関連の情報などを得ようとテレビを見ていますが、毎日同じような

報道で飽きてしまい、最近ではテレビよりラジオを聴くようになりました。

 

先日、あるラジオ番組で約400年前の落書きが見つかったという

ニュースを聴きました。

岐阜のお寺で修復作業中に見つかったようです。

このような歴史的な落書きもあれば、過去には法隆寺のような

重要文化財に観光客が「○○参上!!」と言うようなものを

書いたりした事件もあります。

歴史的な建造物に落書きをするなどは許されるものではありませんね。

また、お寺や神社だけでなく色々な信仰の場所に知らず知らずのうちに

入ってしまうことがあります。

このようなニュースを見るたびに、私自身も過去の旅を振り返る中で、

あることを思いだしては恥ずかしくなっています。

 

 

20年ほど前、沖縄(八重山諸島)に初めて行った時の話しです。

石垣空港に着陸したときから、頭の中はパラダイスになっていました。

初めて巡る八重山諸島、青い空、白い砂浜、ハイビスカスにシュノーケリング

夜は泡盛と青い魚のお刺身で酒盛り。右も左も猫も杓子もみなパラダイス。

沖縄、さいこうさ~。っという感じで浮かれていました。

この旅の2日目からは石垣島から船で10分くらいのと頃に竹富島という

周囲が10㎞ほどの小さな島を巡ることにしていました。

私はこの島が好きで、今でも良く行きます。

 

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20年前は観光客も少なく、静かな島でした。

この小さな島をのんびり散歩するのが好きです。

散歩の途中、浜辺から少し森に入ったところに鳥居のある

神社を見つけました。島の神様かなと思い、せっかくだからお参りでも

と思いのこのと入って行きました。

神社の奥には石の祠があり、その前にお賽銭を置きお参りを済ませました。

その夜、民宿に泊まっている一人旅の方たちとの一緒に酒盛りになり、

お参りしたこの神社の話しをしました。

 

「沖縄にも神社があるんですね~。今日散歩してて見つけたのでお参りしてきました。」

 

そんな事を話した途端に、旅人たちのお酒を飲む手が止まり、

みんな黙り込んでしまいました。

そのうち一人の方が

 

「それは神社じゃないよ。御嶽だよ。島の人、しかも男性は入っちゃいけない

ところもある。その御嶽の神様が怒ると大変なことになる。」

 

と教えてくれました。

私は、ただの観光気分でうろうろ歩き回り、神社にお参り気分で

その土地の信仰の場所にのこのこと入って行ったと気づかされました。

その旅人の方がもう一つ教えてくれました。

「ここ(民宿)の女将さんは、神人(かみんちゅ)だよ。相談してみると良いよ。」と。

 

神人とは、島の御嶽で宗教儀式を執り行う方です。

その女将さんに事の顛末をすべて話すと、神妙な顔つきで

 

「そりゃ、ならん。マブイヤー(魂拾い)。明日、謝りにいこうね~」

 

と言ったくれました。

翌日、神人の女将さんと2人でその御嶽の鳥居の前まで行くと、

ここから先は入ってはいけない、鳥居の前で待ってなさいと言われました。

女将さんは一人で御嶽にお酒を持って入って行きました。

20~30分くらいたって出てこられました。

 

「神様、許してくれるってさ~。もう二度と御嶽に入るなよ~」

 

女将さんと民宿に戻り旅人たちに許してもらえたと告げると、

みんな自分のことのように喜んでくれました。

その後は、お決まりの宴会になりましたが、私の心は恥ずかしい気持ちで

いっぱいになりました。

旅の恥はかき捨てといいますが、かき捨てられないトラウマ級の恥でした。

 

 

旅の中で忘れてはいけないこと。

旅先の郷に入ったならば、郷に従うこと。

その場所独自の文化や風習、価値観、信仰があることを

よくよく肝に銘じなければいけないということ。

私は初めての沖縄の旅でこのことを忘れて浮かれていました。

傲慢で軽率な心を、民宿で知り合った旅人たちに教えられた気がします。

これからも良い旅ができるように、柔らかい心を持ち続けたいと思います。

 

