旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

東京パラリンピック2020

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秋の味覚 栗 すっかり秋めいて来ました


みなさんこんにちは尚真です。新型コロナウィルスの影響で1年延期されていた、東京オリンピックが終わり、今はちょうど東京パラリンピックが開催中です。

 

オリンピック・パラリンピック期間を通して世界中の選手・関係者が日本を訪れています。今後ワクチン接種が進めば、私たちも以前のように自由に旅することが出来るのかなと期待しています。

 

私は先週1回目のワクチン接種を行いました。しかし既にワクチン接種が進む諸外国の事例を見ると、ワクチン接種だけでは感染の予防効果は絶対ではないと言います。

 

またワクチンを接種すること自体についても、副反応などの不安が残ります。接種後もしばらくの間は引き続きの自粛生活となりますが、このコロナ禍に出口が見えてきたと信じたい今日この頃です。

 

さて、現在開催中のパラリンピックですが、パラリンピックご覧になっていますか?皆さんはパラスポーツにどのくらい興味をお持ちですか?

 

実は私もこれまではパラスポーツについて特に関心を持っていたわけではありませんでした。そんな折に、パラリンピアンを紹介する情報番組を、開幕前に偶然目にしました。

 

番組内で、病気で目が不自由になってしまったマラソン選手は、「目が不自由に産んでくれてお母さんありがとう!」と満面の素敵な笑顔でインタビューに答えていました。

 

またある両腕が無い水泳選手は、普段は会社勤めをしているそうで、その勤務の様子が紹介されていました。足を使って電話に出たり、足の指でPCのキーボードを打ったりしていました。その様子は私が手で打つよりも高速タイピングでした!

 

アメリカ代表のアーチェリーの選手は、折角日本に来たからと足の指にお箸を挟んでしゃぶしゃぶを食べていました。しゃぶしゃぶを難なく食べ終えた後、彼は「何にでも挑戦したいんだ!」と話しました。

 

紹介されるパラリンピアンの方々の前向きな姿にとても感銘を受けました。そして障害があることを出来ない理由にせずに、直向きに競技や日常生活に取り組む姿勢に、純粋に尊敬の念を覚えました。

 

もしある日突然、視力が奪われる病気に自分がかかってしまったら、もしある日突然両腕を奪われるような事故に遭遇してしまったら。私は彼らの様に前向きになれるのか自信がありません。

 

きっと競技を続けていく上で、また日常生活を送る中で、私たちの計り知れない困難がある事でしょう。そんなパラリンピアンの皆さんが共通して仰っていたことは「競技に出会って変われた」という事でした。

 

障害を持つ人たちに限らず、私たち人間は自分の思い通りにならない様々な事に悩みながら生きています。『生・老・病・死』の四苦に代表されるように、その悩みに囚われ執着する事で苦しんでいます。

 

ましてや私たちが生きる現代においては、世の中が便利になった一方で、その弊害として新たな悩みや苦しみが増えてしまっているように感じます。

 

そんな苦しみから解放されるために『八正道』とされる八つの正しい実践修行を行うことが仏教の教えであり、私たちが行う座禅もそのうちの一つになります。

 

パラリンピアンの競技に直向きに打ち込む姿もこの『八正道』にあたり、そのために選手の皆さんの輝く姿が見られ、応援する私達にも感動が伝わるのでは無いでしょうか。

 

パラリンピックは九月五日で閉会となります。残りの大会期間パラリンピアンの雄姿を目に焼き付けながら、皆さんにも自分自身の『八正道』が見つかるといいなと思います。

而今に学ぶ。22

 こんにちは、俊哲です。

 令和3年度の盂蘭盆会(お盆)も終わり、世間では東京オリンピックの閉会や新規コロナ感染者数の増加、そして間もなく開会を迎える東京パラリンピックを控えております。各地では大雨や、世界を見たらアフガニスタン首都カブールをタリバンが制圧と、我々当事者は、ただ当たり前に迎える毎日をいつの日か激動の時代だったと振り返るのでは、と思いながら日々を過ごしております。本当に一日、一日、無事に生きられることの難しさを感じますね。

