旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

彼岸ですね

こんにちは、哲真です。

 

ちょうど秋彼岸ですね。

お墓参りにいかれた方も多いことかと思います。

 

その頃に咲く花と言えば、彼岸花ですね。

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境内に、今年も咲いてくれました。別名、曼珠沙華とも言いますね。

毎年、忘れずに咲く 自然の力は偉大です。

 

 

それに加え、最近はネコがお寺にきているようです。

真っ黒いネコで、境内を散策しに歩き回っています。

 

野良猫なのか、飼われていたのかはわからない(首輪はしてないので飼われてはいないはず)のですが、お寺にいるいるということは病気を持っていたら大変と、動物病院に連れていきました。

そこで、検査をしてもらい異常は見当たらなかったので一安心。

 

検査が終わったあと、お医者さんから「この猫の名前は?」と聞かれました。

何も考えていなかった為、とっさに「クロ」でと言いました。

すると、周りにいた人たちがざわざわとしだし、

お医者さんからは「クロって名前多いんだよね」

それに病院に来ていた人からも、「そんな名前でいいの?」

と言われてしまいました。

そこは、動物が大好きな人たちの集まりやすい場所です。そんな適当な名前を付けてはいけなかったのです。

 

人も生まれてから名前をいただき、そして人生を歩んでいきます。その人をあらわすもので大事なものです。

猫に対しても、しっかりと名前を付けなければいけないんだなと改めて感じました。

 

 

自然で生きるものといえば、前々回の慧州さんのお話しで「G」について書かれていました。(内容やこちら → なぜGが怖いのか? - 旅する禅僧

私はいさせていただいているお寺では、そろそろ「K」が出没します。「K」とはカメムシのことです。

Kは刺激すると強烈な匂いを発します。それは洋服や肌についた場合にはなかなか取れません。

「あいつらだって必死に生きている」のだけど、あの匂いは勘弁してもらいたいものです。

 

 

自然の中に生きるものとして、花や動物、虫など様々なものと出会う機会をいただいています。その自然に感謝しながら過ごしていこうと思います。

お風呂のはなし

こんにちは。向月です。

暑さも和らぎ、ずいぶん秋らしい季節になってきました。

季節の変わり目は体調を崩しやすいので、お気をつけてください。

 

 

さて、今回は私の趣味の話から一つ。

私の趣味はお風呂(温泉)です。有名な温泉地を巡ったりもしますが、地元の人しか知らないような温泉に行くことが好きです。

温泉に行けないときは、近所のスーパー銭湯などに行って楽しんでいます。

そんな趣味から、温泉ソムリエや高齢者入浴アドバイザーなどの資格を取りました。

この資格の勉強で知ったことを生活に活かせたらと思っています。

 

 

皆さんは、実は入浴中に亡くなられる方が多いということをご存じでしょうか?

年間、入浴中に亡くなられる方は、交通事故で亡くなられる方のなんと約5倍もいらっしゃます。入浴事故は特に寒い時期に多くなります。

 

 

まだまだ、暑い日もあるから大丈夫!
自分はお風呂で死ぬことはない!

 

 

そう思われている方も多いのではないでしょうか?
こんな考えが実は危ないのです。

「自分は大丈夫」「今はまだ大丈夫」といった考え方を

楽観バイアスというようです。

この楽観バイアスがあることで、根拠もないのに安全だと考えてしまいます。

しかし、最初にも書いたとおり「入浴事故」で亡くなられる方は、

「交通事故」で亡くなられる方の約5倍です。

平成30年の消費者庁の調べでは約19,000人の方が亡くなられています。

実際、私がお葬儀させていただいた方の中にもお風呂で亡くなった方がいらっしゃいました。ご家族は「まさか、お風呂で亡くなるとは」といっておられました。

亡くなる原因は様々あります。最近、ヒートショックという言葉を耳にすることがあると思いますが、これも原因の一つです。

 

 

人間は、いつどんなかたちで最期を迎えるかわかりません。

未来のことはわからないのです。

わかっていることは、生まれたからには必ず最期の時が来るということです。

 

