旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

魔の間

こんにちは。向月です。

秋もだいぶ深まってきましたね。そろそろ冬の準備もしなければと思っています。

 

 

先日、石川県のお寺に行ってきました。

私の修行時代の先輩に会ってきました。

その先輩がご住職になられたので、そのための法要(晋山式)に

参加させていただきました。

修行時代は無口でぶっきらぼうな感じのする方でしたが、

久しぶりにお会いすると温かいイメージの方になっていました。

私以外にも同じ修行道場出身の先輩方が来ていました。

思い出話や互いの近況報告などで盛り上がりました。

 

最近の私の近況としては、失敗話ばかりです。

修行していた時から「けちらしの向月」とあだ名をつけられるくらい失敗の多い私でしたが、

最近になってまた失敗が増えてきました。(気を付けているのですが…)

 

 

この先輩の法要の中でも少々失敗をしてしまいました。

先輩がお弟子さん(首座)に教化を任せ、集まった僧侶たちと問答を交わす「法戦式」というものがありました。私もこの問答に参加させていただきました。

台本なしで好きなことを聞いてよいと言われていましたので、私も前日までいろんな問答を考えていました。

当日いよいよ大声で言い合う、迫力のある問答が開始されました。

私は4番目の問者です。

3番目までの方も迫力があったのですが、私はそれに負けないように大きな声で盛り上げようとしました。

 

問答の最初は「作者は!!」という文言で始めることになっております。

私も大きな声で「作者は!!!」と言い始めたのですが、大きな声を出すことに気を使いすぎて、せっかく考えた質問が頭から吹き飛んでしまったのです。

声を出しただけで忘れるものだろうかとお思いでしょうが、

実はよくあることなんです。

本当に真っ白でした・・・。

第一声の後、空白の時間ができてしまいました。

たぶん、2~3秒ほどだったと思います。私にはとても長く感じましたが。

必死に思い出そうと頭の中の引き出しを探し回っていました。

その2~3秒後、やっと質問を思い出し何とか問答をすることができました。

 

 

式が終わって、先輩方や僧侶の方からなぜかお褒めのお言葉をいただきました。

「あの場で大きな声を出した後、わざと黙って間を作るとはなかなかできない」と。

本当は違うんです。頭が真っ白になっただけなんです。

私にとっては、魔の間だったんです。

 

 

以前、布教(説教)について教えていただいたご老師に

 

「間を恐れるな。静寂を作れ」

「立て板に水のような話ではだめだ。人は静寂の中の音を聴く。」

 

と言われたことがあります。

今の世の中、たくさんの音で溢れていて、いい音や話だけを聞くことはなかなかできません。うわさ話や、いやな音。聞きたくないもので溢れていると感じます。

そんな時代だからこそ、人は静かなところから出てくる音に注目するのでしょうね。

失敗談から「静寂(間)」についてご老師からの言葉を少しだけわかった気がします。

 

 

また別の旅では「星の話をする人」との会話でたくさんの共通点を見つけたのですが、その話はまた今度。

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(先輩のお寺に通ってくる猫です。法要の日も本堂の外から眺めていました。)

カステラと餓鬼

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こんにちは、慧州です。今日は「食欲の秋」にちなんで、修行時代に感じた「食欲」についてお話したいと思います。

 

私たちは生きている以上、何かを食べなければなりません。食欲は一生付き合っていかなければならない本能だと言えます。しかし、今の日本において食欲とまともに向き合うこと、例えば飢えを覚えるような経験をすることがあまりないかもしれません。私の場合は修行中に生まれて初めて自分の食欲と向き合うことになりました。

 

修行中の食事はいわゆる精進料理と呼ばれるもので、とても質素です。朝はお粥に梅干し、ごま塩だけ。昼はご飯、味噌汁、漬け物におかずが一品。夜はおかずが二品。想像するだけで足りないだろうと思われるかもしれません。

 

修行道場ではおかわりができるご飯や味噌汁ばかりたくさん食べた結果、栄養が偏って脚気(かっけ)という病気になってしまうことがあります。そのため、先輩和尚さんからは「おかわりばかりするな」と注意されます。

 

しかし病気になると分かっていても、おかわりをやめることができません。決して量が足りないわけではないにも関わらず、食欲が止まらないのです。ひどい時には隣りの人に配られたおかずの量を気にしてしまうほど私は飢えていました。