 

 私の居る寺ではこの時期、お盆も終わりホッと一息をつきます。

例年であれば、ふらりと旅に出たりするものですが、このコロナ禍ではそれも叶いません。読者の皆さんも同じようだと思いますが、ステイホームでできることを考えました。その中の一つとして、最近私は世界史の復習を始めました。

 

 しかし、別に大学受験をするわけではないので、何か学習の基準となる目標を立てようと思い、世界史の復習から派生して、世界遺産検定の勉強も始めました。

早速テキストを購入し、読み始めると、世界遺産には分類が3種類あることを知りました。聞いたことがあるかもしれませんが、『文化遺産、自然遺産、複合遺産』と呼ばれるものです。

 

 

その他、世界遺産への登録基準となる条件などを読んでいくと面白いことがわかってきます。

 

 既に登録された世界遺産のおよそ80%は文化遺産です。その世界遺産登録数の国別の順位では、イタリア、中国、ドイツ、スペイン、フランスの順で、日本も11位となっています。

 

 そのテキスト中にもありますが、こうした世界遺産登録は、顕著で普遍的価値を有するものを世界が一丸となって保護をするという目的がありますが、同時に観光資源として世界中にアピールするだけの宣伝材料にもなりえます。その中で、観光地化に偏り、本来の趣旨から逸れることには注意が必要としながらも、地元の人たちによって保護されることが大事であるとされ、観光資源となることもポジティブに捉えられています。

 

当然そうした背景もあって世界遺産登録を目指し、各国ロビー活動が行われるので、経済的に豊かな国の文化遺産登録数は多くなります。

 

こうしたことを学んでくると、以前旅をした際に見聞きした情報が思い出されます。

 

“建物の老朽化が進み、取り壊しの話になると、「経済成長のため」「地震国」「高温多湿な日本の気候は諸外国とは違う」という意見がこの日本では多く見られる。しかし、建てては壊すという、いわゆる新規の建設需要で経済を回すのは、発展途上の国が採用する成長モデルであり、先進国は古い建物を活用し、そこに付加価値を生み出す成熟型モデルを採用した方が圧倒的に大きな利益を得られる。” と言った話です。

 

 確かに、こうした文化遺産登録数の多い国は、先に述べたように、先進国と呼ばれる経済が比較的豊かな国であり、だからこそ成しえる芸当なのかもしれません。

 

 また別の話では、とある自治体が何の観光資源もない町を観光地化するためにはどうしたら良いかとある民俗学の教授に相談したところ、建物を立て替えず、今の生活を100年続ければ良いと言われたという話があります。

  

 しかしそこに生活がある以上、人は便利さや快適さを追い求めるので、100年の間、ちっとも近代化しない生活はできない、と私も考えてしまうのですが、これこそが『豊かな成熟社会』を実現していない証拠であります。

 

 豊かな成熟社会を実現した後であれば、先に述べたような成熟型モデルを用い、先進国は文化遺産を有利にお金にかえられます。社会が貧しくなれば、目先の利益を優先した経済運営が行われ、最終的には大きな富をもたらすはずの貴重な文化遺産を失っていくのです。ここ日本では、実際は過疎化によって廃村となる村々があり、そこには継承されてきて絶えることとなった無形の文化が山ほどあったでしょう。

 

 大きな「世界遺産」という枠にはかすりもしない遺産は山ほどあり、また、あったわけで、この世界遺産について学んでみると、そうしたことに思いを馳せます。

 

 

本当に大事なもの。禅の教えでは、一人一世界と言い、世界は各人にそれぞれ展開しています。あなたの世界遺産はなんでしょうか。その登録基準はなんでしょうか。

 

 