しかし、わからない未来を予防することはできます。

入浴事故で亡くならないための予防は「なぜお風呂で亡くなる方がいるのか」「どうしたら入浴事故が起こらなくなるのか」という知識をつけることが大切です。

「自分は大丈夫」という楽観バイアスを取り除き、予防することです。

  

これは、お風呂に関したことだけではありません。

生活する中で「こんなことでは死なないだろう」という

楽観バイアスを取り除いていきましょう。

楽観バイアスを取り除いても、生まれたからにはいつか最期の時がきます。

いつかくるその時が、ずっと先になるように今できることを

一生懸命やっていきましょう。

 

 

また、別の旅では「1+1=?」について考えることがあったのですが、その話はまた今度。

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山口県 柚木慈生温泉の浴室です)
 

 

なぜGが怖いのか?

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こんにちは、慧州です。9月に入ったにも関わらず、相変わらず暑いですね。

 

突然ですが、皆さんは題名のGが何か分かりますか?おそらく多くの方が嫌いであろう、ゴキブリ(以下、G)のことです。今日はこのGについて少し考えたいと思います。もし不快な思いをなされる方がいれば、ごめんなさい。もしよかったらお付き合いください。尚、この記事に写真は載っていないので苦手な方もご安心ください。

 

先日関東に台風が直撃しましたが、私がいるお寺の境内も荒れ放題になりました。そこで朝から箒で外を掃いていたのですが、突然ゴミ箱裏から黒い物体が二体出てきました。

 

そうです、Gです。それはおそらく大きい雄と小さい雌と思われるつがいのGで、散り散りに逃げていきました。思わずのけぞった私はその場を離れ、しばらくゴミ箱には近寄りたくありませんでした。こんな経験、皆さんも一度はあるのではないでしょうか?

 

正直言って、幼い頃から私はGが苦手です。あの黒光りした体で素早く走り去る姿は恐怖でしかありません。私の家族もGが嫌いで、家の中で見つけるとすぐに叫んで助けを求めてきます。そんなときは不殺生を掲げる僧侶でありながら、殺虫剤で殺してしまいます。

 

ですが、よくよく考えてみるとなぜこんなにGが怖いのかよく分かりません。似たような色をしているカブトムシはかっこいいのに、Gは気持ち悪いと感じてしまうのはなぜでしょうか?まるで親の敵のように追い立ててしまうのはなぜでしょうか?

 

ここで少し視点を変えてみて、想像してみてください。もしあなたがGだったら。

 

例えば、部屋にいて食べ物を探していた時。突然電気がつき、自分よりも何十倍も大きな人間に大声を出され、丸めた新聞紙や殺虫剤を片手に襲ってくる光景は、まさに地獄でしかないでしょう。

 

ある研究によれば、Gは人類が生まれる20万年前よりはるか昔、3億年前にこの地球に誕生したと言われています。しかも、誕生した当初から既に完成体ともいえる形で、ほぼ姿を変えることなく今まで生き延びています。その生命力はすさまじく、水だけで約3ヶ月生き延びることができ、放射能にも耐性があります。

 

私はどんな環境であろうとも生き延びることができるGは素直に凄いと思いました。そして、だからこそ私たちは本能的にGを脅威に感じるのかもしれません。

 

Gを恐れて嫌うことは自然な感情であり、家の中で見つけてしまえば殺さない選択はできないかもしれません。ただそれでも、少なくとも外では

「あいつらだって必死に生きているんだなぁ」

と感じる余裕を持てたら、とても素敵なことでないかと私は思います。

我逢人

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9月に入っても、まだ夏を思わせるような暑い日々が続いています。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

今月より投稿させていただきます。
拓光と申します。よろしくお願いします。
皆さんとこのような出会いの機会を設けていただき大変嬉しく思います。
本日は初回ということもあり「出会い」について話をさせていただきます。

 