 

そんなある日、仏さまにお供えしていたお菓子が沢山余ったことがありました。あまりにも多くあったため、このままでは廃棄するしかないお菓子。私は羨望のまなざしで積まれたお菓子を見ていました。

 

すると、私の様子を見かねたある先輩和尚さんが菓子箱を1箱渡してくれました。

 

「これあげるから、今のうちに食べちゃいなさい」

 

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まさに天からの恵み。早速箱を開けると、そこには箱一杯に詰められたカステラがありました。頭の中には様々な選択肢が巡ります。カステラを今この場で全て食べてしまうか、それとも小分けにして少しずつ食べるようにするか、あるいは持ち帰って他の修行僧たちとみんなで分け合うか。しかし私は迷うことなく、カステラをかぶりついていました。まるで恵方巻のように一人黙々と1箱まるごと食べてしまったのです。

 

カステラ1箱を食べてしまった私は、当然お腹を壊し、薬石(やくせき、夕食のこと)を食べることが出来ませんでした。事情を知らない他の修行仲間は私を気遣ってくれます。まさかカステラを独り占めしたからなんて口が裂けても言えません。一人悶え苦しむその姿は自業自得で、まさに餓鬼(がき)としかいいようがないものでした。


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(あらゆる食べ物・飲み物が全て火になり、満たされることがない餓鬼)

 

禅僧が使う食器の名前を「応量器(おうりょうき)」と言います。字義通り、「食事をいただく人の量に応じた器」という意味です。本来であれば、自分の量をわきまえていただくことが大切な修行となるわけですが、食欲に悩み苦しんでいた私はただ「もっと欲しい」という欲望に振り回されていました。

 

しかし一方で、自分の心が汚く、餓鬼のように弱い人間だと気づけたからこそ、初めて食べ物を無駄にしたくない想いが生まれ、目の前の食事に感謝していただくことができるのではないでしょうか。カステラを見る度に思い出すあの経験は、私の人生にとって大きな財産となっています。

幸せになるために

おはようございます、拓光です。

まず初めに台風19号により被害に遭われた皆さまに心よりお見舞い申し上げます。被災された皆様の一日も早い復旧を、心よりお祈り申しあげます。

 

近年の異常気象によるこのような災害が起きるたびに、人間は自然には敵わないのだと思い知らされます。人間は生きているとどうしても欲深くなってしまうものですが、悲しくもこういった災害を通して日常の有り難さを実感する方も多いかと思います。
今日はこのブログを通して、本当の幸せの在り方について考えてみたいと思います。

 

突然ではございますが、皆さんにお尋ねしたいことがあります。

「あなたは今幸せですか。幸福感を感じていますか。」


いかがでしょうか。

ちなみに国際連合が発表している世界幸福度ランキングでは、日本の幸福度は先進国の中では58位と最下位でした。 このあなたは幸せですか。という質問に、95%以上の国民が「はい」と答えるという国があります。皆さんも一度は聞いたことがあるかと思います。その国の名前はブータンです。

 

ブータンは何故幸せの国と呼ばれているのでしょうか。

その理由として国民のほとんどが国王の政治の素晴らしさを挙げます。ブータンは衣食住が充実していて医療や教育もすべて無償または格安で受けることが出来ます。 日本人の幸福度は先進国の中で最下位でしたが、今度は質問を変えてみます。


「今、着ている服は自分の服ですか?」
「今日お昼ご飯は食べましたか?」
「昨日は自分の家で寝ましたか?」

ほとんどの人が「はい。」と答えると思います。

つまり、先ほど話した通り私達はブータンの国の人々と同じで、衣食住や医療は足りているのに、幸せを感じられていないのです。

どうしてでしょうか。私達が求める幸せとは一体何なのでしょうか。そしてどうしたら私達は幸せを感じることができるのでしょうか。

 

今日、世界中の政治家や経済学者の間では、人間が幸せになる為には経済の発展と物質的に満たされることが必要不可欠であると考えてきました。 経済の発展、例えば今で言えばAI人工知能による簡略化です。簡単に言いますと、車のハンドルを握らなくても自動で運転をしてくれたり、人がいないレジで携帯をかざすだけで会計が出来たりなどの、便利で物に満たされれば私達人間は幸せになれると言っているのです。