また、別の旅では「土の味について語る人」と出会ったのですが、その話はまたいつか。

心の掃除

 

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みなさん、こんにちは。慧洲です。

早いもので2月も1週間過ぎました。

先週は関東でも春一番が吹いたように、少しずつ春が近づいてきています。

今日は日常的に行っている「掃除」について、思うことを話したいと思います。

 

掃除が好きな理由

私は昔から掃除が好きでした。

それは特別何かを考えながら行う必要がなく、ただひたすら手と足を動かせばよかったからです。

じっとしているとつい考え事をしてしまう私でも、掃除に没頭している間は集中でき、そして穏やかな心を取り戻していました。

掃除が好きな理由はもう一つあります。

それは、やればやるほど目に見えて綺麗になることです。

私達が日々行っている仕事や勉強の多くは地道なもので、すぐに結果につながるとは限りません。

時には無駄足だったり、解決しようがないことだったりすることもあります。

そしてその都度、「あーなんで駄目なんだろう」と一喜一憂してしまいがちです。

そういった意味では、掃除はすぐに結果が現れます。

目の前のホコリを払えば、間違いなく綺麗になるからです。

私にとって掃除している一時だけは

「よし、少しずつ綺麗になっているぞ。大丈夫だ」

とどこか安心できる時間でもあるのです。

 

「完璧」という欲求

しかし、何事も行き過ぎると良くないもの。

完璧主義になりがちな掃除を続けていると、いろんなことが気になってしまいます。

たとえば風が強い日。

お寺の境内で掃き集めた葉っぱが突風で吹き荒れると、またやり直しです。

するとつい「掃いたばっかりなのに!」と心の中で悪態をついてしまいます。

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せっかく掃除をして気持ちを落ち着かせられたにも関わらず、

「また綺麗にしなければならない」という思いがかえって私の心をかき乱していました。

それは掃除に対する「欲」であり、思い通りにならないことに怒る「我(エゴ)」でもありました。

そんな様子を見かねたのか、私の師匠である父から時々こんな言葉をかけられることがあります。

「掃除は大体でいいんだよ」

初めてこの言葉を聞いた時、私は理解できませんでした。

「そんなの手を抜いているだけじゃないか」と思っていたからです。

ですが、そうではないのです。

あまりにも完璧にやろうとしすぎている私の「我欲」を見抜いていたのです。

 

千利休が示した掃除

茶聖として知られる千利休は、掃除に関してこんな逸話を残されています。

それは師である武野紹鴎が庭の掃除を利休に命じた時のこと。

庭は既に綺麗に掃除した後にも関わらず、なお庭の掃除をするよう指示しました。

紹鴎は利休を試したのです。

すると利休はおもむろに樹木を振るい、敢えて落ち葉を散らしました。

そして、そのまま「掃除しました」と師に伝えました。

その様子を見た紹鴎は利休の才能を確信し、茶道の秘訣を伝授することになるのです。

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私達は塵一つない状態こそ良いものだと思って、一生懸命掃除をします。

ですが、よくよく考えてみればそのような状態は人為的に作ったものに過ぎません。

むしろやりすぎるとかえって不自然で、落ち着かない空間になってしまいます。

利休は、自然の美しさとは葉っぱがちょっと落ちてこそ生まれるものだと理解していたのです。

 

理想という欲を手放す

この利休の逸話を知ってから、掃除をしている時に葉っぱが落ちても許せる気持ちが芽生えました。

それは完璧にしなければならないと思い込む自分、理想とする自分を手放した瞬間でもありました。

「うまくいかないときだってある」

「慌てなくてもいい」

「ゆったり生きよう」

自然体な自分を受け入れることが、何よりの心の掃除となっています。

一期一会

おはようございます。拓光です。年が明けてから初めての投稿となります。どうぞ本年もよろしくお願い致します。

2月は暦の上では春が始まる立春が訪れますが、まだまだ春とは名ばかりの寒さが続きますが皆様お元気でお過ごしでしょうか。

 