皆さんは出会いを意味する「我逢人」という言葉をご存知でしょうか。
この言葉は私のお寺の先代の住職も大変好まれている言葉で、私は先代の住職よりこの言葉に出会わせていただきました。我、人に逢うなりと書いて「我逢人」といいます。

 

これは曹洞宗をお開きになられた道元禅師様が、正法眼蔵という書物の中で、師匠である如淨禅師様と出会ったことを書いたときに使った言葉で、人と出会うこと、つまり御縁の有り難さを説いています。

 

御縁というのは何とも不思議なものではないでしょうか。道元禅師様はあの広い中国大陸をご自身の足で歩いて渡り、如淨禅師様と出会いました。
その後、道元禅師様は日本へと戻り、曹洞宗をお開きになられました。その教えは何代にも渡って師匠から弟子、師匠から弟子へと引き継がれて、今現在こうして私もお寺の住職をさせていただいています。
もしかしたらこれまでの一人でも出会いがなければ曹洞宗は絶えていたかもしれません。そして私が今こうして皆さんの前でブログを更新していることもなかったかもしれません。


これは当たり前のことのように感じますが、よく考えてみると奇跡ともいえる大変なことではないでしょうか。
そんな人との出会いの素晴らしさを端的に表した言葉が「我逢人」。
私は僧侶になる前よりこの言葉を知っていましたが、その意味を本当に深く噛み締めたのは僧侶となり修行を始めてからのことでした。

 

お寺の住職になるためには修行道場で、ある期間修行をしなければいけません。そして、そこに入ると家族といえども、めったに会うことが出来ません。
そのようなこともあり、私は修行に入る前に5年ぶりに祖母の元へと挨拶に参りました。祖母は私が僧侶になるということを誰よりも喜んでいてくれました。祖母とは久しぶりの再会ということもあり、照れてあまり話しをすることが出来ませんでした。その時、私は「立派に修行を終え、立派な僧侶になった時にまた沢山話をしよう」と軽く考え帰路につきました。
しかし、修行を始めてわずか1ヶ月後、祖母は急性の病によってこの世を去りました。祖母の死の知らせを聞いたとき、私はすぐにあの時「また今度でいいか」と考えたことを思い出しました。そして「もっと話せばよかった」と後悔しました。もうそれは後悔という言葉では言い表せないほどの悲しみでした。

 

この祖母の死によって、出会いがあれば別れがあり、どんなに親しい相手でもいつか必ず別れなければならないこと、だからこそ人と出会うこと、その人と一緒にいられることはとても有り難いことなのだと、私は気付きました。そしてその時間は永遠ではないということを身をもって体験しました。祖母は私に、人と人との出会いや繋がりがどんなに有り難く、素晴らしいことだったのかということを、その死を通して教えてくれたのです。

 

私は今現在、沢山の方々が支えてくださっているおかげで住職として日々精進することが出来ています。これからもこの御縁に感謝をし、今後も自らの体験をもって御檀家様や一般の方々やこのブログを見てくださっている皆さんに「我逢人」の尊さを伝えていきたいと思います。

施食会法要を終えて

 皆さんこんにちは尚真です。年によって猛暑の年、冷夏の年とありますが、例年お盆を過ぎると風に少し涼しさを覚え、暑さが一段落するのは不思議なものです。今年は特に暑い夏でしたが、なんとか暑さのピークを乗り切る事が出来ました。

 

 多くのお寺では毎年お盆の時期に合わせて施食会法要が行われます。お檀家の皆さんがお寺に集まり、ご先祖様のご供養と共に、餓鬼道で苦しむ衆生、そして一切の諸精霊に食べ物をお供えして供養するという法要です。

 

 先日、私共のお寺でも施食会法要が執り行われました。丁度台風が関東地方に接近している時期でしたので天候が心配されましたが、法要の当日はなんとか天候は回復し、多くの檀家さんに参加して頂くことが出来ました。

 

 法要の後は、お寺から昼食を振舞います。折角お檀家さんが皆さん集まる貴重な機会ですので、共に食事の場を持つことによって、住職を中心として檀家さん同士での交流や意見交換などの場として頂いています。