 

しかしブータンはそれに反して、経済や物質的な満足が必ずしも幸せにつながらないと考えてきました。 ブータンの人々は経済の発展や物質的な満足によって幸せを求めるのではなくて必要最低限の生活をおくり、そのことで得る感謝の心、つまり精神的な豊かさによって幸せを求めたのです。

 

「感謝の心によって得る精神的豊かさ」とは、今私達が当たり前に持っているもの、当たり前に与えられているものに感謝をするということです。これこそが私達が経済などが発展することによって失ってしまったものであり、幸福感を得るために必要なものだと私は思います。

 

当たり前に持っているものに感謝をする。私達が当たり前に持ってるもので1番最初に挙げられるのが私達の身体だと思います。

曹洞宗の経典にある修証義というお経の中には「人身得ること難し、仏法おうこと稀なり」という一文があります。 「人身得ること難し、仏法おうこと稀なり」これは生きとし生けるものの多い中で、人間として生を受けるということは大変稀なことで、その中でも仏法、お釈迦様の教えに出会えることは更に稀なんですよという意味です。

 

お釈迦様は、「人間に生まれるということは、非常に有り難いことで幸せなことなんですよ」と言っておられるわけです。

さらに私達の命には限りがあります。今は平均寿命が延びて「人生百年時代」といわれていますが、いつか必ず死がおとずれます。そのやがて死すべき命が、今日もまだ亡くならずに、こうしてここで皆さんとブログを通して御縁を結ぶことができている。これもまた大変に幸せなことです。

 

次に私達の心の在り方についてお話致します。

私達が持っている煩悩、欲望は満たせば必ず次の欲望を生みます。私達はこの果てしない欲望とどのようにして向き合っていくか、付き合っていくかが問題になります。

 

お釈迦様の教えには「少欲知足」という言葉があります。

「少欲知足」とは、読んで字のごとく、「欲する気持ちを少なくして、足りることを知る」ということです。よく仏教は、無欲、つまり欲をなくすことを説いていると思われがちですがそうではありません。 お釈迦様は欲望を満たすことが悪いことだとは言っていません。そもそも欲を全くなくすということは不可能なことです。

 

実際、人間の三大欲求でもある食欲、性欲、睡眠欲を全てなくすことなど不可能です。お釈迦さまは欲にとらわれ、際限なく貪ることがよくないといっているのです。

極端な節約家やケチになるということではなく、「少欲知足」、必要最低限で満足する心を養いましょうということです。小さなことでもそこに喜びを見出し、感謝できることはきっと私達の心を豊かにしてくれるでしょう。 常に自分の心が喜びと感謝に満ちていることで、いつでも「幸せである」と実感が出来るのです。

 

つまり幸せになる為には、いかに日常の生活にある当たり前のことに感謝を出来るかということです。

 

人間として生まれてきたこと、衣食住が満たされていること以外で当たり前にある幸せを少し一緒に探してみましょう。

「 皆さんは自分の足に感謝をしたことがありますか?」

「 今日、仕事や買い物などの用事で外出をしましたか?」

外出する為には健康な足がなければできません。

普段は意識していないかもしれませんが、当たり前にある幸せはこのように様々な所に散らばっています。それを意識するだけで、今目の前にある当たり前の幸せにもっともっと気付くことが出来ると思います。

 

最後に詩人の相田みつをさんの詩に「しあわせはいつも自分のこころがきめる」というものがあります。

「しあわせはいつも自分のこころがきめる」まさにその通りです。幸せの形は人それぞれです。例えば立派な家に住んでいても幸せと思わない人もいます。逆に小さな家に住むことで幸せを感じる人もいます。

質素な生活だとしても心に感謝の喜びがあれば幸せです。 経済的にも社会的にもどれだけ恵まれていても、それを当たり前と思ってしまい心に感謝の喜びがなければ幸せとは感じられないでしょう。

つまり幸せを感じさせるものは、他者より大きく、より多いから幸せというのではなく、自分なりの人生、あくまでも自分の心に安らぎと豊かな喜びがあるかどうかだと思います。

 

最後におさらいさせていただきます。今回は「私達が幸せになる為にはどうしたらよいか」ということについて綴らせていただきました。

 