このブログ「旅する禅僧」はタイトルの名の通り、日々の出逢いや、旅をする中で発見したこと、考えたことをテーマにして毎回ブログを投稿しています。

今回ブログを作成するにあたってコロナ禍という自粛制限の多い中で、中々外出することが出来ず何を書いたらいいのかと正直悩んでいました。

 

この自粛生活の中ずっとステイホームをしていても気が滅入ってしまうと思い、車のみの移動であれば公共交通機関と異なり、他人と接する機会も全くないと考え、気晴らしに家族で久しぶりにドライブに出掛けることにしました。

車に乗って自分が住む市を少し離れるだけで心に降り積もったストレスが少し掃き清められたようなそんな爽快感を味わうことが出来ました。

 

 

 

そんな穏やかな空気の車中でふと妻とこんな話題になりました。

 

 

 

「あなたの座右の銘は何なの?」

 

 

 

「ちゃんと考えたことないけど、高校の卒業アルバムには一期一会と適当に書いた記憶があるなぁ」

と答えると、「お坊さんらしくていいね」と返ってきました。

 

帰路に就いてから「一期一会」という言葉を辞書で調べてみると、「一期一会」という言葉が仏教用語から成り立っていたことに驚かされました。

 

「一期」は、仏教用語の「一期」で人の生涯の間を表します。

「一会」も、仏教用語の「一会」で多くの人による集まり、会合を意味します。

 

この「一期」と「一会」が合わさって「一期一会」となります。

 

一期一会とは「一生涯に一度の会合」つまり一つ一つの出逢いは再び繰り返される事はないので、その時その時の出逢いを大切にしなさいという意味になります。

もちろん出逢いとは人と人だけのことだけではないと思います。例えばきれいな景色を眺めたり、芸術品に触れたりするのも一期一会だと思います。

出逢うものすべてに対して心を込めて触れ合い、その瞬間瞬間を丁寧に向き合うことで「一期一会」を大切にする心を積み重ねていきたいものです。

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『旅する禅僧』がオンライン坐禅会を開催します。

毎週水曜日このブログを書いてている僧侶が

オンライン坐禅会を開催します!

旅する禅僧と一緒に坐ってみませんか??

 
日にち:2月7日
時間:19時~(18時55分~部屋を開けます)
Zoom ID:81375609248(パスワード無し)
 
zoomで開催しますが、もちろんカメラを切って参加して
いただいても結構です。
坐禅が初めての方でも大丈夫!!
たくさんのご参加お待ちしております。

全部雪のせい?

 みなさんこんにちは尚真です。つい先日、二十四節気の一つである大寒を迎え、暦の上では、まさに今が寒さの一番厳しい時期と言われています。実際は今週になってだんだん暖かくなってきましたが、空気も乾燥していますので、体調管理には十分気を付けて頂きたいと思います。

 

 そんな冬の楽しみと言えば、スキーなどのウィンタースポーツが思い浮かぶ方も多いと思います。寒い冬が苦手な私も、学生時代からつい数年前まで、趣味でスノーボードをやっていました。毎年冬になるとスノーボードをしに東北や信越地方のスキー場に友人達と出掛けていたのを思い出します。

 

 冬の朝は日の出も遅く、出掛ける時間は大抵辺りは真っ暗です。高速道路に乗って雪山に向かう道中でだんだん周辺が明るくなってきて、川端康成の「雪国」の様にトンネルを抜けた途端に辺り一面銀世界になっていった時は、雪が降らない地域出身の人には、何度見ても興奮を覚える光景だと思います。

 

