旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

ほんとうの旅とは

みなさん、こんにちは。拓光です。

延々と続くと思っていた暖かな日も終わり、朝夕には冬の気配が感じられる頃となりました。

そっと吹く風の冷たさの中に、季節が静かに移ろう気配が宿ります。私たちが意識していなくとも変化を迎える。移ろいゆく四季の姿は、そのまま諸行無常の教えを静かに語りかけているかのようです。

 

先日お墓参りにいらした檀家のご夫妻がお寺に立ち寄り、こんなふうに声をかけてくださいました。

「いつも旅する禅僧のブログ楽しみにしていますよ。拓光さん、最近はどこかへ出かけましたか?」

 

「最近は忙しくて、どこにも行けていないですね。『旅する』とついているのに日常のことばかりを書いてしまって申し訳ないです。」とお答えすると、ご主人はにっこりと笑ってからゆっくりとこう語られました。

 

「私も若いときは、どこか遠くへ行きたくて仕方なかったです。がむしゃらに仕事をして、休みの日は知らない景色を見て。今思えば“遠く”や“高み”ばかりを追いかけていました。でも今は家の中で妻と同じ時間を過ごし、朝晩仏壇に手を合わせるだけで、不思議と“遠く”のほうからこちらへ来てくれているように感じます。」

 

そのひとことが、胸にすとんと落ちました。一見すると静かな日常を語るだけの言葉。しかしその言葉が深く胸に染み込みました。

この方は遠くへ行けなくなったのではない。遠くへ行くことだけが“旅をする”ことではないということに、すでに気づいておられるのだと。「遠く」を追わずとも、日常という足元にすでに「深い」世界が広がっていることに気づかれたのだと感じました。

 

私たちは、とかく「遠く」「高み」「もっと先」を求めがちです。
それは物理的な距離だけではありません。もっと成長しなければ、もっと成果を出さなければ、もっと良い自分にならなければそんな心の“遠く”ばかりを追いかけてしまう。

 

けれど仏道の歩みは、その逆を静かに教えてくれます。
仏の悟りは遙か彼方にあるのではない。特別な場所や特別な状態にあるのでもない。今、自分が立っているこの場所、この瞬間に、すでに仏の道があり、仏の教えが息づいているのだと。

曹洞宗の高祖であられる道元禅師様は正法眼蔵・現成公案

仏道をならふというは、自己をならふなり」
とお示しになっています。

ここでいう仏道をならふとは、なにか外側にある特別な教えや知識を学ぶことではなく、自分自身のあり方を深く見つめ、ほんとうの自己とは何かを明らかにしていくという意味です。

 

あのご夫妻の穏やかな笑顔を見ながら、私は「行くこと」と「とどまること」は本来ひとつのものなのだと感じました。

 

“遠くへ行くこと”は自己を探す旅であり、“とどまること”もまた自己を照らす働きです。
歩いていても、とどまっていても、仏は常にそこに在す。わたしたちがそれに気付くかどうかで、その姿が見えたり隠れたりしているだけなのです。

 

それ以来、私は旅の途中で出会う人々、そして日常でふと関わる方々すべてを仏縁として受け取るようになりました。
自分や相手のほんのひと言、ほんの微笑みひとつ、その何気ない言葉やしぐさの中に、きっと道を示す光がそっと宿っています。
遠くばかりを求めず、今ここを大切に生きること。それこそが、仏の教えに導かれた“ほんとうの旅”なのかもしれません。