幸せを感じるためには2つポイントがありました。

1つ目は、今日も一日をつつがなく迎えられる幸せ、例えば朝ご飯がおいしいと感じることが出来るなどの、自分の周りに当たり前に存在する幸せに気づいているかということ。

2つ目は、幸せという価値観は他者と比べるものではなく、人それぞれであるということです。

私達は少し見方を変えるだけでいくらでも幸せになれるのです。

 皆さんが毎日を幸せに笑顔で過ごされますよう、心より御祈念申し上げます。

 

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日本中がONE TEAM

 皆さんこんにちは尚真です。先日の台風19号は各地に大きな被害を残していきましたが、このブログの読者の皆様は御無事でしたでしょうか?被害に遭われた方の少しでも早い復興を願うと共に、復興に尽力されているボランティアの方や自衛隊の方々の作業の無事を祈るばかりです。

 

 私の住む茨城でも大きな被害が出た地域があります。その中には私共の住んでいる地域に近い場所もあり、テレビで報道されている映像を見ると、見覚えのあるお店や看板が水に浸かるシーンが流されていて衝撃を受けました。

 

 そんな辛く苦しい思いをしている日本中を元気付けてくれる人達の存在がありました。現在日本で開催されているラグビーW杯に出場していた、ラグビー日本代表チームの活躍に日本中の人々が勇気付けられた事と思います。

 

 実は私も4年前にイギリスで行われた前回大会からのにわかファンです。自国開催の今大会ではグループリーグを全勝で突破し史上初の決勝トーナメントに進出しましたね。グループリーグの最終戦の相手は前回大会で唯一敗れたスコットランド。前日に台風が通過し試合の開催も危ぶまれる状況でした。そんな中、日本代表チームは日本中の様々な思いを背負って、プレーで私たちを勇気付けてくれました。

 

 決勝トーナメントでは前回大会では勝利した南アフリカに準々決勝で敗れ、日本代表チームは過去最高となるベスト8という結果で大会を終えました。屈強な外国のチームに、一丸となって挑んでいく姿は日本中に興奮と感動を与えてくれました。

 

 ラグビーは「ONE FOR ALL、ALL FOR ONE」と言うように、それぞれが自分の役割をこなしトライを目指す、自己犠牲も厭わないという様なスポーツです。また試合中はあれだけ激しくぶつかり合う選手達も、試合終了のホイッスルが鳴れば「ノーサイド」と言ってお互いの健闘を称え合います。

 

 実は私は高校生になったらラグビーをやりたくてラグビー部のある高校に進学しました。実際に入部はしませんでしたがそのような過去がある私は、ラグビーの持つこのような精神に非常に感銘を受けます。

 

 大会を通じて、日本代表チームが「ONE TEAM」と言うテーマの下、団結して試合に挑む様子が報じられていました。これは試合に出場する選手だけでなく、控えの選手、裏方のスタッフみんなで一つのチームとして戦うと言う結束を高める言葉です。キャプテンのリーチ・マイケル選手を始めとして日本の為にまさに「ONE TEAM」になって必死に戦う姿には毎試合本当に感動しました。

 

 日本代表チームだけでなく、他の参加国も代表チームもキャンプ地の日本人との心温まる交流の様子や、対戦チーム同士のファンが試合の前後に交流する姿など多く見られました。また台風で試合が中止になってしまったにも拘らず、災害復旧のボランティア活動をしてくれた参加国もありました。大会はまだ続きますが、日本各地で様々な「ONE TEAM」を見せてくれました。

 

 仏教にも「和合」と言う言葉があります。僧侶はともに助け合い、和を乱すことなく厳しい修行を共に行じていく訳ですが、まさにこの「ONE TEAM」に通じる所があり、皆さんの普段の生活にも通じる所があると思います。

 

 日本中を「ONE TEAM」にしてくれたラグビー日本代表。日本代表だけに留まらず各国のラガーマンが見せてくれた「ONE TEAM」と言う素晴らしい精神、にわかで終わらずに今後も自分たちの生活の中でも浸透していていくと良いなと思います。

而今に学ぶ。11

 こんにちは、俊哲です。

 

 

 このたびの台風19号により、被害に遭われた皆さまに心よりお見舞い申し上げます。被災された皆様の一日も早い復旧を、心よりお祈り申しあげます。

 