 スノーボードを長年していて思う事は、スキー場は他のリゾート施設に比べて比較的マナーが悪いように感じていました。それは、雪景色から来る非日常感やゴーグル等で顔が見えない事で普段はあまり取らない様な行動を、スキー場ではついしてしまうのでは無いかと実体験から感じます。

 

 そんなスキー場で最も問題となっていたのは、滑走可能エリア以外の滑走禁止エリアでの滑走では無いでしょうか。スキー場は安全に滑走出来るように、オープン前に圧雪と言って軽く雪を固めてあります。その整備されたエリアを滑走可能エリアとしてロープ等で仕切ってあります。

 

 しかし固められていないパウダースノーを求める人、木立の中や複雑な地形などのスリリングな滑走を求める人が、仕切りのロープを潜って滑走禁止エリアに入って行ってしまうのです。誰か一人が入っていくと、雪面についた板の跡を追って次々と人が入って行きます。

 

 滑走禁止エリアは、雪崩の可能性がある、怪我や事故が起こっても発見が遅れて重大な事故に発展する可能性があるなどの理由で、スキー場が危険と判断して滑走禁止としています。もしそこで事故が起きれば多くの人に迷惑が掛かる事は容易に予想できます。

 

 正直に言うと、私も禁止エリアに立ち入ってしまう人の一人でした。当時は雪崩を引き起こしてしまうかもしれない事、怪我をして動けなくなってしまったら誰にも発見されないかもしれない事、多くの人に迷惑を掛けてしまうかも知れない事等を全く考えずに、ただ自分が楽しむ事しか考えていませんでした。

 

 そういった行為が常習化し、どんどんエスカレートして行く事で、年を重ねる毎に小さな怪我をする事が増えて行きました。そんな頃に僧侶になるため修行道場に行く事になり、暫くの間スキー場から足が遠のき、それ以来スノーボードはきっぱり辞めてしまいました。

 

 道元禅師は善い行いも悪い行いも必ず結果として現れるとされています。そしてその結果がすぐに現れなくてもいつか必ず現れるので、日常的に己を律しないといけないと説かれています。

 

 もしあのまま危険な滑走を続けていたら、大きな怪我や事故を起こしていたかも知れない。また誰にも迷惑を掛けていないと、自分勝手で浅はかな考えでルールを破り続けていたかも知れない。そう考えると怖さや恥ずかしさで複雑な気持ちになります。

 

 つい先週、同じような事で大きな失敗がありました。山の草刈りをしたのですが、刈ったゴミの処理について近所の方にお叱りを受けてしまいました。自分勝手な解釈をしてゴミの片付けを怠った為、用水路にゴミが詰まって水が流れなくなってしまったのです。自分の浅はかな考えのせいで、無関係の人に迷惑をかけてしまいました。

 

 自分の都合の良い解釈で、人の迷惑を考えずに行動してしまう事が常習化してしまっているのでしょうか。過去の苦い経験を活かす事が出来ず、人に迷惑を掛けてお叱りを受けると言う悪い結果が現れてしまいました。私自身も行動を顧みつつ、読者の皆さんも私の様な失敗をしない様に思って頂けたら幸いです。

 

 

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雪が全てを隠してくれる訳ではありませんね

 

而今に学ぶ。19

 こんにちは。俊哲です。私にとっては2021年最初の投稿です。本年もよろしくお付き合い下さいませ。

 

 さて、世間は先行きの見えないコロナ禍ではありますが、不安を煽るメディアの報道のあり方を指摘する声も高まってまいりました。それぞれに情報を精査しながら、自分の生活と社会生活のバランスを保ちたいなと思うのであります。

 

 今日は、およそ3年前に南米のブラジルで開催された、禅の大会に参加した時のことをお話ししたいと思います。

 

  

 私が参加した禅の大会は、南米大陸におられる曹洞宗の僧侶達を中心に、各国で仏教や禅を学ぶ皆さんの大会で、皆で坐禅をし、各地での布教の様子や意見交換を行い交流を深めるといったものでした。参加した日本人はブラジル在住の日本人僧侶と、そのタイミングで南米に滞在していた僧侶と私との3人で、ほとんど全員が南米出身者たちによって催されたものでした。

