旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

くも

こんにちは。哲真です。

 

暖かい日や寒い日など気候に変動があります。皆様、健康には気を付けてください。

 

梅雨に入ると紫陽花が咲き、雨に濡れている境内に飾り付けをしてくれています。

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それと同時に、クモの巣があちらこちらに大量にできる時期でもあります。できるだけ掃除はするのですが、どうしてもすぐに別な場所にできてしまいます。

 

クモは、「害虫を食べてくれるので殺してはいけない」「朝のクモは縁起が良い」などと言われます。それを考えるとクモの巣を掃除することはどうなのかと考えてしまいます。

 

そんなクモの巣の掃除をしているといつも「蜘蛛の糸」を思い出します。芥川龍之介が書いた児童向けの短編小説です。

 

人を殺したり家に火をつけたり、いろいろと悪事を働いた大泥棒の犍陀多(かんだた)が、たった一つ善いことをしました。それは、林の中で見つけたクモを殺そうとしたのですが、命あるものだから殺してはかわいそうだと思い返し助けてやったのです。

犍陀多は死んで地獄に落ちたのですが、御釈迦様は一つだけ善いことをした犍陀多を、蜘蛛の糸で地獄から救い出してやろうとします。

結果的には、その蜘蛛の糸で助かりそうになるのですが、自分だけが地獄から抜け出そうとする無慈悲な心を出し、糸がきれて元の地獄へ落ちてしまうお話です。

 

殺生はやはり良いことではなく、生きる物を大事にすること、それに自分の事だけを考えるのではなく、みんなの事を考えようという事が書かれているのだと思います。

 

今回のコロナ禍でも、この県や地域では、コロナ感染者がいないからマスクをしなくても大丈夫だとしていない方を見かけますが、マスクをするのは自分がかからない為だけではなく、もしかしたら発症してはいないがウイルスを持っている可能性があるので、みんなにうつさないようにマスクをする必要があります。

 

自分勝手な行動は自分を不幸にします。自分を幸せにしてくれるのは周りの方々です。ですからみんなを幸せにすればあなたにも幸せになれるということを忘れずに日々過ごしていきましょう。

 

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クモの巣でいろいろな事を考えさせられた一日でした。

 

子供の笑顔に癒されて

 

みなさん、こんにちは。向月です。

6月になり、だいぶ季節が進んだように感じます。

場所によってはすでに猛暑日を記録したところもあるようです。

今年の春は、新型コロナウィルスの影響で季節を感じる暇がありませんでしたね。

最近、空を見上げると入道雲が出ていたり、夕立が降ったりと夏が近づいてきたことを感じます。

 

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(東京都日野市 高幡不動尊の仁王さんもマスク姿です)
 

 

先日、ご法事のため、あるお宅にお邪魔しました。

コロナの影響で霊園のホールが使えず、ご自宅での法事となりました。

いつもなら法事の後のお斎(お食事)はホールの方がご用意していただけるのですが、この日はご自宅ということもあり仏間の隣の部屋ではご家族がお斎の準備をされておりました。

そこでは、そのお宅のお子さんも一緒にお手伝いをされていました。小学生に入る前、保育園の年長さんの女の子でした。

お斎の準備をみながら「なんだか、パーティーみたいだね~。パーティーだー!!」と言ってはしゃいでいました。

周りの大人たちはその光景にとてもなごんでおりました。女の子のお母さんだけは「お爺ちゃんの法事なんだかなね。静かにしてなきゃダメだよ」といって女の子を落ち着かせようとしていました。

女の子は私のところまできて

「お坊さんも、パーティーしに来たの?」と聞いてきたので。

「そうだよ。その前にお爺ちゃんに手を合わせようね。」と伝えました。

女の子は「お坊さんもパリピだね」と言い、ケラケラと笑っていました。

みんなが、その言葉でいっせいに笑い出しました。私も笑いました。

ご法事という場に、パーティーという言葉が不釣り合いでした。しかし、そんな女の子の楽しそうな言葉や輝くような笑顔に一同が癒され和やかな雰囲気になったのです。

 

 

「和顔愛語」という言葉があります。穏やかな笑顔と優しい言葉を意味するものです。

やさしい笑顔から繰り出される言葉は、周囲の人を笑顔にし、笑顔になった方々がやさしい言葉を話す。この女の子は、まさに和顔愛語を実践していました。

こうした、和顔愛語がどんどん伝染していくと良いですね。

 