 

 さて、こんな時ではありますが、今回は旅をしている時に出会ったオーストラリア人の青年との話をしようと思います。

 

 今から5年前のこと、私はミャンマーを旅しておりました。当時は一部、規制は緩和されたとはいえ未だ軍事政権下のミャンマーは、入国時にビザが必要だったり、ヤンゴン市内のホテル不足で今まさに建設ラッシュを迎えている、そんな時期でした。まだまだ旅をするには不自由で、その不自由さや閉鎖的な雰囲気が逆に旅人たちを惹きつけておりました。

 私もそんなミャンマーを訪れてみたいと思いたち、行くからには第二次世界大戦で多くの日本兵も亡くなられたこの地で、戦死病没者の慰霊供養を行おうと向かいました。

 

ヤンゴン郊外や南部ダウェイ、そして北上していくとイギリス軍との激戦地があり、両軍のみならず地元のビルマ人たちもたくさん犠牲になった場所があり、各地に慰霊碑があります。私の祖父の兄弟も戦時中ビルマを歩いたとの手記があり、そんなことに思いを馳せなが歩いておりました。

 

 その旅の道中、バガン遺跡で有名なバガンの町から出る夜行バスに乗りこみました。私の席に向かうと隣の席はオーストラリア人の青年でした。バスに外国人は私と彼だけでしたから、なんとなく会話が始まり、互いの旅の話になりました。彼は学校の長期休暇を利用して旅をしていて、彼の祖母が今日本で暮らしていることから、この旅は日本で祖母に会ったところから始まったということ。そして、各地で泊まった宿で日本人の旅人と会ってきたことを教えてくれました。

 

 そんな中で、彼が私に聞いてきたことがあります。

「日本人は何か目標がないと旅をしないのか?」と。

彼が会ってきた日本人たちは、ギター片手に演奏しながら自分のギターを試す旅をしていたり、自分の旅の動画を撮影しながら鉄道で縦断することを目標にしていたり、それぞれ旅に目標や目的があったみたいで、そのことが凄く気になったようでした。

思えば私も、戦死病没者の慰霊供養という目的を持っていました。

 

理由なく旅をしないのか?と聞かれ、私はハッとしました。

 

 旅をする理由を掲げ、実際はそんなことをしたという自己満足のために行っていたのではないかと思うようになりました。

目標や、目的を持った旅をすることが悪い訳ではありません。ただ、私はどこかそうした旅自体に目標や目的を持つことで旅本来の良さを忘れていたような気がしたのです。

 

 慰霊供養は慰霊供養としてしっかりお務めをする。それ以上でも、それ以下でもなく。

 旅も、旅をしているそのままのあり方が旅の醍醐味であり、それ以上でもそれ以下でもないのだと。

 

 思えば、坐禅をする際にも同じようなことを教わります。坐禅をして何者にもなることはない。偉くなることもなければ、坐禅をして仏となろうとすることや、救われようとしてはならないと教わるのです。坐禅をしている時には、最初に教わったように姿勢を正し、呼吸を丁寧に行っていく。その坐禅をしている姿そのままに仏性が現れていると。

 

よく分からないなりにその意味を考えていましたので、その言葉が頭をよぎりました。

 

何かをしたら、何か結果を得たいと思うのは普通の感覚でした。でもその感覚に盲目になっていて、すでに現れている結果に気がつくことができずにおりました。

そのままの在りようをそのまま認めることができると、何かの事象に対して結果を得られないことへの恐怖が無くなります。

 

その後の私の旅は、肩の力が抜けたものに変化したように感じています。

 

夜行バスを降りて眺めた朝日の輝きを忘れることはないでしょう。

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ミャンマーの市場の風景

 

ジェントルマン

こんにちは!光彬です!
すっかり涼しくなり、秋の訪れを感じる今日この頃です!
夕方になれば日も短くなりましたね*
食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋なんて言葉が
よく頭を過りますが、みなさんは
どんな秋にしたいですか🍁?


