旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

諦め

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みなさん、こんにちは。慧州です。夏から秋へと移り変わり、マスクを着けていてもだいぶ息苦しくない季節になってきました。

 

3年前から始まった旅する禅僧ですが、実は今回の記事で私の担当が21回目を迎えていました。定期的に「何かを書く」という経験はこれまでなく、試行錯誤の繰り返しでした。

初めはこれまで経験したことを思い思いに書けたため、そこまで苦にすることはありませんでした。ですが、段々記事を積み重ねていく中で、話のネタというものが思いつかなくなり、困ってしまいました。結局、今回の内容についても1週間以上苦悩しつづけていました。

 

そんな時、たまたま観ていたテレビ番組で、「人間のひらめき」に関する特集が流れていました。最新科学によれば、なんと1日に2~3時間は何も考えない時間が「ひらめき」につながりやすいという結果が示されていました。その理由は、考えないことが、頭の中にある一見関係のない記憶同士を結びつけて、新しいアイデアなどにつながるからだそうです。

では、忙しない現代社会において、何も考えない時間を設けるにはどうすればよいのだろうか。そう思っていると、とても簡単な方法が紹介されていました。

それは、散歩です。外の景色を眺めながらゆったりと歩くことが、ひらめきには有効だそうで、番組内でもある研究者が定期的に散歩する時間を大切にしていることを紹介していました。

よくよく考えてみれば、人が何かを考えて煮詰まる時に、体を動かしたり、他のことに集中することで問題を打開することは、昔からよくある話です。

 

ある禅僧にこんなエピソードがあります。

香厳智閑(きょうげんちかん。?~898)という中国僧が、かつて悟りを求めて一生懸命修行に励んでいました。とても聡明で、博識な方で知られていました。しかし、いくら学びを深めても、悟ることができませんでした。香厳禅師は自らに絶望して悟ることを諦め、「絵に描いた餅では飢えをしのげない」と、それまで集めていた、大切な書籍を全て焼き払ってしまいました。

時は経ち、草の庵を結んでいた香厳禅師は庭掃除をしていました。すると、たまたま持っていた箒が小石を掃き飛ばし、その小石が近くにあった竹にぶつかりました。そのぶつかった音を聞いて、香厳禅師はたちまち悟ったというのです。

このお話では、香厳禅師が自然の声という真理を聞いたから悟ったと言われています。しかし大事なのは、それ以前に真剣に悩んだということ、そしてその悩みを諦めることで初めて気づいた事実だということです。もしそうでなければ、私たちはいつも自然の声を聞いて、悟ることができるはずです。

そして、「諦める」という言葉には「もう希望がないと断念すること」という意味で捉えられますが、仏教的には「明らかにすること」という意味があります。ひらめきという名の気づきは、まさに悩み抜いた結果、自ずと明らかになったことなのです。

 

「時には諦めが肝心」

悩み抜いて問題を一度放っておく余裕が、今の私たちに必要なのかもしれません。