今、世界は目に見えないウィルスと戦っています。薬の開発や予防方法が少しづつ進んできています。

目に見えない恐怖は、ひとの心も蝕んでいきます。険しい顔をして言葉で攻撃しあう世の中になっては生きづらくなってしまいます。

そうならないように「和顔愛語」が世界に広がっていけば良いなと願っています。

 

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(紫陽花が見ごろです。)

手放す勇気

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みなさん、こんにちは。慧州です。全国的に梅雨に入り、傘が手放せない季節になりました。梅雨と聞くと少しじめじめした気持ちになるかもしれませんが、「青梅雨(あおつゆ)」という言葉があるように、降り注ぐ雨粒によって草木の緑がとても綺麗に映えます。また、坐禅をしている時(あるいは何か没頭している時)に外から雨の音が聞こえると、とても落ち着きます。感じ方ひとつで大きく変わる梅雨なのだと最近気がつきました。

 

話は変わりますが、みなさんは大切にしているものはありますか?例えば、家族や友人といった身近にいる人、幼い頃から大事にしているぬいぐるみや故郷の味、帰り道にいつも聴く曲や尊敬している人物の言葉など、人それぞれあるでしょう。何かを大切にする気持ちがあるからこそ、私たちはそれに支えられ、前を向いて生きることができます。

 

しかし、仏教では「人や物に執着することは苦しみを生む」と説かれています。つまり、大切にしているものを思うことですら一種の「執着」として否定されるのです。なぜなら物事は無常で移ろいゆくものであり、私たち自身もいつかはこの世を去り、大切なものを手放し別れなければならないからです。とても厳しい言葉だと思います。

 

私も「執着してはいけない」と頭では理解しているものの、中々実践することができていません。

「大切な人を失ったらどうしよう」

「お金がなかったらこの先どうなってしまうんだ」

「あれが欲しいこれが欲しいもっと欲しい」

心のどこかで執着し、その思いに振り回されています。それでもお釈迦様は手放せとおっしゃるのです。では具体的にどうすればよいのでしょうか。

 

先日、私はある出来事の中でそのヒントをもらいました。それは二歳になる息子との出来事です。息子はちょうどイヤイヤ期の真っ最中であまり言うことを聞いてくれません。私も頭を悩ませる毎日です。そんな息子が今とても大切にしているものがあります。

 

それはピンク色のタオルケットです。いつも寝る時にかけているタオルケットですが、何か不安があるといつもその端を手に取って親指をしゃぶっています。心理学では「セーフティーブランケット(安心毛布)」と呼ぶそうで、自我が芽生える過程における成長の証とされています。

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ある日、息子は手に持っていた麦茶を誤ってタオルケットにこぼしてしまいました。私は慌ててタオルケットをとりあげ、洗濯機に持っていきました。すると息子は途端に口をへの字に曲げ、大声で泣き出したのです。「大事なものをとられてしまった」という思いから、息子は私の足にすがりつきました。しかし、既にタオルケットは洗濯機の中。しばらくすると息子は泣き寝入りしてしまいました。

 

息子が寝ている間は貴重な自由時間なので、私は洗濯が終わるまで息子の隣で読書することにしました。ただ、疲れていたのか、気がつくと私もうとうと寝入ってしまいました。

 

どのくらい時間が経ったのでしょうか。何やらクシャクシャと鳴る物音に私は起こされました。寝ぼけ眼をこすりながら見ると、息子が何かをいじっているようでした。手元を見てみると、なんと先ほどまで私が読んでいた本をグチャグチャにしていたのです。

 

私は慌てて「返しなさい!」と叱りました。しかし、息子は笑って誤魔化し、ついには本を投げ捨ててしまいました。思わず私は「なんてことをするんだ!」と怒鳴りました。大声に驚いた息子は泣きながら母親の元に行きました。

 

私は少し後悔していました。息子を強く叱り過ぎたことはもちろんですが、それ以上に「私の本」をぞんざいに扱ったことに対して怒りを覚えていたと気づいたからです。そこにはまぎれもなく本に対する執着がありました。息子がタオルケットに執着していたのと何ら変わりないのです。

 

その後タオルケットは無事に洗濯が終わり、乾燥しました。乾燥したてのタオルケットを抱える息子はとても幸せそうでした。私は少し気まずい思いを抱きながら、そんな息子を見ていました。

 

すると、息子は驚く行動をとりました。私の方を見るや否やタオルケットを持ってこちらにやってきて、おもむろにタオルケットの端を私に差し出してきました。まるで「これを持つと安心するよ」と教えてくれているようでした。彼にとってタオルケットは万能薬なのでしょう。言葉をまだ話せない息子なので、真意はわかりませんが、もしかしたら落ち込んでいた私を息子なりに慰めようとしてくれたのかもしれません。私は恥ずかしさと嬉しさが入り混じった気持ちになりました。

