旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

大きな木の下で

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みなさん、こんにちは。慧州です。すっかり梅雨が明け、ジリジリと灼けるような暑さがやってきました。そんな猛暑の中でも、道を歩いていると至るところにセミの抜け殻を見つけることができ、成虫になった彼らは残り僅かの命ではありますが一生懸命鳴いています。

 

先日、久しぶりに図書館へ行きました。コロナの影響で長らく行けなかったため、やっとの訪問。ただ以前と同じように自由に利用できるわけではなく、感染予防のため時間制限のある予約制となっていました。その日は予約した時間より早く着いてしまったため、どこかで時間を潰さなければなりませんでした。普段であれば喫茶店に入って時間を潰せばいいものの、どうしても人混みが気になってしまい、仕方なく近くの公園に行くことに。

 

公園には大勢の人が集まっていました。炎天下の中、スケートボードの練習をしている若者たち。ランニングコースでひたすら走っている人々。既に夏休みに入ったのであろう小学生の子どもたちが虫網を持って駆け回っている姿。それぞれが思い思いの時間を過ごしていました。

 

私は大きな木の下にあるベンチで読書することにしました。とても暑い日でしたが、木陰に守られたその場所は風が通るととても涼しく感じられました。不思議なことに、周りではけたたましくセミが鳴いているにも関わらず耳障りには感じません。ある人から聞いた話ですが、外国の方は日本のアニメで夏の背景音としてセミの声が鳴いていても、ただの騒音にしか聞こえずやかましいと思うそうです。生まれた時から慣れ親しんだセミの声に、日本人はどこか夏の情緒さを感じるのだなと思います。

 

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ベンチで座っていると、ふと幼い頃よく口ずさんだある童謡を思い出しました。

 

大きな栗の木の下で

あなたとわたし

仲良く(楽しく)遊びましょう

大きな栗の木の下で

 

とても短い歌で、誰しもが一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。幼い頃「なぜ木の下では仲良くしなければならないのだろう」と不思議でしたが、今こうしてベンチで座っているとなんとなく理解できるような気がしました。

 

木は誰かのために見返りを求めて木陰を作っているわけではなく、たまたまそこで木として育ち、光を浴びて結果的に木陰を生み出しているだけです。しかし、人間だろうとセミだろうと全ての存在が平等に木陰を享受することができます。だからこそ、先の童謡では木の下で争ってはいけないと示されたのではないだろうかと思うのです。

 

この木陰のような存在は実は私達の身の回りに溢れています。一言で言えば「お陰様(おかげさま)」という表現です。誰かと挨拶するときによく「お陰様で元気にやっております」なんて言いますが、誰かのお世話になった覚えがなくとも「お陰様」と言うこの挨拶に幼い頃は不思議だなと感じていました。

 

でも実は私たちは知らず知らず「誰かのお陰様」で生きていて、さらに言えば「私たちのお陰様」で誰かが生きています。今生きているこの瞬間もそうです。空気があるからこそ私達は呼吸ができるわけであり、誰かが食料品を運んでくれるからこそスーパーに食べ物が陳列されています。互いに互いを支え合って生きていることを思い出させるために、「お陰様」というようになったのだろうと思います。昔で言うなら「お天道様」という考えに近いかもしれません。

 

コロナによって人との接触が減り距離が離れてしまったように思えても、決してつながりが消えたわけではありません。自粛期間中に話題となった医療従事者や配達業者への感謝はそのことを気づかせてくれた典型例ではないでしょうか。当たり前だからこそ気づきにくいのだと思います。

 

 「(みんなの)お陰様で私は元気です」

皆がそう思えたら、もう少し世界は平和になるかなと思えた木の下での出来事でした。