さて、先日見た光景のお話です。
必要な買い物があり、百貨店へ買い出しに行かせて頂きました。休日でしたから大勢の人でごった返していまして、前へ進むのも一苦労といった状態でした。
目的のお店に到達し、買い物を済ませることが出来ました。ちょっと寄り道して、気になっていたものも見たりして、さあ帰ろうという時でした。
目の前から、スーツを綺麗に着こなしたまるで、映画から出てきたのではないかと錯覚するような
老紳士が歩いてきました。その方は、背筋をまっすぐ伸ばしキョロキョロ辺りを見回すこともなくまっすぐな視線で歩を進め、ごった返す人混みを気にする様子もなく、ましてや回りの人がその人の道を開けるかのような雰囲気でした。一瞬の出来事でしたが、なんとなく目を奪われました。
混み合うお店のなかでも、人にぶつからないように、また進行の妨げにならないように注意し、キョロキョロ辺りを見回して余所見することなく、それでいて堂々とまっすぐ歩く姿にそんな美しさのようなものを感じました。

我々の修行の中にも、
「威義即仏法 作法是宗旨」
(いぎそくぶっぽう/さほうこれしゅうし)という
教えがあります。
威義とは、整えられた衣服の様子や立ち居振舞いのこと、
衣服がキレイに着られ、立ち居振舞いが自然で美しい
様子は、その姿のまま仏の姿を表している、

作法とは、昔から続くやり方を素直に受け入れて何かを行うこと、作法を正しく素直に行うことが宗門の大切なことである
ということです。
これらは気を付けているつもりでも、少しでも油断があれば崩れてしまう繊細なことです。私も老紳士の立ち居振舞いを見て、自分はどうか、仏を表せているかと反省させて頂きました。

人は常に誰かに見られています。
だからということではありませんが、
美しい姿を保とうと意識すれば
心、言葉、動き、何かがいつもと変わるかもしれません。
共に行じて頂けたら幸いです*

寒暖差が有りますゆえ、
お身体大切に穏やかにお過ごし下さい*f:id:tabisuruzensou:20191009180119j:plain

散歩

こんにちは、禅信です。前回の記事を投稿してからあっという間に2ヶ月が経ち。
慌ただしく過ごしているうちに2回目の投稿が巡ってまいりました。

 


前回の記事で登場した柴犬の「フデ」と一緒に散歩をするのが

私の日課になっており、夕方の涼しい風に吹かれながら田舎道

を歩いていると日頃のことも忘れてリラックスできる大切な時間です。

 


しかし、年に数回1週間ほどお寺を離れて行事に参加する機会があり、

その時は母に散歩を頼み出発します。

 

 

私が出先から帰ってくると待っていました!!!と言わんばかりに、

跳ね回り甘えた声で散歩をねだります。
本当に人懐っこく可愛い犬です、

 


その日は、私も一週間の疲れもあったためいつもより短いコース

で散歩を切り上げようと思い歩いていました。


トイレも済ませ、お寺に近づいたところで急にフデが暴れてスポッ

と首輪が外れてしまいました。

お互いに「あ・・・」といったような表情で顔を見合わせましたが、

どうやら自由の身になったことに気が付いたのかサッサーと一目散に走り去ります…

 

すぐに追いかけ、フデが止まっているところに近づくと視線だけで

こちらの様子を伺い捕まえようと掴みかかるとチョロチョロっとまた逃げていきます。

 


1時間ほどフデの後をついて歩いていると、どちらが散歩されているのかと

情けに気持ちになってきます..

 

 

なんとか捕まえてお寺まで抱えて帰ります、抱えられている

ときは散歩を満喫した様子でおとなしく小屋まで運ばれます。

自由に散歩して本当に満足そうな顔をしていました。


結局、いつもの倍以上長い時間の散歩になってしまいました^^;

 

翌日、法事があり修証義の「行持報恩」を詠んでいると、


その中に、「此の一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり、

      この行事あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし、」

という一節が出てきました。


ここでハッと昨日のフデの様子を思い出しました。


犬も大切な時間を無駄にせず生きていたんだなと考えさせられました。
疲れていたから、雨が降っているからと自分勝手な理由をつけてさぼろうとしている私に、
「いつもお経を詠んでいるのにそんなこともわからないのか」と教えられた様な気持ちでした。


なんでもない日常がとても大切な時間、そんな当たり前のことですが。

素直に生きている動物の方が私たちよりもその事をよくわかっている

のかもしれませんね^^

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フデ