旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

御朱印に込められた想い

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 こんにちは、慧州です。今日は仏教ブームの一つ、御朱印についてお話したいと思います。

 

 御朱印の魅力といえば、なんといっても手書き。独特なくずし字で書かれた墨字に朱色の三法印や寺社印が押された御朱印は、一つの芸術といってもよいほど見事なものです。最近では金・銀色の和紙に書かれたものや絵が描かれたものなど、変化に富んだ御朱印が人気です。

 

 その一方、御朱印を巡ってはトラブルも続出しています。改元にあたって多くの方が「平成最後の御朱印」や「令和最初の御朱印」を求めにお参りされました。しかし、中には転売目的による高額な売買や長蛇の列に伴うクレームも生まれ、一部では御朱印が中止されるなど、大きな社会問題にもなりました。

 

 そもそも現在のような「参詣の証としての御朱印」が本格的になったのは、一説には明治時代以降といわれており、元々は寺にお経を納めた代わりにいただく証明でした。特に巡礼して御朱印をいただく形になったのは「お遍路」がルーツとされています。

 

 例えば、四国八十八ヶ所霊場巡りは、弘法大師の足跡をたどる中、各地のお寺で納経した代わりに御朱印をもらいました。歩けば一ヶ月以上かかる苦難の道。やっとの想いでお寺にたどり着き、納経することで仏との結縁と加護を得ると信じられています。また、かつては希少だった紙にお経を書き、奉納することは本当に大きな功徳があったと信じられていたことでしょう。そこでは各地を廻る過程やそれぞれで込められた想いが重要であって、極端なことをいえば御朱印はその副産物でしかないとも言えるのです。

 

 少し話は変わりますが、幼い頃私は千葉にある某遊園地に友達とよく一緒に行きました。ご存じの通り、そこは大勢の人がやってくる人気スポットです。行列を作りながら、時には1時間以上もアトラクションを待つこともありました。行列で待っている間は、友達と談笑したり手遊びしたりしていました。しかし、午前中は大丈夫でも、午後になると段々疲れて黙り込んでしまい、しまいにはアトラクションに乗っている最中に寝てしまったこともありました。

 

 しかし、当時のことを振り返ってみると、アトラクションはもちろん楽しかったのですが、むしろ待っている間の他愛のない会話であったり、道中で気づいた景色がとても印象に残っています。「次乗るときは席順変えようぜ」「そういえばこの間、〇〇に彼女ができたらしいよ」なんて、各人が思い思いに話します。遊園地に限らず、旅行であったり、会社のプロジェクトであったり、受験勉強であったり、多くのことは「結果に至る過程」に思い出が詰まっているのではないでしょうか?

 

 御朱印巡り自体を否定するつもりではありません。御朱印は気軽にお寺や神社にお参りをするきっかけになり、敷居をさげてくれます。しかし一方で、本来の目的を見失い、御朱印の見た目の良さだけが一人歩きしてしまう恐れもあります。御朱印という結果だけが注目されるのではなく、求めに行く過程を楽しめる文化として定着してほしいと思います。