 

 私共からお檀家さんにお食事を振舞う機会はそう多くありませんので、皆さんに喜んでいただけるよう内容や量など考えて準備しています。しかしお檀家さんの高齢化、夏の暑さのせいで食欲が落ちてなかなか箸の進まない方もいらっしゃいます。

 

ですが施食会法要で餓鬼道に苦しむ衆生を供養した直後の食事です。そんな中で我々が食べ物を無駄にしてしまうのは、折角の供養の功徳が無駄になってしまうような気持ちです。なるべく残さず召し上がって頂けるよう、毎年試行錯誤して食事の準備をしています。

 

 ここ数年、節分の恵方巻きやクリスマスケーキなどの食品廃棄の問題をニュースで目にする機会が増えてきました。節分の恵方巻きは関西地方では昔からある風習のようですが、関東在住の私としてはここ十数年のうちに知名度を得て、一気に広まった気がします。

 

 クリスマスや節分の際は、各社一斉に関連商品を売り出します。各社ともに需要量を想定し、ロスの出ないように生産量を調整している事でしょう。しかしそれでも目を覆いたくなる位の食品廃棄物がでてしまいます。ニュース映像で、道路工事で使うような重機で食べ物を処分する様子を初めて見たときは本当にショッキングでした。

 

 イエス・キリストは自分の誕生日にあれだけ大量のケーキと七面鳥が処分される未来が来ると想像していたでしょうか。俗にいう「縁起をかつぐ」ために、どこかで大量の太巻きが処分されていることを我々は知る必要があると思います。

 

 私一人ではクリスマスケーキや恵方巻き等の食品ロス問題を解決する力はありません。しかし出来ない理由を考えるのは簡単です。日々の生活の中で私に出来ることを一つずつ実践して行く事が、それが私達一人一人の施食の供養にもなるのではないでしょうか。

 

 暑さ寒さも彼岸までと言います。暑さも落ち着いてきたらそろそろ登山を再開しようと思う今日この頃です。皆様も残暑にはお気を付け下さい。

 

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残暑お見舞い申し上げます

而今に学ぶ。10

 こんにちは。俊哲です。暑い日が続いておりますね。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

 私は、この夏は暑い日が続いたこともあり、食欲が減退し、ついつい栄養の偏ったさっぱりした物を好んで食べておりました。ですので、倦怠感が増し、夏バテが更なる夏バテを招く負のサイクルに陥ってしまいました。改めて食事が自分の体に与える影響の大きさや重要性を実感しております。

 

 私の地元は茨城県で、この時期は日本一の生産量を誇るメロンをご本尊様にとお寺へ持ってこられる方がおります。お供物を受け取り、お供えをしていると箱に書かれた文字が目に入ってきました。

              『光センサー選果』

 これは、センサーを使って糖度を測り、一定の糖度以上を保証した証明でもあります。全国の友人に茨城の自慢のメロンを送る際には、私もその保証に頼っていたのですが、その時はふと「確かに甘いけれど、私の美味しいという味覚は光センサーで測れるのだろうか」と思ったのです。

 それは先日、南郷に住む友人からトマトを頂戴したことによります。送られてきた箱を開けると、大きく、形も不揃いで、中には少し青いトマトも入っておりました。食べてみると、肉厚で酸味があり、青臭さのあるどこか懐かしく、それでいて心から美味しいと感じるものでした。スーパーマーケットで売られるトマトは完熟で、形の揃ったものが並んでいます。それらはすごく美味しいのですが、最近はその姿に見慣れ、味覚も慣れてしまっていたこともあり、友人からもらったトマトに、野菜もそれぞれに個性があることを思い出しました。それと同時に私の食に対する考え方に疑問を抱くようになりました。

 

 

