旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

而今に学ぶ。10

 こんにちは。俊哲です。暑い日が続いておりますね。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

 私は、この夏は暑い日が続いたこともあり、食欲が減退し、ついつい栄養の偏ったさっぱりした物を好んで食べておりました。ですので、倦怠感が増し、夏バテが更なる夏バテを招く負のサイクルに陥ってしまいました。改めて食事が自分の体に与える影響の大きさや重要性を実感しております。

 

 私の地元は茨城県で、この時期は日本一の生産量を誇るメロンをご本尊様にとお寺へ持ってこられる方がおります。お供物を受け取り、お供えをしていると箱に書かれた文字が目に入ってきました。

              『光センサー選果』

 これは、センサーを使って糖度を測り、一定の糖度以上を保証した証明でもあります。全国の友人に茨城の自慢のメロンを送る際には、私もその保証に頼っていたのですが、その時はふと「確かに甘いけれど、私の美味しいという味覚は光センサーで測れるのだろうか」と思ったのです。

 それは先日、南郷に住む友人からトマトを頂戴したことによります。送られてきた箱を開けると、大きく、形も不揃いで、中には少し青いトマトも入っておりました。食べてみると、肉厚で酸味があり、青臭さのあるどこか懐かしく、それでいて心から美味しいと感じるものでした。スーパーマーケットで売られるトマトは完熟で、形の揃ったものが並んでいます。それらはすごく美味しいのですが、最近はその姿に見慣れ、味覚も慣れてしまっていたこともあり、友人からもらったトマトに、野菜もそれぞれに個性があることを思い出しました。それと同時に私の食に対する考え方に疑問を抱くようになりました。

 

 

 私が幼い頃に食べていたメロンは今ほど甘いものばかりでは無かったように思います。スイカだって、イチゴだって何だってそうです。酸味が強かったり、実が硬かったりするものの中で出会う甘いメロンなどの果物が美味しかったのではないか、と思うのです。甘いメロンを確かに美味しく感じ、その甘いメロンを作る努力があります。でも、私達の美味しいと感じるメロンは、いつしかセンサーで測れる糖度の高い物となり、今ではセンサーで糖度が高いことを保証されたメロンだから美味しいと思って食べているのではないかと思うのです。

 

 曹洞宗では、道元禅師が『典座教訓』という料理を作る者の心得を著すなど、直接私たちに影響を与える縁や、きっかけとなる「食」は重要な事と位置づけられています。

 

美味しいメロンとはなんだろうか…。

 

 各人の味覚の好みとは別に、世間一般の美味しさとは糖度の保証があるものになっていて、本来そこにメロン一つ一つ個性があるはずが、そうした個性のあるメロンに出会う機会が減っているのでしょう。

 

 センサーで測ることは確かに一つの美味しさの基準ではありますが、その基準を元に盲目的に美味しいと知覚することはやはり危惧しなければならないと思うのです。

f:id:tabisuruzensou:20190821163016j:plain

南郷の風景