旅する禅僧

より多くの方々に仏教をお伝えし、日常の仏教を表現していきます

国籍に思うこと

 

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こんにちは、慧州です。先日、生まれて初めて物件探しというものをしました。東京生まれ東京育ちの私は一人暮らしの経験がないため、物件探しは少し不安ではあったものの、反面新しい生活に夢膨らむ期間でもありました。さっそくネットから探し始め、いくつか良い物件があったので、不動産会社へ問い合わせをしました。すぐにメールで返信が来たのでさっそく開いてみると、意外な返事が来ました。それは外国籍の方へ紹介する物件はないという返答でした。

 

ネットから問い合わせをしたので名前と連絡先だけを送ったのですが、おそらく私の名前の漢字から、外国籍と判断されたのだと思います。すぐに自分は日本国籍ということを再度連絡して事なきを得ましたが、国籍を理由に断られることは初めての経験でした。私は少しショックを受けると同時に、自分の心の中にある「日本人」という自覚に改めて気づいたのです。

 

国籍を感じる瞬間は今ではごく当たり前に起きています。例えば、東京ではちょっと歩くだけでもすぐに外国人の方とすれ違います。それは観光地だけに限ったことではなく、例えばコンビニに行っても店員が外国の方しかいないことが多かったりなど、まるでここは外国のようだと錯覚することが多くなっています。

 

その一方で、テレビ番組では日本に来た外国人へのインタビューや日本の良さを改めて強調する番組が増えているようにも思います。まるで自分が住んでいるこの国が何なのか、誰かに確かめないと不安で仕方ないかのようです。

 

最近ニュースでも国籍を意識することがありました。それは女子テニスの全米オープンに優勝した大坂なおみ選手のことです。彼女はハイチ人と日本人のハーフですが、幼少期からアメリカに住んでいたため、日本語をうまく話せません。それに対してネット上では「日本語がしゃべれないのに日本人なのか」という意見もありました。いわゆる「言語の壁」というものです。

 

国籍を規定するもの、果たしてそれは日本語を話せる能力なのか。それとも出生地や見た目、振る舞い、あるいは心意気によるものなのでしょうか。理想としては、そもそも国籍という枠組み自体が人間の勝手な物差しであり、同じ地球(あるいは宇宙)に生まれた同じ生命と気づくことかもしれません。しかし、私が物件探しの時に受けた疎外感の根底に存在する、「日本人としての自分」という事実を否定する自信も私にはありません。

 

私なりの答えは未だ出ません。ただ、物事に裏表があるように私たちの言葉や価値観には違いがあることに気づくこと。そして、それを理由に区別することがあっても差別はしない、そういう在り方を模索したいと強く感じるのです。