旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

而今に学ぶ。4

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 こんにちは。俊哲です。この記事を投稿している十二月五日は、朧八摂心という期間中になります。これはお釈迦様が菩提樹下にて瞑想をし、十二月八日の明けの明星を見てお悟りなられたという故事を元に、禅宗寺院では一日から八日の朝まで坐禅を集中的に行う期間のことを言います。

 

 とはいえ、現在副住職として寺におりますと、御本山での修行時代のようにゆっくりと一日坐禅だけをしていることもなかなかできません。まず“坐禅”があって、そこに一日の予定があった御本山での生活と、空いている時間を作り、見つけて坐禅をする現在の立場というのは比べることができません。

  そうして考えてみると、大変なことも多く慌ただしいように感じていた御本山での日々は、実際は恵まれていた時間だったと今になって感じております。その修行時代の坐禅一つにせよ、ただ坐っていられたのも食事を用意してくれる者、配膳してくれる者、その間も電話番をしてくれる者がいて、その坐禅は成り立っていたのです。自分の考えが及ぶ範囲でもたくさんの方が支えてくれたのですから、自分が直接支えてもらったという思いが及ばないところの方達の支えがあったことも言うまでもありません。

 

 曹洞宗を日本でお開きになられた道元禅師が坐禅の要項を記された書物の中に、『回向返照の退歩を学すべし』という一文があります。「学びたい」という欲があって坐禅に出会うことは悪いことではありません。ただ、その探求を私たちは外に、外に求めてしまいがちです。その外に求める強い光を内側に向け、しっかり自分を返し照らしなさいというのが、このお言葉です。退歩というのは根本に立ち返るということを意味しております。外の世界があることを知りながらも、その世界と関わる私を知ること。これが世界をありのままに見る第一歩です。

  何度か寄稿させていただいているように、私も外国を旅することが多く、また周りから“外を知ることは良いことだ”と声をかけてもらうことが多くあります。私の旅に出始めたきっかけも、外に答えを探しに出たのがきっかけです。しかし旅を続けているうちに実はそれらは“私”を介して見ることしかできず、まさにこの回向返照の言葉のごとく、私を明らかにしていかねば、世界の本質が見えてこないことが分かりました。

 

 朧八摂心に際して改めて自分とは何なのか向き合ってみると、修行時代のことが思い出される。修行時代のそれも今になり恵まれていたことに気づき“感謝”の思いが湧いてくる。そしてそれは今この瞬間も未来には過去となり、その時には恵まれていたのだと思い返すのでしょう。そして新たに未来に光を求めてしまう。実際は多くの支えによって今この瞬間も生かされた、守られた時間なのです。そのことに気づき、今この時に満足できなければ、いつまでも外に、外に光を求めるのと同じことなのです。

 

私から世界を見ていたものを、世界から私を見ていく

 

皆さんの中にある、仏心がますます輝かれますことを願っております。