 

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南米の皆さんとの坐禅と法要の様子



 ブラジルのフロリアーノポリスという島で開催されました。大西洋に浮かぶこの島はブラジルの人にとっては避暑地として、アルゼンチンの人にとっては海水浴地として人気があり、風光明媚なこの島の、元々はキリスト教修道院だったという場所にて開催されました。

 

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会場となった元修道院の教会

 この修道院だった建物は現在も地元の人達が通う教会として機能しており、期間中もミサが行われておりました。また、利用するに不敬ではないと判断された時にだけこの施設を利用することが認められ、この時も南米の禅の大会に是非にと、非常に好意的に私たちは迎えていただきました。

 

 期間中、私に与えられた部屋は、かつては修道士が暮らしていたというもので、簡素に作られたその部屋は何もなく、しかし小さな石造の部屋でありながら不足を感じることはありませんでした。かつての住人と私とは、宗教も、人種も、時代も違いながら、私の「今、ここ」に置いて信仰という部分で共感するのではないだろうかと思いを巡らした部屋でした。

 

そんな感動を覚えながら耳を澄ますと、部屋の外から波の音が聞こえてきます。庭に出ると、小高い丘の上に立つこの教会からは大西洋を眺めることができました。

 

 休むことなく日本から飛行機を乗り継ぎ、時差ぼけを時差ぼけと感ずるに未だ至らぬその時の私は、体のバランスをいくらか崩しておりました。体のバランスを崩すと、心の持ち方にも変化があるようです。

 

というのも、その時眺めた海はなんとも幻想的で、私は今までにない深い感動を覚えました。海には間も無く沈もうとする真っ赤な太陽が、海も空も、その一切を真っ赤に染めながら輝いておりました。沈もうとするその陽の方角には見えずともアフリカ大陸があり、日中、庭で眺めたアフリカからの渡り鳥が巣に飛び帰る姿も赤く染め上げておりました。

 

言葉には言い表せないこの感動はなんなのだろうか…

陽が沈みきり部屋に呼ばれるまで立ち尽くしておりました。

 

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大西洋に沈む夕日

 

私は今日、日本からこの地にきて、この景色に出会ったからそのように思ったのでしょうが、私がここに来るずっと前からこの教会は日が昇り沈みゆくのを何百年と経験しているのです。

そしてこの教会が建つ何千年も前からこの地はこの美しき光景が繰り広げられていたのです。私がこの場所に居ても居なくても、私がわざわざ美しいと思わなくても世界は輝いており、そこには”美しくなろう”という作為など当然全くないのです。

その事実が、私の頭をバーーーーンと叩いたような衝撃を持って感じられました。

 

そんなこと誰でもわかるよ!と声が飛んできそうですが、このことを頭で理解することと、深い感動とともに実感するのとはまったく違うのではいかと思うのです。

 

 私がいなくても、出会わなくても、日は昇り沈んでゆきます。きっと今日もあの教会からは真っ赤な夕日を眺めることができるでしょう。

「私がいなくてもこの世界は変わらない」と、常々思っております。きっとこの先も、この思いは変わらないのだろうと思います。

 

 しかし、そんな私の思いなんて関係なく、気がつけばあの時、私自身も辺り一面と同じように夕日に真っ赤に照らされていた。そのことを忘れることはないでしょう。

 

 私が、美しいと知覚するまでもなく夕日は私を照らして居たこと。きっと、その姿にこそ輝く命を生きる”私”の用い方があるのだと感じました。

 

 道元禅師の残された「諸仏の常にこの中に住持たる、各各の方面に知覚を残さず。群生のとこしなへに、この中に使用する、各各の方面に知覚を残さず」という言葉を読むとき、この時の光景を思い出します。

 

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日中の教会の庭の様子。敷地内では多くの野生動物を見ることができた。