 私が幼い頃に食べていたメロンは今ほど甘いものばかりでは無かったように思います。スイカだって、イチゴだって何だってそうです。酸味が強かったり、実が硬かったりするものの中で出会う甘いメロンなどの果物が美味しかったのではないか、と思うのです。甘いメロンを確かに美味しく感じ、その甘いメロンを作る努力があります。でも、私達の美味しいと感じるメロンは、いつしかセンサーで測れる糖度の高い物となり、今ではセンサーで糖度が高いことを保証されたメロンだから美味しいと思って食べているのではないかと思うのです。

 

 曹洞宗では、道元禅師が『典座教訓』という料理を作る者の心得を著すなど、直接私たちに影響を与える縁や、きっかけとなる「食」は重要な事と位置づけられています。

 

美味しいメロンとはなんだろうか…。

 

 各人の味覚の好みとは別に、世間一般の美味しさとは糖度の保証があるものになっていて、本来そこにメロン一つ一つ個性があるはずが、そうした個性のあるメロンに出会う機会が減っているのでしょう。

 

 センサーで測ることは確かに一つの美味しさの基準ではありますが、その基準を元に盲目的に美味しいと知覚することはやはり危惧しなければならないと思うのです。

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南郷の風景

 

此処にある心

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みなさんこんにちは!
光彬ですm(__)m
お盆いかがお過ごしでしょうか??
山梨では雨が降ったり晴れたりと、
棚経で歩き回る私にとっては大変なお天気でした(;_;)

昨日(13日)の話です
例年通りお盆の棚経に回っていました。
お檀家さんはどなたも
暑いなかで汗をかいている私を迎えてくれて
一緒にご供養をさせて頂きました。

そんな中、いつもかわいい女の子のお孫さんがいる
お宅の番になり、お邪魔しました。
「お坊さんこんにちは!!また来てくれた!」と
大きな声で迎えてくれました*
手を繋いで、ご先祖様を祀っている部屋へ
一緒に行きました。そうしますと、
少し驚く光景が目に入りました。

たくさんの三ツ矢サイダーの缶と、チョコマシュマロ、
お魚の煎餅に、お餅がお供えされていました。
きゅうり馬と、ナス牛はありましたが、
水の子や和菓子、霊膳などはありませんでした。

すると、その女の子のお祖母さんが
申し訳なさそうに私に、「方丈さんすいません、この子がどうしてもこれをあげたいって聞かなくて、ほとんど支度をしてしまったんです、、これは間違った飾り付けですよね?」と。
その言葉を遮るように、女の子が、「間違ってないもん!去年お坊さんが、好きだったものお供えするのが良いって言ってたもん!」と言いました。


棚にはお祖父さんの写真とお位牌が飾られていました。
この方は、去年の夏に新盆を迎え、ご供養をさせて頂いた方でした。去年の飾り付けには、水の子も和菓子も、霊膳もありましたが、その時にその女の子がぽつりと言いました。「好きなものは食べられないの?」
私は、おじいちゃんが好きだったものを、お供えしてあげても大丈夫だよ、と言いました。

その事を覚えていて、今年は好きだったものを
お供えしてくれたようです。
特に、おじいちゃんが好きだったものと、
女の子がおじいちゃんと一緒に食べたものを
お供えしてくれたとのことでした。


「泥仏水を渡らず」という言葉があります。
粘土で作った仏様の象は、大変尊く、正しい信仰に導いてくれるものかもしれません。ですが、
水の上を越えることはできません。ましてや、いつかは乾ききって壊れてしまいます。
形にこだわり、執着するのではなく、
本当に大切なものに目を向けましょう。という事です。


普段置いてある飾りがないことで
違和感を感じてしまった私は
形にこだわり本当のご供養というものを
見失っていました。


お経が終わり、お疲れ様でしたと言うと、
女の子は満面の笑みで、
「おじいちゃん全部食べてね!」と言いました。
住職をさせて頂いている身ですが、
今年はこの女の子に勉強させて頂きました*

地方は16日までお盆が続きます*
このお話によって、
みなさんには心穏やかに、納得のいくご供養を
していただけたらと存じます*
夏も折り返しにきています。
どうか身心共にご自愛ください!