 こういった視点から考えますと、心の余裕や、私がいなくなった後の社会を考える余裕なき社会は、物質的豊かさも同時に失っているということがよくわかります。貧乏とは「貧に乏しい」とはよく言ったものです。「貧」とは貝(古くは財宝の意)を分け与えると書き、その「貧」の生き方とは、つまりは私がよければ良いという独善的な生き方ではなく、周りの人を利する生き方のことであり、仏教の説くところであります。この「貧に乏しい」貧乏な生き方ではなく、心にゆとりのある、そのゆとりに基づく「貧」の生き方が、より見直されて欲しい社会になりつつあると思います。

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1983年に世界複合遺産に登録されたペルー・マチュピチュ

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1991年に世界文化遺産に登録されたスリランカ・ダンブッラの黄金寺院

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1994年に世界自然遺産に登録されたベトナムハロン湾

 

すずめ達

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こんばんは、禅信です。

 

県内のお寺から蓮バチをいただいて3年、ようやく育てることに慣れて大きな花を咲かせる事が出来ました。

1年目2年目は早く花を見たい気持ちもあり肥料を余分に与えすぎて肥料やけさせてしまい、葉っぱも元気がなく花芽もうまく咲かせる事が出来なかったので今年はホットしております。

 

栄養であっても取りすぎては体を悪くしてしまう、私たちの体と一緒ですね。

蓮には2年間悪い事をしてしまいました。

 

 

先日、参禅会のでこんなことを聞かれました。

 

「和尚さんはもうワクチン打ったの?」

 

私の市では、ちょうど両親の世代60代の人たちが接種を終えてこれか若い世代に順番が回ろうかという所なのでまだ接種を受けておりません。

 

「まだ受けてないですよ」と答えると。

 

心配そうな顔をされて「早く打たないとだめよ」といわれました。

その時は気に留めることもありませんでしたが、改めてこのワクチン接種の事を考えてみると賛否がはっきりと分かれる事だと感じました。

 

 

私の身の回りでも接種に積極的な人と懐疑的な人それぞれがいますが、それに対してどちらが正しいかなんて事は私の計れることではありませんので話すことはありませんが。

 

家族で自然界の話をしていると父がこんなたとえ話をします。

「餌を見つけたスズメの群れがあった時に、

 ・真っ先に餌に飛びつくスズメ

 ・周囲の様子を見てから餌に向かうスズメ

 ・みんなが行ってから最後に飛んでいくスズメ

 スズメにもそれぞれ性格があって自然界を生き抜いているけれども、

 どれが正解ってことはないんだよな」

・初めに餌に飛びついたスズメは沢山の餌を食べる事が出来る、

しかし、数が少ない所天敵に狙われてしまうかもしれない。

・周囲の様子を見て飛びついたスズメも最後に飛びついたスズメも

先に天敵に襲われることは少ないけど、餌が食べれないかもしれないし出遅れたところを天敵に狙われるかもしれない。

 

自然界と同じように私たちも様々な個性、考えをもって生活しておりますが、

今回の自粛生活やワクチン接種の話を考えた時にどちらが正解かで言い争うことは無益な事だなとつくづく感じます。

 

「同事というは不違なり」あいての立場に立ってよりそう。

とても大切な事ですが相手を尊重して考える時には、

自分の考えも大切に持っておかなければなりません。

 

みんなが大変な中でそれぞれの想いをもって生活していますが、みんな同じ仲間ですから仲良く健康にすごしたいものです。

オリンピック開幕直前の暑さ対策

こんにちは、哲真です。

 

オリンピックの開会式まで後2日となりました。本日から始まる競技もあるようですね。このオリンピックはどのようになっていくかわかりませんが、選手の皆様が満足できる結果となることを願っております。

 

7月も下旬、暑さが身に応える季節。去年は梅雨で毎日が雨だったので暑さがそれほど気にならなかったのですが、今年はかなりの暑さです。

 

最近はエアコン完備されているお寺も増えてきていますが、地方の小さなお寺ではまだまだ完備とまではいきません。扇風機で何とかお勤めさせていただくのでが、終わった後は汗でびっしょりです。

