皆さんこんにちは。慧州です。
今日は3月30日。お彼岸も終わり、ちょうど年度末です。
決算に追われたり、4月からの新生活で引っ越しをしたりと、何かと慌ただしい日々を過ごしているかもしれません。
私がいる東京では桜が開花しました。
コロナを迎えて早2年以上経ちますが、桜だけは変わらずに咲いている姿を見ると、感慨深いものがあります。
私ごとではありますが、先日33歳になりました。
人生100年と考えると、ちょうど3分の1を終えたということになります。
多くの人がそうだとは思うのですが、過去を振り返ればそれは決して真っ直ぐの道ではありません。
私の場合は、どんな場に置かれたとしても目の前の現実を受け入れることが出来ず、自分に足りないことばかりを追い求めてきた人生でした。
高校時代は受験勉強が嫌で友達と遊ぶことばかりを考え、
大学時代は僧侶になることが嫌でお寺と関係ないことばかりに取り組み、
修行時代は修行が辛いと感じて、早く修行を終えて仏教の勉強をしたいと強く願い、
大学に入り直し仏教を学び直す時代は知識だけでなく現場で活動をしたいと思いました。
いずれにおいても今やるべきことから目を背け、過去の選択肢に後悔しては、他人と比較をして羨ましく感じてしまいました。
他のことに手を出してはすぐに結果を求めて、また隣の芝生が青く見えてしまう私は、頭の中で常に「他人」という物差しで自らを測っていました。
まさに競争の中を一人で「生き急いで」いたのです。
最近ある変化がありました。
それは歩くスピードです。
20代の頃はいつも忙しなく、人混みを歩く際は他人を抜かしてはさらに歩幅を広げ、そして目的地に向かって無駄なく歩いていました。
その姿はどこか孤独で、何かに取り憑かれているかのようでもありました。
ところが子どもが生まれてからは、一緒に歩く機会が増えました。
歩幅を合わせるせいか、以前に比べてゆっくり歩くようになったのです。
子どもとは勝手きままなもので、当てもなく寄り道をしたり、「疲れた」と言って立ち止まったりと、全く思い通りになりません。
当初は中々時間通りに目的地に行けないことにイライラをしてしまうことがありました。
ですが、最近はなぜだかゆっくり歩いて見える景色も悪くないものだと思えるのです。
他人を意識することなく、また歩くことを頑張りすぎないからかもしれません。
坐禅と坐禅の合間には「経行(きんひん)」という時間があります。
長時間の坐禅で足がしびれや眠気を取るためにゆっくり歩くのが経行です。
歩く坐禅とも呼ばれる「経行」ですが、その歩き方は次のように定められています。
「坐禅を終えて立って歩く時は、必ず一息半趺の法を行いなさい。一息半趺とは、前に歩く際に半歩を超えないことである。その際、足を前に進めるのは、必ず一呼吸の間である」(道元禅師 中国における日誌『宝慶記』より)
いわゆる「一息半歩」と呼ばれるように、一息ごとに半歩ずつ歩みをすすめるのが経行のやりかたです。
あたかも「その場で止まっているかのように歩くこと」が経行の秘訣とも言われます。
私のお寺の坐禅会でもこの経行を取り入れています。
しかし、初心者にとってはこのゆっくり歩く行為が難しいようで、バランスを崩してしまったり、つい歩幅を多く取ってしまう時があります。
私はこの経行をしていると心がとても落ち着きます。
呼吸を意識してゆっくり歩くことが、心までゆっくりさせるのかもしれません。
現状に満足しない姿勢、向上心は人生においてとても大切だと思います。
ですが、それだけではいつか躓いたり、時には心が折れてしまうかもしれません。
「慌てない慌てない、一休み一休み」
アニメの一休さんの台詞を頭に反芻させながら、まずはゆっくり歩こうと思います。