 

人はどうしても何かに執着をします。それは自我があるからこそであり、貪りの心があるからです。自分が一番可愛いと思うからです。ですが、そのこだわりや思いが実は自分自身を苦しめる原因にもなります。その執着を手放すことは難しいかもしれません。

 

しかし手放す勇気を持つ第一歩として、他人と喜びを共有することはできます。コンビニで会計をした際に、余った小銭を募金箱に投じることでもいいです。「このパン美味しいよ」と友達に一口あげることでもいいです。「この映画とっても面白いよ」と教えてあげることでもいいです。あるいは笑顔をみせるだけでも相手も笑顔になるかもしれません。人それぞれやり方はきっとあります。

 

喜びという名の灯火を独り占めしていてはいつか消えてしまいますが、誰かに火を分ければそれは2倍の喜びになります。見返りを求めることなく、ちょっとでも手放すことができた時、人は自由になれるのではないでしょうか。

脚下照顧

こんにちは。拓光です。

 

入梅が近づき不安定な空模様のこの頃、いかがお過ごしでしょうか。

 

 

突然ですが、皆さんは道に迷った経験はありませんか。

きっと誰しもが幼い頃に迷子になった経験があるかと思います。

 

実は私自身とても方向音痴でして、よく家族に迷惑を掛けます。年に数回、僧侶を対象とした勉強会が都心で行われるのですが、東京に出向く度に毎回迷子になってしまいます。我ながら方向音痴のプロだなと自覚しております。

 

しかし方向音痴のプロなので、早く見付けてもらうにはどうしたらよいかも人一倍心得ています。

 

 

 

それは…

 

 

 

 

 

「迷ったら動かないこと」です。

 

 

 

まずは立ち止まって自分が今どこにいるのかを確認することです。

逆に一番やってはいけないことは自分がどこにいるのかもわからず、四方八方を探し回ることです。

 

 

仏教には脚下照顧(きゃっかしょうこ)という教えがあります。「脚下」とは足もと、「照顧」とは顧みるということ。

つまりこの教えを簡単に言いますと靴をしっかりと揃えましょうとか、自分自身の足下に気をつけなさいといった意味があります。

それだけではなく現在自分の置かれている状況(脚下)をしっかりと確認し、よく見極めてから行動をしなさい(照顧)という意味もあります。

 

これは私達が日々歩んでいる人生に関しても同じことが言えると思います。

皆さんも「人生の目標が見付からない、人生をどのように歩んだらいいのかわからない」、またこのコロナ禍の中で「どのように生活をしたらよいのかわからない」などの沢山の悩みに出会うことがあるかと思います。

そのような時もまずは立ち止まって考えることが大切です。

 

悩みや問題に対して「今どうするべきなのか、自分はどうしたいのか」と冷静に考えることで、おのずと問題解決の為の糸口が見えてくると思います。

人生を前向きに歩むためには一歩を踏み出す勇気も大切ですが、時には立ち止まる勇気も必要なのではないでしょうか。

 

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アフターコロナでの気付き

 皆さんこんにちは尚真です。この間の週末は、緊急事態宣言が全国的に解除されてから初の週末となりました。皆様はどのような週末を過ごされたでしょうか。

 

 緊急事態宣言は解除されましたが、昨夜には「東京アラート」なる新たな警戒呼びかけもありました。全国的に見ても、未だに新規の感染者は数十人程確認されていますし、クラスター感染の疑いのある事例があり油断が出来ない現状が続いていると思います。

 

 やはりワクチン等の治療薬が開発されるまでは、「withコロナ」の生活を強いられる状況です。今まで通りの日常が戻る日が来るまで、一人一人の行動が、周囲の人々の健康を守りもするし、脅かしもするという気持ちで日々過ごしていきたいものです。

 

 とは言うものの、緊急事態宣言が解除されて、今まで外出自粛要請の中で我慢ガマンの生活をして来た分、やはり多少はお出掛けしたくなってしまう事と思います。その際は、「ソーシャルディスタンス」を確保して、「三密」を避けて、帰宅後の「うがい・手洗い」を忘れずにお願いします。

 

 私の住む茨城は、緊急事態宣言中は「特定警戒都道府県」との事だったのですが、新規の感染者が暫くの間出る事が無く、東京などよりも一足先に宣言解除になりました。それまで自粛生活をしていたので、気分転換にと天気が良い日に家族とお出掛けしてきました。