 

和尚さんの着ている服は、「シースルーみたいで涼しそう」と言われることがあります。ただ、何枚もそれらを重ねて着ているのでかなりの暑さなんです。法事などではハンカチやタオルは常に携帯していないと大変です。その為、法事などの法要中に汗をぬぐったり、暑さ対策してても大目に見てくださいね。ただ、不思議と読経中は暑さが気にならないことが多く、終わった後に、こんなに汗かいていたのかといつもびっくりします。

 

さて、このような暑さの中に当寺ではただ今次々と蓮の花が咲いております。お寺には仏様が蓮の上で胡坐をかいている仏像がたくさんあり、皆様も見ることが多いと思いますが、蓮が咲く時期を考えると、かなりの暑さの中で仏様たちは胡坐をかいているということでしょうか。それも暑さなど気にしていない表情です。「暑い暑い」と言っている私は、まだまだ修行が必要ですね。

 

蓮の花は早朝開きお昼には閉じる、そのサイクルで4日間。4日目は夕方まで咲き続け、そのまま花びらを落として散っていきます。その為、昨日まではあんなに咲いていたのに、今日になったらほとんど散ってしまっているということがあります。儚い花だなといつも感じます。

 

仏様の世界でも咲いているといわれる蓮、8月が見ごろと言われます。見学に行く際は必ず暑さ対策をしていってくださいね。

 

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うちのお寺では、現在こんな感じです!!!

ある牧師さんとの出会い

皆さん、こんにちは。向月です。

今日、7月7日は七夕ですね。

子供の頃は、7月になると七夕飾りを作り笹かどうかに関わらず、

家中いたるところに貼り付けておりました。

本堂にお供えしてある花にまで短冊を吊り下げて、

住職からこっぴどく怒られた思い出があります。

七夕の起源は中国にあるようですが、現代の日本では織姫と彦星が

年に1度出会う日とされていますね。

皆さんにも素敵な出会いがあることをお祈りしています。

 

私は最近、ある牧師さんと出会いました。

その牧師さんは私のキリスト教徒の友達がよく通っている教会の方で、

「臨床宗教師」という活動をされている方でした。

臨床宗教師とは、病院などの医療機関福祉施設など

またグループカウンセリングといった場で宗教者の立場で

患者さんのお話しを聴き、心のケアをする活動をされている方でした。

この牧師さんと会ったとき、私の最近の悩み事や身の回りで

起こったことなどを30分程度話しました。

牧師さんは私の話に何か意見をいうでもなく、アドバイス

するわけどもなくただ聴いて相づちを打っていました。

私はおしゃべりな性格なので、相手の話をただ聴くといった

シンプルなことがとても大変で難しいことのように思えます。

それだけに牧師さんの「ただ聴く」という姿にとても魅力を感じました。

それから数回、牧師さんとお話をするためにこの教会に通いました。

 

 

ある時、臨床宗教師をしていて「死」への不安をどのように

和らげているのかと聞くと、牧師さんは「色々な方と話をすると、

「死」が不安というよりも、生きている時間が有限だから不安。

心残りを作ってしまう事への不安がある」という方が実は多く

いらっしゃるということに気が付くと言われました。

心残りの多くは「もう一度、あの人に会いたかった」というものが

多いそうです。

そこで、この牧師さんは「Goodbye Journey」というものを

推奨されています。

「Goodbye Journey」は「さよならを言う旅」。

動けるうちに、元気なうちに、会いたい人に会って、自分の口で

 

「もう会えないかもしれないけど、今までありがとう。さよならね」

 

といえる旅。

こういう旅の中で自分の人生に関わってくれた方に感謝を伝え、

またそうすることで少しづつ「死」への準備ができていくのだと思います。

 

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(以前行った、山中湖の富士山)

私も皆さんもいつか死にます。

それを意識した旅をすることは、けっしてネガティブなことではなく

むしろポジティブのではないかと感じます。

人生を「感謝」で締めくくれることは、とても幸せなことだなと思います。

 