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各地の仏教徒が応量器や線香、テキスト等を持ち寄り、交換、販売していた。日本のようには仏具が揃わないため、工夫しながら弁道に励む姿に非常に刺激を受けた。

 

年のはじまり

みなさんこんにちは!
光彬です!
いかがお過ごしでしょうか?
緊急事態宣言が発令され、心地よい生活が
出来ない中かと思います。ですが、
どうか耐えてください。一人一人の努力と気遣い、
想う気持ちが、知らない誰かを、そして
みなさんの大切な人を救います。

さて!
年が明けて早2週間近くが経過しました。
再びの緊急事態宣言が出てしまいましたが、
私がいる山梨のお寺でも少しずつ、
自粛していた法事をしたいとご連絡をいただいています。

先日、年が明けて最初のご供養の日でした。
その日の本堂は特に冷えきっていて、ご家族が
いらっしゃる2時間前にストーブ4台をフル稼働して
迎える支度をしていました。
25人で来たいと言っていた所を、自粛等もあるからと
10人まで減らして、配慮をしてくれました。
時間の15分前になり、8人が集まりました。
もう来るだろうと、お焼香用の香炉に炭入れをしたり、
蝋燭の火を灯したり、いつ始めても良いように
準備をしていました。

3分前になり、家族もどうしたのだろうと
そわそわしだしました。私は、ちょっと遅れる分には
待っていようと思っていましたが、
なかなか来る気配がありません。
電話も繋がらない、近くまで来たのかも分からない、
そんな状態が続きました。

結局、電話があったのは法要開始予定時刻から
45分経ってからでしたが、
私はその前から少しずつイライラしてきていました。
こっちだって寒いなか、少しでも
ご供養に心が向けられるようにと
暖房を付けたり階段を掃いてキレイにしておいたり、
トイレの掃除をしたり、不快に思わないようにと
支度をしたつもりでした。

法要が開始したのは電話が繋がってから
約2時間経過した頃でした。
ご家族も、先に始めてくださいと言ってくれましたが、
意固地で何とも言えない苛立ちのせいで
待ちましょうと、思ってもない気持ちを口に
していました。


ようやく全員が揃い、無事に17回忌の法要を
済ませることができました。
苛立ちの中でした法要は、自分でもかなり
気持ちの悪いものでした。その時、
遅れてきた人は苦笑いしながら謝ってきましたが、
故人の奥様が涙ぐみながら、
遅れてきた人を待ってから法事をしてくれてありがとうございました。主人とも仲が良かった人でしたから、全員が揃って法事の席にいられて、嬉しい気持ちでした。
と、言ってきてくれました。

その言葉を聞いて、
私の中に、調理器具の焦げのように纏わりついていた
イライラは、一瞬で消えて無くなったようでした。
ご家族をお見送りしてからは、なんで
あんなことでイライラしたのだろう、もしかしたら
昨晩の仕事疲れで寝坊してしまったかもしれない、
ケータイの電波が上手く繋がらないところを
走っている最中だったのかもしれない、
それでも忙しい中来てくれたのに、と
恥ずかしい気持ちになりました。


修証義というお経のなかには
愛語(慈愛に溢れた優しい言葉)がもたらす高徳をお示しになる部分があります。
"人としての善い徳を持っている人は褒めて、
徳の薄い人に対しては憐れみをもって接し、
憎い敵を穏やかに説き伏せ、
権力者同士を和解させて平和へと導く力があるもの、
それが愛語である"

その日、憤りの気持ちに囚われていた私を
穏やかにしてくれたのは、施主さんの優しいお礼の言葉でした。


これは、全てのことに通じることです。
特に今、コロナでたくさんの人が不満を抱き、窮屈な心で
過ごしている時だからこそ、かけられる言葉が
愛語ではないでしょうか?

私自身がまず
相手に優しい言葉を話します。
みなさんも一緒に、実践して貰えると嬉しいです。
素敵な1年にしましょう。

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