 

 お出掛けと言っても向かった先は、車で5分位のところにある自然公園。コロナ禍でテイクアウトを始めたレストランでお昼ご飯を買って、芝生の上にシートを引いてお昼を食べてきました。公園には割と多くの人が訪れていましたが、みな「密」にならないように工夫しながら思い思いに過ごしていました。

 

 食後に心地よい風に誘われて少しウトウトしていましたが、ふと辺りを見渡すともうすっかり新芽も芽吹き、緑が萌える新緑の季節が訪れている事に気付きました。季節の中でも生命の力強さを感じる事が出来る新緑の時期が、私は一番好きです。

 

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 自粛期間中はあまり外に出掛けることも無く、出掛けたとしても周りの人との距離を気にしながら足早に用を済ませる程度でした。暦の上では今は5月だという事は分かっていましたが、こんなに緑が芽吹いて気持ちの良い季節になっている事を、この時初めて認識しました。

 

私たち人間がコロナウィルスによって大混乱し、外出自粛で外に出ない間も、植物は私たちが気付かないうちに、今年もいつも通りに新たな芽を吹き、多くの若い葉っぱを茂らせていました。

 

 お釈迦さまはお悟りになった際、「有情非情同時成道」、つまりは人間だけではなく、動物や草木、大地なども等しく、仏としての性質を備えているのだと仰っています。地球に暮らす中で、私たち人間は特別な存在では無いのだという事を、大自然は教えてくれています。

 

 「アフターコロナ」で私たちの生活様式が大きく変化しいて行く事が予想されています。人との接触を減らすという意味で、最近利用が始まった5Gの利用普及が拡大するなんていう事も言われています。これを機に是非、環境に配慮された、地球に優しい生活様式も普及すればいいなと思う初夏のこの頃です。

 

而今に学ぶ。15

 こんにちは。俊哲です。皆様いかがお過ごしでしょうか。緊急事態宣言が解除され、いくらかなりの開放感と、まだ解決したわけではない恐怖心を抱きながらの日々が続いております。

 

自粛が叫ばれ、私も基本的にはお寺の外に出ることなく日々を過ごしておりました。緊急事態宣言が出てからはお寺にお参りに来る人の数も減ったので、そのぶんその毎日は坐禅をしたり、経を詠んだり、祖録を読むということに時間を使っておりました。

 

 その中で、ジャンブーの樹について仏典を調べておりました。このジャンブーという植物は、ムラサキフトモモと言う植物で、別名アマゾンオリーブとも呼ばれます。お釈迦様が初めて瞑想・坐禅をしたのがその樹の下だと聞いたことがありました。原産はインドや東南アジアで、観賞用として日本でも流通しております。私も南アジアの国々を旅した時には、このジャンブーの実をよく食します。非常に渋みのある紫の色をした実で、塩とチリスパイスを共に袋に入れて混ぜ合わせて食べます。古くから、そうした国々では成人病の薬としても食されております。

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ジャンブーの実を販売する男性。手前の黒っぽい実がジャンブー。(🇧🇩Bangladeshにて)

そのジャンブー樹を私は育てていて、冬の間は小さい温室で越冬させているのですが、この時期に温室から出してあげるので、合わせてその樹がどのようにお釈迦様に関係があるのか調べ直しておりました。

 

お釈迦様が初めて瞑想坐禅をされたのは幼少期のことで、お父様浄飯王に城の外に連れ出された時のことでした。

お釈迦様は、釈迦族の王子として育ち、お城の外のことを全く知らずに育ちました。それゆえに、城の外でみた光景があまりにショックだったのです。

仏典ではその様子を「田植えの時期に、王が側を通るのにも気づかず働く。流れる汗が乾き白く塩を噴き、働きづめの牛は足を止めそうで、それを追い立てる人間も牛と劣らず疲れ切っている。それでも休もうとせずに少しでも耕そうと働き、その掘り返された土には虫たちが顔を出す。その虫達を狙い鳥達が群がり、我先にと必死に取り合いついばんでいた。」と伝えています。

 

若き日のお釈迦様は「鳥達は同じ仲間であるのに争い、強いものが弱いものを押し退け、逃げることのできない虫を啄んでいる、人々は疲れ果てているが、同じように疲れ果てている牛に鞭を打ち、追い立てるように働いている。この世は苦しみに満ちている」と思われたそうです。

王子として城内で不自由なく暮らす自分の存在と、城の外の世界に混乱し、お釈迦様はお父様の元を離れ、ひとり静かに座られたのがこのジャンブーの樹下でした。

 

