みなさん、こんにちは。慧州です。秋が深まり、寒くなってまいりました。
先日ある生き物との出会いと別れがありました。
ある夜のこと、帰宅した私は自転車を駐輪場で停めようとしました。すると突然足元から「グェ」という声が聞こえてきました。驚いた私は足元をみると、そこには大きなヒキガエルがいました。
幸いにも自転車で引いた様子はなく蛙は無事でした。しかし、駐輪場のど真ん中にいる蛙からは全く動く気配がありません。ここにいたらまた別の自転車で轢かれるかもしれない。そう思った私は落ちている葉っぱを使って「あっちに行きなさい」と声をかけながら動かしました。
蛙は何も言わず、駐輪場の入り口にぴょこぴょこと移動し始めました。ひとまずこれで大丈夫だ、そう思った私は自宅に戻りました。玄関で靴を脱いだ頃には私の頭の中からはすでに蛙の存在は消えていました。
明くる朝、外では雨が降っていました。気圧が低いせいかいつもより目覚めが悪く、なんだか嫌な予感がする朝でした。私はゴミを捨てるため、外に出ました。
傘をさしながらゴミ捨て場に向かうと、道端に何かが落ちているのを見つけました。それは昨日駐輪場でみかけた蛙でした。おそるおそる近づいてみても、蛙はピクリともせず息を引き取っていました。外傷は見当たらないのでたまたまその場で力尽きたのか、あるいは車や自転車に轢かれたのかわかりません。冷たい雨粒にさらされたその大きな体はどこか寂しげに見えました。
死んでいると分かった瞬間、私は思わず目を背けてしまいました。昨日私が蛙を誘導しなければこうはならなかったのではないだろうか。わたしのせいでこの蛙が死んでしまったのではないだろうか。どこか罪悪感のようなものを感じました。
僧侶である私は死と出会う機会が多い方だと思います。お葬式では多くのご遺体を目の当たりにし、ご遺族の方々の悲しみを感じてきました。しかし、お葬式で悲しみは感じても、死への恐怖・嫌悪感というものは感じたことはありません。
しかし、道端で死んでいる蛙を見ただけで私の心は大きく動揺していました。そのリアルな死を目の前にして、何か見てはいけないような気持ちになりました。それはその蛙の死を受け入れられない、そして死そのものへの恐怖のようなものでした。
たまたま前日そのヒキガエルと出会ったから感じたのかもしれません。遅かれ早かれ蛙はどこかで死んでいたかもしれません。今この瞬間ですらどこかで何かが死んでいるかもしれません。でも、私は目の前にある死を見て動揺しているのです。
生きている私と死んでいる蛙。何が違うのか。
そんなことを悶々と考えていると、ふとある言葉を思い出しました。
「悟りという事はいかなる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事はいかなる場合にも平気で生きている事であった」正岡子規『病牀六尺』(一部、仮名遣い等を修正)
明治期の俳人である正岡子規(1867-1902)が死を目の前にして残したこの言葉。
果たして私は平気で生きているのか。蛙の死はその覚悟を試しているような気がします。
みなさんはどうでしょうか?