旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

忙しなく生きる自分へ

こんにちは、慧州です。

突然ですが、皆さんはこの言葉をご存じでしょうか?

「タイパ」

パフェの種類?あるいはタコパ(たこ焼きパーティ)みたいなもの?と思いきや、これは「タイムパフォーマンス」の略語です。

日本語で訳せば時間対効果と言うべきでしょうか。「これってタイパいいよね」と表現すれば、時間に見合った価値があるという意味になります。

 

例えば、動画再生の時は倍速で見ることで時間を節約しながら同じ情報量を得ることが出来たり、読む時間が惜しいからと言って本の要約を外注委託したり、プログラミング等を駆使してショートカットできるアプリを作成したり、マルチタスクをして作業効率を上げたり、あるいは買い物をする時間がもったいないから全てを通販、しかも送るものを予め設定できる定期便を利用するなど、今の私たちはデジタルの力によって多くの時間を節約することが出来ます。

 

100円均一や業務用スーパー、安価なノーブランド品の流行など、コスパ(コストパフォーマンス)、金額を意識する傾向は以前からあった話ですが、最近は時間すら節約する超合理的な世界へと変わっているようです。まさに「時は金なり」の最たる言葉がタイパなのです。

 

かくいう私も多くのタイパを知らず知らずのうちに実践していることに気づかされます。

もっと合理的に、もっと効率よく

タイパの追及は留まることなく、人々はより忙しなく生きているように感じるのは私だけではないでしょう。

 

日本の評論家・哲学者である東浩紀さんが、ある対談動画でタイパの危険性としてこう話されていました。

「生きていること自体がタイパが悪い」

https://www.youtube.com/watch?v=qGQCTJgyk1c&t=325s

確かにその通りです。

生きていることほど時間効率が悪いことはありません。

知らず知らずのうちに生まれ落ち、与えられた環境の中で教育・仕事と様々な競争をせざるを得ず、定年を迎えたと思っても今度は老いと向き合い、そして避けることのできない死に直面します。

釈尊生老病死を4つの苦と表現されたように、この命とは思い通りにならない最たるものでしょう。

 

タイパにおいて重要なのは、何が最終目的なのかということです。

人生はタイパが最悪なのは、生きる目的が何なのか、それが人それぞれであり、全く明らかではないからだとも言えます。

では反出生主義が叫ばれるように、生きる意味など無いのでしょうか?

 

道元禅師は時間についてこんな言葉を示されています。

「時間は存在であり、存在とは時間である」(『正法眼蔵』「有時」巻)

とても哲学的な言葉で何のこっちゃと思うかもしれませんし、私も正直よく分かりません。

ですが、確かに存在とはその時その時があってこその存在であり、一刻一刻と変化し続けながら存在します。

決して時間が自分の外にある物差しではなく、自分という存在に時間が一体となって現れている。

例えば、何かに熱中している時と退屈な講義を聞いている時との時間の経過の仕方は違ったものになるかもしれません。

だからこそ、時間を節約、つまりタイパを意識し過ぎることは、存在そのものをおろそかにするのではないでしょうか。

 

最近、お寺の坐禅会に初めて参加される方が増えてきたように感じます。

坐禅もまたタイパの悪い行いであるにも関わらずです。

沢木興道老師が「坐禅をしても何もならない」とおっしゃったように、坐禅に目的はありません。

それでも坐禅に魅了されるのは、タイパとは無縁な世界観にあるのではないでしょうか。

「何もない」

坐禅の常套句であるこの言葉を、今生きている私に対して心の底から言えるのか、試されているような気がします。