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若き日のお釈迦様が王子として暮らしたとされるカピラ城の様子。現在未だ発掘途中。写真はお釈迦様が出家された時に城外に出られたとされる東門から城内を見た様子。(🇳🇵Nepal)

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カピラ城周辺の現代の様子。

 私のいる寺では、生ゴミや痛んでしまった果物はまとめて境内の奥にある雑木林に撒きます。周りの植物の栄養になるほか、それらを当てにした動物達の餌となるからです。いつも決まって母がそれらを台車に乗せ雑木林に向かうのですが、周りの木の上からカラスがその様子を伺います。賢く、人間と生活が近いカラスは母が台車を用意する頃から、遠くのカラスにもそのことを伝え鳴き始めます。

 そして撒いて帰ってくる頃にはカラス達がついばみ始めるのですが、決まって喧嘩をするのです。時には、食べものではなく、境内の掃除した枝葉を集め台車に乗せて運んでいても、いつもの場所に餌を運んでいると思いカラス達はその場を探し始め、終いにはそこに餌がないのに探す優先権をかけて争いを始めます。

母は、餌となるものを撒く時にはカラス達に「喧嘩しないでね」と声をかけるんだと言っておりましたが、思い虚しくカラス達は喧嘩をし、また他の動物達も縄張り争いを行います。

 

 

 若き日のお釈迦様は、このカラス達のことを見ても同じように苦しく感じられたのだろうと思います。

お釈迦様は『鳥達は馬鹿だなぁ』と自分と比較をするのではなく、その光景を見た自分に思いを向けられたのです。

 

世界とはそういうものです。動物は馬鹿だと思った人間も、お金を求め、利権や優先権を求め、最近だとこのコロナの影響でトイレットペーパーやマスクを求めて我先にと争い合っておりました。

 

醜く、苦しいのです。でも、そう感じるのは、感じることができるのは「私」自身に他なりません。

お釈迦様も感じられたこうした出来事を通し、ではどのように行動するのか、自分の生活はどうしたら良いのかと疑問を持つことが、この世界を苦しむことなく生きるための第一歩となります。

 

若き日のお釈迦様の苦悩する姿に寄り添ったように、私がそんなことを考える日々もまた、ジャンブー樹に見られているようでした。

 

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写真中央に生える木がジャンブー

 

みなさまこんにちは!
光彬です!ご無沙汰しておりますm(__)m

コロナ渦中いかがお過ごしでしょうか?
身心ともにご健康でありますよう
祈念致します。


コロナウイルスによる外出自粛が始まり
早1ヶ月半ほどが経ちましたでしょうか。
只今東京のお寺で修行をさせて頂いていますが、
私は典座寮という食事を司る部署におります。
日々、他の指導者役の僧侶や修行している者のために
食材の購入等をしていますが、自粛直前にも
買い出しに行かなくてはなりませんでした。

お店に到着するやいなや、目に飛び込んできた光景に
驚きました。
ほとんどの品物が売り切れていて、
かろうじて置いてあったのは少し傷んだ野菜や
単品では調理できないもの、調味料などでした。
仕方がないので傷んだ野菜を少しと調味料を
購入して戻りました。
他のところはどうなっているだろうかと思い、
もう一ヶ所よく行くスーパーに行きました。
結果は同じでした。

この出来事に、寂しさを感じました。
世間にはたくさん、人と人の思い遣りを大切にすることを促す言葉や広告、行事があります。
ですが、今回のこの事は自分のこと、或いは
自分の家族のことしか考えていない者が
多かったということではないでしょうか。
もちろん、先の見えない自粛生活への不安、いつどこで取り込んでいるか分からないウイルスへの恐怖、情報の混迷、様々な不安がさせた行動だと思います。
だからこそみんなが不安の中にあるときこそ
一人一人が互いに思い遣りの心をもつべきです。


仏教の御教えの中では
他者への施しの気持ち、分け与える気持ちを
持たない者は憐れでありそれによって賤しいと
いわれます。

私は、今まで災害や困難に遇った時、
日本人は穏やかで暖かく
協力的で知的であると感じます。
世界を巻き込むコロナウイルスとの戦いも
克てると信じます。
自分自身も施し、協力の気持ちをしっかりもち
頑張りますので、どうか心ひとつに
この困難を乗り切りましょう。


「人は行為によって賤者となり、行為によって覚者となる」
ブッダの言葉』よりf:id:tabisuruzensou:20200520182505j:plain