まだまだ気楽に世界中旅に出れる状態ではありませんが、

いつか私も「さよなら」を言う旅に出たいと思います。

地下足袋の人生

みなさん、こんにちは。慧州です。

私ごとですが、先日祖母が亡くなりました。

大正5年生まれの祖母は102歳と大往生でした。

祖母と暮らしていた伯父からは、だいぶ前よりもう危ないという知らせもあり、覚悟はしていました。

訃報を聞いて、私は師匠である父とともに、実家のお寺へ車を走らせました。

コロナ禍で久しぶりの遠出、そして2年ぶりの実家への訪問。

運転する機会が減ったこともあり、ハンドルを握る手もどこか緊張感がありました。

 

そんな私を見てか、助手席に座っていた父が祖母との思い出話を語り始めました。

天寿を全うした今では信じられませんが、若い時の祖母は病弱だったそうです。

戦後間もないころのお寺はとても貧乏で、毎日畑を耕し、鶏を飼って卵を集める、自給自足の日々でした。

薬代すらまともに払えず、こっそりお小遣いをせしめようとした父は財布の中身のなさにとても驚いたそうです。

そのような生活でも祖母は何一つ不平不満を漏らすことなく、とても気丈に振る舞っていました。

 

祖母は元々お寺生まれで、縁あって近所にある別のお寺に嫁ぎました。

それが私の父の実家であるお寺です。

そして70年以上お寺を守り続けた祖母は、檀信徒を始め、多くの方々に信頼されていました。

祖母は、いつも孫である私が顔を見せるだけで、手を合わせて「よく来たね。ありがとう」と言うのです。

とても優しく、お寺の庭にあるお地蔵さんのような姿でした。

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それは幼い頃からずっとで、私にだけでなく誰に対しても本当に有り難そうに言うのです。

私は不思議でした。

お礼されるようなことはしていないですし、ましてや孫である私にそこまで恭しくしなくてもいいのにと思いました。

しかし、今ではあれこそ祖母が私に示してくれた生き方だったのだと思えてなりません。

 

法華経』には常不軽(じょうふきょう)菩薩という方が登場します。

常不軽菩薩はどんな相手であろうと、いつも手を合わせて礼拝しました。

人々は気味悪がり、罵倒し、枝や石を投げつけて迫害しました。

それでも常不軽菩薩は礼拝をやめず、言いました。

 

「私はあなた方を尊敬します。決して軽んじることはありません。

なぜなら、あなた方は皆菩薩としての道を歩み、仏になるのだから」

 

常不軽菩薩がどんな人にも手を合わせるように、祖母は孫である私を決して軽んじることはありませんでした。

今となっては祖母が常不軽菩薩のことを知っていたかはわかりませんが、手を合わせている祖母の姿と常不軽菩薩が重なって思い出されるのです。

 

 

葬儀を終えた後、喪主として伯父が挨拶をしました。

そして、祖母の生涯をこう評しました。

「母は地下足袋の人生でした」

90歳を過ぎても地下足袋を履いては草むしりばかりしていた祖母。

何かあると、「地下足袋地下足袋」と探し回っていたそうです。

 

どんなに地道でも、どんなに険しい道でも、地下足袋を履いて歩み続けた祖母の人生。

祖母の姿を思い出すたびに、私は畏敬の念を抱かずにいられない気持ちになると同時に、私自身の人生はどうであろうかとはっとさせられます。

 

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ギックリ腰になって

みなさんこんにちは尚真です。六月となり蒸し暑い日が増えてきました。今年は春の訪れも早かったので、例年よりも早い梅雨入りの地域が多いようです。

 

私は気が滅入るので雨が好きではありません。私の住む関東地方も傘の出番が増えてきて、そろそろ梅雨入りを迎えそうです。梅雨は嫌だなあと思う今日この頃です。

 

 

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梅雨は嫌いですがアジサイは好きです

 

 

