旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

而今に学ぶ。24

 

 こんにちは。俊哲です。皆様いかがお過ごしでしょうか。

私の投稿日は2月16日。昨日15日は釈尊涅槃会が営まれました。

日本では古くから2月15日をお釈迦様のご命日として、涅槃に入られた(お亡くなりになられた)その日にお釈迦様の遺徳を偲び法要を営みます。

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インド・クシナガラ。大涅槃寺内の釈尊涅槃像

お釈迦様がお亡くなりになられる時のことは経典に書かれ、大般涅槃経などがその代表です。曹洞宗でお通夜の際に読誦される仏遺教経もお釈迦様が涅槃に入られるその時の様子が書かれた経典の一つです。

 

 インド・クシナガラという地にて涅槃に入られるのですが、経典を読むと自身の葬送の執り行い方や、残される弟子たちに語りかけるお釈迦様のお言葉が、今日の私たち仏教徒にも、優しく時に厳しく語りかけてくださっているようにも感じます。

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インド・クシナガラの大涅槃寺外観

 

 お釈迦様の前世のお話をまとめられたジャータカ物語を読むと、シッダールタ王子として生を受ける以前から、どれだけのことを成してきたのか、そしてそれを受けあの時にお釈迦様として悟られ、成道されたということは、忘れたり軽んじてはなりません。

 

 それと同時に、わたしたちと同じように1人の人間としてこの世に生を受け、1人の人間として亡くなられたということも大事なことです。

 

 

 私はインドを訪れる以前、お釈迦様のお言葉を経典で学び、お姿を想像することはあっても、どこか物語の中の超人のように思うことがありました。しかし、初めてインドの仏跡を訪ねた時、人間として生きたお釈迦様のお姿を強く感じました。

 

 

 経典の中には、お釈迦様がお亡くなりになろうとするその時、身の回りのお世話をされた阿難様(アーナンダ尊者)が激しく涙を流されたと伝えられております。(そこでお釈迦様が語られたことは有名なお言葉なので、私はここでは述べませんが、興味を持たれた方はぜひ、ブッダ最後の旅を読んでみてください。)

 

 

私がここで、阿難様のお姿を紹介したのは、

お釈迦様はその教えの中で、”生じたものは必ず滅す”と述べられ、諸行無常という事実を何度も、何度も述べられました。ですから、側におられた阿難様も当然、何度もそのお話を聞いていたはずで、その諸行無常という事実を事実として分かっておられたはずです。

しかし、自身の師匠の死に際して、阿難様は大変に涙を流し、お釈迦様が息を引き取るそのお姿を見守っておられたということです。

 

 そのお姿に、お釈迦様の教えを今日の私たちに繋いできたのは、当然ですが"人から人"だということをこの時期は改めて強く感じます。

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お釈迦様が最後に水を飲まれたという地に建つお堂とお釈迦様の御尊像

 本山での修行中、私が学生時代に大変にお世話になった先生が亡くなった報が届きました。修行中で葬儀に立ち会えないことや、言葉にならない思いに坐禅が苦しくて、時に坐禅中に涙が流れることがありました。「仏教者たる者、諸行無常なのだ!強くあれ!強くあれ!」と自分に言い聞かせ、日々を過ごしておりました。

 

 そんな折、老師に個別に質問をする機会をいただき、当時の私の胸中を話しました。老師は、「お釈迦様も身近の人の死には、きっと同じように涙を流されたよ。流れた涙もいつか渇く。その涙も諸行無常だ。」とお話くださいました。

 

 

 "お釈迦様と同じ"や、"阿難様と同じ"という言葉は、受け取り手次第で全く違った意味を持ち、時と場合によってはその者を驕慢にもします。そう気を付けると、とてもお釈迦様や阿難様と私は同じだなんてことはなかなか言えません。

 

ですが、こうして僧侶の端くれとして、その教えを嗣ぐ末端の者として、涅槃会に際し、人間釈迦牟尼のお姿や、お祖師様達のお姿に大変に励まされております。

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大涅槃寺内の釈尊涅槃像全体の様子

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大涅槃寺参拝前に食事をした門前の食堂