最近、天気以上に気が滅入ることがありました。ふとした瞬間にギックリ腰になってしまったのです。私はあまりの痛さにそこから動くことが出来ず、カエルの様に五分ほど地面に這いつくばっておりました。

 

ちょうど一年ほど前にもギックリ腰になったのですが、その時は重い荷物を持った時でした。いわゆるアラフォーとですので、それ以降は重い物を持つ時は気を付けるようにしていたのですが。

 

しかし今回は手に何も持っていない状態だったので、年齢を感じて結構ショックでした。そのショックと腰の痛みと、そしてどんよりとした天気が相まってここ数週間は気が滅入る日々を過ごしておりました。

 

その間、腰の治療のために、週一回ほどのペースで整骨院に通っていました。前回のギックリ腰の際にもお世話になった、我が家御用達の近所の整骨院です。

 

その整骨院の先生は明るく爽やかで、話しやすく感じの良い方です。治療の技術もしっかりしておりとても信頼しています。

 

治療を受ける前に少し症状を伝えてからベッドに横になります。するといつも私の腰の痛いところをピンポイントでグリグリ押してきます。それが痛い事痛い事、我慢できずに悶え叫んでも全く力を弱めてくれません。

 

その後、鍼治療を行って一回の治療は終了です。治療が終わると腰の痛みは驚くほど軽くなり、先生の軽妙なトークで心も少しほぐされます。

 

いつも治療を受けていて思うのですが、私が押されて痛い場所を必ずピンポイントで押してきます。病院と違ってレントゲン写真を見ている訳でも無いですし、どうして分かるのでしょう。さすがプロは違うなぁといつも感心します。

 

そんな先生の治療を受けていると、子どもの頃、父に教わった話を思い出します。それは、長年掃き掃除を続けることで悟りを開いたお釈迦様のお弟子さんの話です。

 

そのお弟子さんシュリハンドクといって、物覚えが悪く、他のみんなと同じように修行をすることが出来ませんでした。そこでお釈迦様は「塵を払い、垢を除かん」と唱えながら掃き掃除をするようおっしゃりました。

 

長年掃き掃除を続けることで、いくら掃除をしてもまた汚れていくのは人の心も同じだということに気付きます。そしてお釈迦様の教えを理解することが出来たそうです。

 

世の中には様々な職業や技術がありますが、このシュリハンドク尊者のように、長年一つの道にひた向きに取り組んでいる人は、何かしら信念や真理の様なものを体得しているのだなと感じます。

 

ある日、治療中に先生がこんな事を言っていました。「痛みを和らげるためにストレッチを教えても、面倒くさがって実践してくれない患者さんが多い。私たちがいくら治療しても、最後に完治させるのは患者さん自身なのです」と。

 

私はその話を聞きながら、お釈迦様が亡くなる(涅槃)前に説かれた最後の教えの中に「我は良医の病を知て薬を説くが如し、服すと服せざるとは医の咎に非らず」という一節があるのを思い出しました。

 

これは文字通り、良いお医者さんが良い薬を出しても、飲むか飲まないかは患者さん次第、仏様の教えも実践するかしないかは本人次第といった意味です。

 

先生は体について話をしているつもりだったのでしょうが、私はお釈迦様の教えを改めて説かれているような不思議な感覚になりました。

 

その日から、先生に教えてもらったストレッチを毎日お風呂上りに実践しています。先生の治療と日々のストレッチのおかげで、腰の痛みはすっかり無くなり、今まで通りに体を動かすことが出来るようになりました。

 

体の調子が良いと心も晴れて、明るい気持ちで日々の生活が送れます。やはり身心一如、心と体は密接に関係していることが分かります。

 

先生のおかげで、心身ともに健康を取り戻すことが出来ました。そして人の話をしっかり聞くと、色んなところに良く生きるヒントが隠されているという事を実感する事も出来ました。

 

そのためには、自分の中で人の話を聞く準備が出来ていないといけませんね。薬を飲むか飲まないかは私たち次第なのですから。